3 私を想っているのなら

 放課後の図書室には誰もいなかった。

 正確には図書当番の俺ともう一人がいるんだけど、本を探しにくる利用者は一人もいなかった。まあいつものことだ。

 利用者はなくとも仕事はある。カウンターに座り返却された本をチェックする。図書室の外に設置された返却箱から本を取り出して状態を確かめ、カウンターのパソコンに接続されたバーコードスキャナーで、本についている図書管理用のバーコードを一冊ずつ読み込む。軽い電子音が響き、パソコンには返却済みの画面が表示されていく。

 全ての本の処理が終わったところで、ぱらぱらとページをめくって中をあらためる。時々、本の間にしおりやメモをはさんだまま返却されてしまうことがあるからだ。

 チェックが済んだ本をカウンターに重ね、十冊ほどまとまったところで本棚へ返しにいく。

 本を抱えて棚の間を進んでいくと、奥から出てきた真木まきと目が合った。数冊の本を手に眉間に皺を寄せている。

「配架場所が違う本があった。棚の乱れも多い」

 ちらりと俺を睨む。

「いや、俺じゃないよ」

 反射的に否定すると、真木はため息をついて「知ってる」と呟いた。

「金曜の図書当番でしょ。先週もそうだった」

 そう言うと、真木は舌打ちを堪えるような顔をする。

「仕事をする気がないなら委員会に入らなければいいのに」

 小さく呟くと、真木は手に持った本を睨みつけた。気持ちはわからないでもないが、本に罪はない。

 真木の意見はもっともだが、我らが烏山高校には部活か委員会のどちらかに必ず所属しなければならないというルールがある。入学してからその事実を知り、帰宅部希望だった俺は仕方なく消去法で図書委員会を選んだ。

 烏山で委員会に所属している人間の大半は、たぶん部活に入りたくなかったやつだと俺は思っている。真木のようにちゃんと活動しようとする方が少数派だ。他の図書委員の中にも、俺と同じように仕方なく委員をやっているやつがいるんだろう。本人にやる気がないものを、やれといってもしょうがない。

 俺の方に向かって真木が手を伸ばした。

「それ、ついでに返しておくからカウンターをお願い」

 そういうと俺が抱えていた本を受け取りくるりと踵を返す。さっさと歩き出す背中に慌てて声をかけた。

「いいよ。どうせ誰も来ないだろうし、俺がやるって」

 振り返った真木の冷めた視線がささる。

「どうせ誰も来ないからって、深夜のコンビニ店員がレジをあけてたら、客は買い物できない」

 はい、ごもっともです。

 すたすたと立ち去る真木に片付けを任せて、おとなしくカウンターへ引き下がる。

 真木とは去年、図書委員会で知り合った。丸くて大きな眼鏡と左目の下の泣きぼくろが印象的な女の子だ。女子にしてはかなり背が高く、すらりと伸びた長い手足が魅力的だけど、いつも猫背気味に身体を丸めて座っている。口調はぶっきらぼうで時々毒を吐くが、根は真面目で働き者だ。

 はじめの頃はどう話をしていいかわからずに、くだらない話を持ちかけては冷たい視線を浴びたものだが、今ではお互いそれなりに信頼関係を築けている、と思う。たぶん。

 カウンターに座りパソコンの画面を貸出用に切り替えていると、図書室のドアがぎいと音を立てて開いた。蝶番が錆びているのか、最近、開閉時にはドアの軋む音が大きく響く。真木は嫌そうだったが、誰かが入ってくればすぐにわかるので、呼び鈴代わりとしてこれはこれでいいんじゃないかとも思う。なんでも考え方と気の持ちようだ。

 ドアの向こうから顔を出したのは矢口だった。俺を見て片手を上げると、そのまま本棚の向こうへ消えていく。矢口は我が図書室の数少ない常連の一人だ。

 引き出しから利用記録の用紙を取り出し、カウンターに置かれているバインダーにはさみ込む。日付を書こうと鉛筆を探したが、なぜか筆立てに筆記用具が一本もなかった。使った誰かが戻さなかったんだろう。仕方なく立ち上がり、カウンターの後ろの棚から鉛筆を探していると、再びドアがぎいと音を立てた。振り返るとクラスメイトの松嶋が立っている。

「松嶋が図書室に来るなんて珍しいな」

 見つけた鉛筆を指先で回しながら「明日は雪か」とからかうと、松嶋は照れくさそうに「まあな」と笑って、大きなバッグをどさりと床に置いた。

 松嶋は野球部だ。日焼け顔に短い髪、熊のように大きな身体は、図書室ではなんだか窮屈そうに見える。烏山高校の野球部はそこまで強くはないらしいが、ほとんど毎日練習していると聞くから、読書をしてる時間はあまりないんだろう。

