第4章 吾唯足知

26 反ホワイトチョコレート同盟

 七月。高くなる気温と蝉の声に夏を感じるが、未だ梅雨は明けず、じめつく日が続いている。

 月曜の放課後。真夏日の暑さの中、いつもと同じく渡り廊下を通って図書室へと向かう。湿気を帯びた廊下は、歩くたびに小さな音が鳴った。

 図書室には、すでに真木が来ていた。いつものようにカウンターで背中を丸めて本を読んでいる。妙に眉を顰めて本を睨みつけているけれど、何か機嫌を損ねることでもあったのだろうか。ページを捲る手がやけに早い。カウンターに入る時に「お疲れ」と声をかけたが、こちらを見ることなく頷くだけだった。

 鞄をカウンターの下に放り込み、いつものイスに腰を下ろす。ふうとひと息つくと、古びたイスの背がぎいと音を立てた。汗ばんだ肌に冷房の空気が心地良い。

 人気ひとけのない図書室をぐるりと見回して、今日は暇そうだなと心の中で呟く。返本もないようだし、案内や展示の用意も先週で片付けてしまった。これだけ利用が少ないなら、書架整理も必要なさそうだ。

 カウンターに目を落とすと、今日の日付を知らせる案内が先週のままだった。いつもなら司書の人が朝に変えてくれるはずだが、珍しく忘れてしまったんだろう。数字を入れ替えて今日の日付に変更する。二〇一四年七月十四日、月曜日。

 作業を終え、イスに座ったままで大きく伸びをする。ついでのようにあくびが出て、涙で視界が滲んだ。手持ち無沙汰にカウンターのパソコンから図書検索画面を開き、意味もなく〈たかや〉と入力してみる。検索ボタンは押さずに入力した文字を消去し、今度は少し迷って〈さくら〉と打ち込んでみた。カーソルを検索ボタンにあて、クリックしようとしたところで、人差し指を止める。デリートキーを叩いて全ての文字を消し、あいた検索窓にもう一度〈たかや〉と入力した。スペースを空けて〈m〉と打ち込んだところで、すぐ隣から声がかかる。

「高谷」

 驚いて肩が大きく跳ねるのと同時に、両手を思い切りキーボードに叩きつける。慌てて声の方を見上げると、呆れた顔をした真木がすぐ側に立っていた。ちらりとパソコンに視線を走らせ、画面にデタラメな文字が表示されているのを確認して、胸を撫でおろす。

「え、と、何?」

「文化祭のチラシとポスター、去年のを参考にしたいんだけど、どこにしまったかわかる?」

「ええっと、ああ、そうだな、確か右の引き出しにまとめてあったと思うんだけど……」

 早口で答えながらあたふたと動く。挙動不審な俺を、真木は無表情で見つめていた。

 ばたばたと引き出しを引っかき回していると、真木が「古本市の」と小さく呟いた。

「ああ、古本市ね。そうだね、そろそろ準備しないといけないですよね」

 なぜか敬語になる俺に、真木が首を振る。

「違う、あれ」

 真木が指す先、図書室の入口には、本の束を抱えた年配の女性が困った様子で立っていた。焦って引き出しに頭を突っ込んでいたせいで、人が入って来たことに気付かなかったらしい。

