10 この再会はきっと必然だった

 昇降口で靴を履き替え、正門へ向かう。職員室へ鍵を返しに行ったところで、図書委員会顧問の津田先生につかまり、少しばかり帰りが遅くなってしまった。今日の委員会議事録がほとんど白紙なのはどういうことかと訊ねられたので、「そういうことです」と答えたのがまずかったらしい。

「こんにちは」

 正門を出たところで、後ろから声をかけられる。振り返ると、この間の桜色リップクリームの君がちょこんと立っていた。軽く上げた右手をぱたぱたと振りながら近付いてくる。

 喉の奥がひゅっと音を立てた。

 俺の前まで来ると、後ろ手に首を傾げてにこりと笑う。

「今日は図書委員じゃないの?」

 上目遣いの大きな目がきらきらと光る。

「うん、そうなんだ。あ、いや、図書委員だったんだけど、さっき終わった」

 喉の奥から何とか声を絞り出す。

 まずい。走ったわけでもないのに息が切れそうだ。可憐な少女の目の前で男がはあはあ言い出したら変質者確定だ。一歩間違えたら通報されてしまう。……最悪の場合、過呼吸ということにして誤魔化そう。

 深く息を吸って気持ちを落ち着ける。

 大丈夫。普通に。クラスの女の子と話すつもりで。

「図書室に何か用事でもあった?」

 できる限りいつも通りの声で話しかける。心臓が口から飛び出しそうなのを何度も飲み込んだ。

 桜色リップクリームの君が「ううん」と首を振った。

「あなたに会いにきたの」

 あなたにあいにきたの。

 ふむ。あなたとは誰のことだろう?

 首を捻って、たっぷり3秒。

 ……俺か!

「え、な、なんで? なんかした? 俺?」

 まさかすでに通報レベルの失態を犯しただろうか。百歩譲って逮捕されるのは構わないが、目の前の天使に嫌われるのだけは耐えられない。……いや、やっぱり逮捕されるのも嫌だ。

 天の審判を待つ囚人のように悲痛な表情をしているであろう俺に向かって、桜の香りをまとった天使が美しく微笑んだ。

「あのね、失くし物をしてしまったんだけど、一緒に探してくれる?」


 数分後、俺は天使と並んで北棟の廊下を歩いていた。

「美術室で失くしたってことは、君も美術選択なの?」

 歩きながら話しかける。俺の質問に、天使がぴたりと足を止めた。

「そういえば名前をいってなかったね。私、百瀬ももせ美桜みおっていうの。美しいに桜って書いて、美桜。よろしくね」

 なんということでしょう。麗しい天使は名前まで美しい。百瀬がにこりと笑う。

「あなたの名前は?」

「俺は高谷。あ、高谷は苗字で、名前は、とうといに文学で貴文。高谷たかや貴文たかふみといいます、よろしくお願いします」

 新入社員の挨拶みたいになってしまった。

「素敵な名前ね」

 百瀬が右手を差し出す。

「よろしく、貴文くん」

 天使の御手に触れてもよいのだろうか。躊躇ためらっている俺の手を百瀬がつかんだ。握りしめた右手に暖かさが伝わる。柔らかさに眩暈めまいがしそうだ。

「貴文くんの選択教科は?」

「俺は美術」

 そっかあと頷いた百瀬は少し考える素振りを見せて、にこりと笑った。

「私は音楽なの。クラスの友達が美術で、この前美術室に寄ったんだけど、その時に落としちゃったみたい」

 なるほど。

「落とし物は何か訊いてもいい?」

 物がわかれば探すあてもある。美術室は第一も第二もたいして広くはないが、物によっては隙間に入ってしまっている可能性もあるし。

 一瞬の間のあと、百瀬はにこりと笑った。

「バレッタ」

「ばれった?」

 何だろう。新種のお菓子だろうか。

「そうなの。うっかり机の上に置いて忘れちゃったみたいで」

 困った顔も可愛い。

 いや、しかし、バレッタとは何だ?

