16 それを人は愛と呼ぶんだ

「邪魔するよ」

 ドアから顔を出したのは美術部顧問のブラッド先生だった。部屋に入り、檜山先輩を見つけた先生が嬉しそうに手を振る。

「檜山くん、ちょうどよかった、君にも見せたいと思っていたんだ」

 そういうと大股でずかずかと第二美術室へ足を踏み入れる。木島と石上が驚いた表情で顔を見合わせた。

「ついさっき小杉先生から素晴らしい作品を見せてもらってね。これはぜひ作者に一言いいたいと思って会議から急いできたんだよ。写真部の部長はいるかい?」

 篠原先輩が怯えた顔で手を上げる。ブラッド先生がにこりとした。

「篠原さんだったのか。いや、いいね、これはいい写真だよ。僕、これ好きだなあ」

 先生は持っていた緑の封筒をがさがさといわせながら写真を取り出す。篠原先輩が焦った顔で懸命に両手を振るが、先生から写真を奪うわけにもいかない。

 取り出した写真を丁寧に机に並べると、ブラッド先生は腰に手を当てて胸を張った。

「ほら、どうだ、素晴らしいだろう」

 全員の目が写真に向けられる。

 篠原先輩が涙目になりながら両手で檜山先輩の顔を覆った。「おい」という不機嫌な声が檜山先輩からあがる。

 並べられたモノクロの写真には、いくつもの美術作品が写し出されていた。コンクリートの壁に飾られた油絵。昼下がりの芝生に広げられたスケッチブック。雨打つ窓辺に佇む彫刻。真冬の廊下に転がった針金人形。古びた商店街のシャッターに貼られたポスター。どれも作品と背景が調和し、光と影が作品全体をやわらかく包み込んでいる。撮影された時の季節、時間や温度、静けさ、雨や風の音さえ、説明されなくても写真が雄弁に語っていた。

 ふと、写真の一つに目が止まる。作品と風景を写した中で、ただ一枚、人を写したもの。

 絵筆を手にキャンバスを見つめるその横顔は、檜山先輩だった。檜山先輩の写真を見つけた木島が「あ」と小さく声をあげる。それを聞いた篠原先輩は、真っ赤な顔で檜山先輩の顔に両手を押し当てた。顔に当たった手のひらが軽くぱしんと音を立て、「おい」と檜山先輩から不満の声があがる。

「……これ全部、部長の作品ですよね?」

 呟いた石上が檜山先輩を振り返った。顔から篠原先輩の手を引き剥がした檜山先輩が、写真を覗き込んで頷く。

「ああ、そうだな。俺の作品だ」

 写真をさっと一瞥した檜山先輩が、篠原先輩を見下ろした。篠原先輩は赤い顔で口をぱくぱくと動かしている。掴まれた手首まで真っ赤になりそうだ。

「美奈、この写真は……」

 檜山先輩の言葉を遮って、部屋のドアがまたがちゃりと開いた。

「堀内、勝手に先に行くな」

 開いたドアから小杉先生が入って来る。

「会議資料を押し付けていきやがって。ペンも机に放り出したまま、イスも出しっ放しだ。いつまでも成長しないやつだな、お前は」

 ブラッド先生が嫌そうな顔をする。

「来るなり小言とは無愛想なやつめ。芸術家なら素晴らしい作品を見たらじっとしていられんだろが。ほれ見ろ、この写真。パッションを感じるだろ、パッションを」

「パッションを感じたとしても常識ある大人は叫びながら廊下を走ったりはしないんだよ。お前の分の資料はまとめて職員室の机に放っておいたからな。あんなゴミ溜めのような机じゃ書類か紙屑かわからんだろうが」

「ゴミ溜めじゃない。あの秩序ある無秩序が理解できんとは、全くつまらんやつだ」

 ブラッド先生と小杉先生の皮肉めいた会話が続く。その場にいた生徒全員がぽかんとした顔でそれを見ていた。

「そんなことより小杉、これは素晴らしい作品じゃないか。篠原さんが撮ったんだって? 次の写真部の展示に使うという話だったが、ぜひ美術部にも貸して欲しい。檜山くん、この写真を文化祭のパンフレットにどうかな? ああ、いや、パンフレットではもったいないか。どうしようかなあ」