 女性は錆びついた音を立てながらドアを閉めると、よいしょと両手で本を抱えなおした。慌てて駆け寄り、女性の手から本を受け取る。

「ありがとう」と微笑む女性に、「いえ」と返してカウンターへ案内する。首から下げているストラップを見るに、おそらく生徒の保護者だろう。

「本の処分を頼めるって聞いてきたんだけど」

 イスに腰掛けた女性がにこにこと話す。優しげな声が上品に響いた。こちらも笑顔で受ける。

「文化祭の古本市に出す本ですね。こちらで引き受けますよ」

「ああよかった。どうもありがとう」

「いいえ、本がたくさん集まると、図書委員会としても助かりますから」

「あら、本当に?」

 女性の顔がぱっと輝いた。

「実はこの夏に引っ越しをするのだけど、古い本がたくさんあって困っているの。よかったらこちらで引き取って頂けないかしら」

「ええ、もちろん。何冊くらいありますか?」

 女性は「そうねえ」と考える素振りを見せた。

「二百冊くらいかしら」

「え」

 二百冊。

 それは、ちょっと、いや、だいぶ多過ぎるかもしれない。「一人だと大変だから、今度、孫たちと一緒に持ってくるわね」という言葉に、若干顔が引き攣る。

「とても助かるわ。本当にお願いしてしまっていいのかしら?」

 嬉しそうに微笑む女性に、全力で笑顔を作って胸を叩いて見せた。

「もちろんですよ。喜んでお受けします」


「お人好し」

「いや、だってさ」

 女性が帰った後、古本を抱えながらため息をつく俺に、真木の冷たい視線が刺さる。

「あんなふうに喜ばれたら断れないって」

「喜ばれるなら何でもするの?」

 真木が呆れた顔で小さく息をはく。

「何でもってことはないけど、まあ、できることなら、たぶん」

 逆立ちと腹踊りくらいならやるかもしれない。……いや、やっぱり腹踊りは嫌だ。

 真木は俺が抱えていた古本の束から一冊を手に取ってぱらぱらとめくった。

「選定と値付けは手伝う。傷みが強くて値がつかない本の廃棄はお願い」

「……ごめん」

 謝る俺に、真木はふんとそっぽを向いた。


 受け取った古本を確認して、ひとまずカウンター内の棚に並べる。いずれ届くであろう二百冊をどこへしまおうかと考えながら、カウンターをぐるりと見回した。

 ふと、目に止まったバインダーに手を伸ばす。はさまれていた記録用紙に何気なく目を落とした。

「今日の入館はゼロか?」

 真木が無言で顔を上げる。

「さっき古本を置いてった人がいるから、一にしとくぞ」

 鉛筆を取る俺に、真木が首を振った。

「入館者カウントの対象は利用者だけ。IDがない人はカウントしない。うちの図書室は教員と生徒以外は利用者IDを発行していないから、さっきの人は対象にならない」

 開いていた本を閉じた真木が、ちらりと視線を投げる。「四月の委員会で確認したはずだけど」

 思わずぐうと唸る。すっかり忘れていた。

「いやあ、生徒と教師以外の利用なんてほとんどないから忘れてたよ」

 実際は生徒と教師の利用もあんまりないんだけど。

 あははと誤魔化すように笑うと、真木は小さくため息をついて立ち上がった。カウンターの隅に置いていた鞄に手を入れて、何かを取り出す。

「ん」

 ん?

 一応、聞き返してみる。

「何?」

「ん」

 一文字とはなんと横着な挨拶があるものか。我らが日本の文化の行末が思いやられる。それもこれも、若年層の国語力の低下が……

「うるさい」

 小芝居をしていたら、案の定、冷たい声でつっこみが入った。

「ん」

 また「ん」かと真木を見上げると、目の前にビニール袋が突き出された。透明な袋の中に、ふわふわとやわらかそうなケーキが見える。

「シフォンケーキ」

「そだね」

 見りゃわかるよと答えたのと同時に、真木が袋から手を離した。落ちるケーキを慌てて受け止める。

「あげる」

「へ?」

「今日の調理実習で作った。味見はしたから、多分食べられる」

 早口でまくしたてた真木が、ぷいとそっぽを向いた。いつもは白い頬が少しだけ赤い。

「たいしたものじゃないけど、この前の御礼」

 それだけいうと、真木はすとんとイスに腰を下ろした。置いていた本を引き寄せ、すごい勢いでページを捲る。

 これは、なんというか、わりと嬉しい。

 緩みそうになる頬を引き上げて「ありがとう」というと、本から顔を上げた真木が「ん」と頷いた。

「生クリームはついてないけど、文句いわないで」

 用意はしてたんだけど使えなくなっちゃって、と真木が不満そうな声で呟く。

「そんな贅沢はいわないって。ありがとな」

 しかし、そうか、なるほど。

「真木はシフォンケーキには生クリーム派か」

 ふむふむと頷くと、真木は当然という顔をした。

「シフォンケーキには生クリーム。日本人の常識でしょ」

 そんな常識は寡聞にして存じ上げない。

 ふむ。そこまでこだわりがある生クリームを添えていないというのはどういうことだろう。「使えなくなった」といっていたけれど。

「もしかして、クリームの泡立てに失敗したのか?」

 泡立てすぎた生クリームがかたくなってしまうという失敗は、俺も何度か経験がある。

「あれって急にかたまりはじめるから、慣れるまでタイミングはかるの難しいよな」

 真木が小さく頷いた。

「最初は私も何度か失敗した。けど、今日のケーキに生クリームが使えなかったのは、泡立てるのを失敗したからじゃない」

「それじゃ、なんで?」

 真木に限って、材料の用意を忘れるということもないだろうし。

 ちらりとケーキを見た真木が、ふうとため息をついた。

「調理室の冷蔵庫が壊れてしまったの。昨日の夜から動いていなかったみたい。中を開けて確かめてみたけど、全く冷えてなかった。実習の材料は先週までに用意するようにいわれていたから、必要なものは全部調理室の冷蔵庫に入ってた。さすがに、あのクリームは使えない」

 なるほど。確かに、この暑さの中で一晩放置された生クリームは食べられない。

「オーブンは無事でほんとによかった」

 小さな声で呟いて、真木は手にしていた本をぱたんと閉じる。

「本当はチョコレートを使ったお菓子を作りたかったんだけど、今回の授業で使える材料にはホワイトチョコレートしかなかったから」

 総合科の実習なんだからレシピくらい好きに決めさせてくれたらいいのに、と不満そうに真木がいう。

「ホワイトチョコレートじゃダメなのか?」

 あの甘さが苦手だという人がいるのは知ってるけど。

 訊ねる俺に、真木はほんの少し口を尖らせた。

「私、ホワイトチョコレートはチョコレートと認めてない。カカオマスが入っていないのに、チョコレートを名乗るのはおこがましい」

「ココアバターは入っているじゃないか。チョコレートの基準は満たしてる」

 反論すると真木に睨まれた。眼鏡の奥の目がきらりと光る。怖い。

「チョコレートは黒いダイヤなんだから、黒くあるべきなの。白いチョコレートは邪道」

「マグロもクワガタもイチジクも黒いダイヤだろ」

「クロマグロもオオクワガタもビオレソリエスもどうでもいい」

 反応が面白くてつい言い返してしまったが、品種までは知らなかった。さては真木のやつ、黒いダイヤ愛好家だな。

「私は小学生の頃に〈反ホワイトチョコレート同盟〉に加入してるから、ホワイトチョコレートを認めるわけにはいかない」

 拗ねたようにぷいとそっぽを向く真木に、堪えていた笑いがもれる。真木がこんなに饒舌なのも珍しい。それに、食べ物にこだわりがあるとは意外だった。

 くつくつと笑う俺を真木が睨む。その子どもっぽい表情に、よけいに笑いが込み上げてきた。

 やわらかなシフォンケーキが手のひらの上でふわふわと揺れる。

 とりあえず、真木について新しくわかったことが二つ。シフォンケーキには生クリームを添えることと、反ホワイトチョコレート同盟に加入しているということだ。

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