「ごめん、百瀬さん。バレッタって何?」

 きょとんとした百瀬がうふふと笑った。

「あ、そっか。男の子だとピンとこないよね。あのね、バレッタって髪留めのことよ。こんなふうに髪をはさんで留めるの」

 百瀬が自分の髪を持ち上げて指先ではさむ仕草をした。やわらかな明るい色の髪がふわりと揺れる。

 何となくイメージできた。あれか。

「あの髪飾りってバレッタっていうんだ」

 頷く俺に百瀬が笑った。

「ところで百瀬さんは」

「百瀬でいいよ」

 百瀬の笑顔に見惚れながら、セーラー服の胸元をちらりと確認する。学年組章をつけていないから、同い年なのかがわからない。学年組章は式典以外には着用しなくても構わないというルールになっている。ピンバッジの学年組章は、制服が傷付くのを嫌がって付けない女子は多い。百瀬もその一人なのだろう。

 式典時以外に関しては、烏山高校の制服はわりと自由だ。「制服」というより「標準服」という方が正しいだろうか。黒を基調としたシンプルなデザインで、男子は学ラン、女子はセーラー服と決められているが、普段はそれぞれ自分の好きなようにカーディガンやパーカーを着たり、シャツやリボンの色を変えたりしている。

 百瀬は淡いクリーム色のカーディガンを羽織り、薄いピンクに白のラインが入ったリボンを結んでいた。白い夏服の胸元で桜色のリボンがふわりと揺れる。

「百瀬はさ、何組なの?」

 たぶん同い年だろうとあたりをつけて呼び捨てにする。もし先輩だったら後で謝ろう。

「……どうして?」

 百瀬がこくんと首を傾げた。

「美術室。第一と第二、どっちかと思って」

 烏山高校は特選科、特進科、総合科と学科が三つある。かつては全日制普通科のみの普通校だったらしいが、総合高校の特色を取り入れた新たな学科「総合科」が数年前に創設された。加えて、特別進学コースとして「特選科」の枠を設け、それまであった「普通科」の名称を「特進科」に変更した。「都立高校初の試みであったこの三つの学科の併設は、はじめは反対意見が多数派だったが、進学、就職ともに強く、生徒の自主自立を育む多様な学習環境が魅力ということで、現在では世田谷区を中心とした近隣の地域に愛される学校となっている」。……都立烏山高校公式ホームページより、羽佐間校長挨拶を引用。

 つまりどういうことかというと、クラスによってカリキュラムが大きく異なる。各学年、1から4組は総合科、5から7組が特進科、8組が特選科と分けられていて、芸術選択は各学科の中で合同授業として行われている。教室はそれぞれ、特選科と特進科が第一美術室、総合科が第二美術室だ。カリキュラムの違う学科で同じ教室を使うと十分な学習環境を確保することができないからという理由で分けられているらしい。

 特進科7組の俺が使っているのは旧校舎北棟にある第一美術室だから、ついいつも通りに北棟へ向かってしまったが、百瀬のクラスによっては新校舎西棟の第二美術室へ行くべきだったのかもしれない。

 百瀬が俺の目をじっと見つめた。

「え、と、何かな?」

 なんだろう。どこかおかしいだろうか? もしかして寝癖がついたままとか?