 一人嬉しそうに話し続けるブラッド先生に、小杉先生がため息をつく。

「その前に本人から許可をとってくれ。篠原、この写真を美術部に貸してもいいか?」

「え、あの、私、この写真は」

 篠原先輩が戸惑った表情で手を振った。困り切った様子を見かねて檜山先輩が助け舟を出す。

「先生、文化祭のパンフレット用の写真なら他にもあるでしょう。わざわざ写真部から借りなくてもいいと思いますが」

「それはそうだが、僕はこの写真が気に入ったんだ。とても情熱的だからね。珍しく小杉が興奮して見せに来たのがよくわかるよ。なあ?」

 ブラッド先生が隣に立つ小杉先生に目配せする。小杉先生が深く頷いた。

「うん、この作品は素晴らしい。静かで情熱的、かつ包み込むように優しい。それに何より、愛がある」

「愛、ですか?」

 聞き返した木島の横で柴本と石上もそろって首をひねる。

 愛とは何ぞや。

 小杉先生がふむと腕を組んだ。

「写真に大切なのは何かわかるか?」

 急な問いかけに俺たちは互いに目を見合わせた。

「光の加減とか、ピントとか……」

「フィルムやカメラの性能に合わせて被写体を選ぶ……こと?」

「創作のひらめきとかアイデアとか」

「色や構図ですか?」

 思いついたまま口々に答える俺たちに、小杉先生は満足そうに頷いた。

「技術は必要だ。作品作りのアイデアもな。しかし一番重要なのは、愛だよ、愛」

「愛」

 その場にいた全員の声が重なる。

 いつもしかめっ面の小杉先生の口から発せられる言葉として、これほど似合わないものがあるだろうか。

「そう、愛だ」

 小杉先生が嬉しそうに笑った。口元は微笑んでいても眉間の皺は完全には消えていない。よほど深く刻まれているらしい。

「写真への愛、カメラへの愛、作品への愛。そして何より、被写体への愛だ。光の加減や切り取り方一つで被写体は全く違う顔を見せる。写真は真実を写すものじゃない。嘘も誤魔化しも誇張も簡単だ。都合の悪いものはいくらでもなかったことにできる。隠すのが得意なのは何もデジタルだけじゃないんだ。

 机の傷や廊下に舞う埃、落ちる水滴の一つ一つ。どこを切り取り、何を見せたいのか。それを決めるのは撮影する本人だけだ。ファインダーをのぞいた先に見えるものは人によって全く違う。その人が世界をどう見ているのかは、写真を見ればすぐにわかる。

 被写体をどれだけ愛しているのかも」

 みんな黙って小杉先生の話を聞いていた。たぶん、授業の時より真剣に聞いてたんじゃないかと思う。隣でなぜか得意げな顔で頷いていたブラッド先生が、にかりと笑って小杉先生の背中を思い切り叩いた。

「いや、その通り。たまにはいいこというなあ小杉。陰険眼鏡にしてはよい講義だった」

「痛い、やめろ。軽薄野郎に褒められても嬉しくない」

 ブラッド先生の手を払った小杉先生が、不愉快そうにしっしっと右手を振る。

 木島が恐る恐る訊ねた。

「あの、先生たち、仲が悪いんじゃ……?」

 一瞬、きょとんとした顔を見せたブラッド先生が豪快に笑い出した。

「悪い悪い、週末はいつも酒を飲みながら喧嘩してるよ。先週も二人揃って篠田先生にしこたま叱られた。いつまで幼稚な喧嘩してるんだってね」

「叱られたのはお前だけだ。一緒にするな」

 小杉先生が不愉快そうに眉を寄せる。

「先生たちが血まみれの大喧嘩をして、止めに入った松本先生が倒れて怪我をしたって話は……?」

 呆気に取られた顔で柴本が呟く。

「ん? なんの話だね?」

 ブラッド先生が首を捻った。

「あれだよ。何年か前に北棟の美術室で大騒ぎしただろ。松本先生がペンキを蹴倒した時だ」

 小杉先生の言葉にブラッド先生がおおと手を打つ。

「そんなこともあったねえ。松本先生がひっくり返った拍子に赤いペンキを思い切り蹴っ飛ばしたやつだな。確か、作品展の展示の順番が決まらなくて言い合いになったんだよ。どっかの頑固者が全く折れなくてねえ」

「頑固はお互い様だ」と小杉先生の目がぎろりと光る。

「見かねた松本先生が『腕相撲で決めたらどうです?』なんていうから、僕も小杉も乗せられちゃってね。でも『のこったのこった』って行司役をしていた松本先生が、勢いあまってひっくり返っちゃったんだな、これが」

 ブラッド先生が愉快そうに笑った。

「ペンキが美術室中に飛び散って、床が真っ赤に染まった。サスペンスドラマに負けないくらいの事件現場だったね。まあ犯人は足を滑らせて床に転がってたんだけど。いやいや、あの時は大変だった。掃除に手間はかかるし、篠田先生からは説教を喰らうし」

 ふと遠くを見つめながら「笑顔のまま静かに怒る篠田先生は怖いんだよねえ」と呟くブラッド先生に、小杉先生の眉間の皺が深くなる。どれだけ叱られたんだろうか。さすがの小杉先生も篠田先生には敵わないらしい。

 ブラッド先生がにこりとして篠原先輩を見た。

「作品にこれだけの愛情が込められた写真はなかなか用意できない。美術部としても喜ばしい限りだ」

 小杉先生が頷く。

「私もこの作品を発表する場は多い方がいいと思う。すぐでなくていい。写真を貸し出す件は考えておいてくれ」

 先生たちの言葉に、篠原先輩は小さく頷いた。

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