 緊張で固まる俺の前で、百瀬の視線が顔から胸元へゆるゆると流れる。やがて、にこりと笑った。

「私、1組なの。貴文くんと同じ2年生」

「あ、そう、なんだ」

 思わずほっと息をはく。なんだったんだ、今の間は。

 しかし、1組なら総合科だ。向かう教室が違う。

「ごめん、第二美術室だったんだね。先に聞けばよかった」

 来た道を戻りながら謝る。百瀬はにこにこと首を振った。

「ううん、いいの。私こそごめんね、先にいえばよかったね」

 ほんの少しだけ沈黙が続いた。

 小柄な天使に歩幅を合わせるのは難しい。ちょこちょこと動く小さな足に合わせてゆっくりと歩いた。気まずさを払うように明るく話しかけてみる。

「第二美術室か、いいなあ。新校舎はきれいだよね。第一の旧校舎は古いからさ」

 百瀬がうふふと笑った。

「でも、私は旧校舎も好きよ? あのレトロな感じが素敵」

「そう? 床も壁もぼろぼろだし、第一美術室なんかあちこち絵の具で汚れてるよ」

「画家のアトリエって感じがするじゃない? 机に染み込んだ絵の具の匂いって、私好きだなあ」

 右手の人差し指を頬にあて、「ね?」とにこり。うん、可愛い。

「確かにそうかもね」と頷きながら、俺は喜びを噛み締めていた。

 北棟の歩くたびに軋んだ音がする古びた床も、錆びた手すりも、絵の具と油の匂いがする第一美術室も、俺がすごく好きな場所だ。好きな子が自分と同じものを好きだといってくれることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。恋をすると世界が薔薇色になると聞くけど、本当だったみたいだ。

 今なら松嶋の気持ちがわかる。口笛を吹いてスキップしながら、ダンスを踊りたい気分だ。

 中庭を通り西棟へ向かう。途中、スケッチブックを手にした男子とすれ違った。話をしたことはないが、あれは特選科の美術部員だ。去年のコンクールで賞をとった2年生で、確か名前は……なんといっただろうか。

 歩きながらその男子のスケッチブックを目で追っていると、百瀬が俺の顔を覗き込んできた。

「どうかした?」

「え? あ、いや、美術部員がいるなと思っただけ」

「あの子? そっか、美術部なんだ、スケッチに行くのかなあ?」

 にこにこと笑う百瀬につられて、こっちまで笑顔になる。

「いや、たぶん部室に行くんじゃないかな。美術室」

「あれ? 美術室って、確か写真部の部室だったような気がしたんだけどな」

 思い違いかなあ、と百瀬は右手の人差し指を唇にあてた。

「美術室は第一と第二、二つあるからね。旧校舎の第一美術室は美術部の部室だよ。写真部はこれから行く新校舎の第二美術室を使ってる。今の時間なら、誰か部員がいるかもね」

 答えながら、部活のことをすっかり忘れていたことに気付く。失くし物を探すなら、できるだけ邪魔にならないようにしなくてはいけない。

「写真も素敵ね」

 百瀬の目がきらきらと輝く。

「絵とか彫刻とか写真とか、作品を創り出す人ってすごいよね。自分の手で世界を創造してて。それってまるで神様みたい」

 百瀬の言葉に「そうだね」と笑顔を返す。

 うん、そうだね。すごくかっこいいと思う。

「貴文くんも美術選択でしょう? どんな作品を創るの?」

 百瀬の言葉に、曖昧な笑みで頭をかく。

「いや、俺は下手の横好きっていうか。ただ好きなだけで上手いわけじゃないんだ。作品を創るっていうより、絵の具で遊んでるだけ」

「でも、本当に好きで楽しいから描いてるんでしょう?」

「うん、まあ、好きなのは間違いないんだけど」

 それならと百瀬は微笑んだ。桜の香りがふわりと舞う。

「これは自分が創った世界だって、ちゃんと自信を持っていいと思う。貴文くんの世界は貴文くんのものでしょ? 自分の世界を守ることができるのは自分だけだもの。大切にしなきゃ」

 百瀬が両手の指先を合わせてにこりとした。

「貴文くんの世界を、いつか見せてくれると嬉しいなあ」

「……うん」

 どうしよう。

 なんだかよくわからないけれど、叫びたいような、走り出したいような、耳を塞いでしまいたいような、ぐるぐるとした感情が胸のあたりで騒いでいる。

 わけもなく目の奥が熱い。意味のわからないことを口走ってしまいそうで、喉にぐっと力を込めた。

「ありがとう」

 かろうじて呟いた言葉は風に溶けるくらいに小さかったが、百瀬は俺の目を見てふわりと微笑んだ。

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