 身体をできるだけ屈ませるようにして、松嶋がカウンターを覗き込んだ。

「探してる本があるんだけど、ここの図書室にあるかわからないんだ。ちょっと手伝ってくれないか?」

「いいよ。なんてタイトル?」

 応えながらパソコンの画面を図書検索用に切り替える。

「二日……あ、いや、ちょっと待って」

 松嶋がポケットからメモを取り出す。

「『二年間の休暇』っていうんだけど」

 画面の図書検索キーワードに書名を打ち込む。ヒットゼロ件。

「うちの図書室には置いてないみたいだ。区の図書館にはありそうだけど」

 区立図書館のホームページから蔵書検索システムのサイトを開きながら、松嶋を見上げる。

「そうか、いや、いいんだ」

 松嶋が手を振った。

「帰りに本屋にでも寄って探してみるよ」

「そっか、悪いな」

 珍しく来室してくれた利用者の希望に応えられないのは残念だが、ないものは仕方ない。

 さっき用意した記録用紙を手元に引き寄せて、入館者数とレファレンス件数に、それぞれ正の字で「一」と書き加える。入館者はさっき入ってきた矢口を加えて二名としておいた。

 烏山高校の図書室では利用記録をとっているため、入館者数やレファレンス件数を当番の図書委員がカウントしている。レファレンスとは図書資料に関する利用者からの質問のことだ。何々について書かれた本はどの棚にあるのかとか、何々という本がこの図書室に置いてあるかを調べて欲しいとか、そういった質問はレファレンス件数としてカウントする。

 時々、不思議な質問をする利用者もいて、この前は「大量に積まれた粒餡の写真が載っている写真集はあるか」と訊かれた。「こし餡じゃダメだ、粒餡でなくては」という利用者の希望を叶えるために、〈分類5〉の棚に並んでいる料理のレシピ本を片っ端から探したのは、確か四月の終わり頃だったと思う。

 質問してきた美術部部長の檜山先輩は、俺が差し出した『和菓子〜その雅な真心〜』を手に満足そうに帰っていった。多分作品の参考資料だったんだろうけど、あの写真がどんな作品に使われたのかは、いまだに謎だ。

「じゃあな」

 大きな野球バッグを担いで立ち上がる松嶋に手を振る。

 カウンターを離れようとした松嶋の前に、本を差し出す手があった。立ち止まった松嶋が、差し出された本に目を落とす。見ると、矢口が一冊の本を手に立っていた。

「これだろ、探してる本」

 本を受け取った松嶋と一緒に表紙を見る。タイトルには『十五少年漂流記』とあった。

「松嶋くんの話がちょっと聞こえたからさ。『二年間の休暇』だろ。『十五少年漂流記』の別タイトルだよ。原題を直訳したのが『二年間の休暇』だ。訳とか出版社にこだわりがないなら、その本でいいんじゃないかな」

 内容は同じだからという矢口に、松嶋は「へえ」と感心したように相槌を打つ。ページをぱらぱらとめくって苦笑いをした。

「どんな話?」

 矢口が呆れた顔で笑う。

「先にストーリーがわかったらつまらないだろ。読まないの?」

 松嶋はバツが悪そうに頭をかいた。

「いや、実は、前に彼女から薦められたんだ。児童文学だけど、私の好きな本だから今度読んでみてって。でも結構長いんだな」

 松嶋がまいったとため息をつく。

「小学生向きに訳されたものもあるから、簡単に読みたいならそっちを読んだら?」

 さすがに高校の図書室にはないけどさ、と矢口が本棚を振り返る。

「でも彼女に薦められたんなら、彼女が好きな翻訳で読まないと意味ないかもね。言い回しとか変わっちゃうし」

「そっか、そうだよなあ」

 松嶋ががくりと肩を落とす。大きな身体が小さく丸くなったように見えた。

「実は今、彼女とちょっと喧嘩中でさ。喧嘩っていうより、俺が一方的に怒られてんだけど。本の話をしたら機嫌なおらないかなと思ってさ。でも、やっぱきびしいな」

「松嶋の彼女って、確か五組の水谷だろ? そんなに怒るような子だっけ?」

 小柄でいつもにこにこしている印象だ。身体の大きな松嶋と小さな水谷。豪快な性格のスポーツマンとおとなしい文化部女子のカップルは、その組み合わせの珍しさから、学年ではわりと有名だった。

 松嶋が気まずそうに視線を落とした。

「うちの野球部って日曜の午後は練習が休みなんだ。だからさらとは、あ、彼女、水谷みずたにさらっていうんだけど。さらとはいつも日曜にデートの約束をしてて。でも三週連続でその約束を破っちゃってさ」

「何やってんだよ」

 俺と矢口の声が重なった。

「事情があったんだよ! 先週は急に練習試合が入って、先々週は法事だったんだ」

「昨日は?」

 今日は月曜だから、デートの約束は昨日もあったはずだ。

 松嶋が視線をそらす。

「……ついうっかり忘れてた」

「何やってんだよ」

 俺と矢口の声が再び重なる。

「だって練習と試験勉強で疲れてたんだよ。うちの野球部はがつがつ練習するわけじゃないけど、それでも一応毎日やってるからさ。成績が落ちたらレギュラー外れなきゃならないし、俺はそんなに勉強できるわけじゃないし」

 松嶋が手を振りながら弁明する。

「言い訳なら水谷にいえよ、俺たちに弁解してもしょうがないだろ。素直に謝ったら許してくれるって」

 だといいけど、と松嶋が項垂れる。普段豪快な松嶋がここまで意気消沈しているのも珍しい。意外な弱点を発見した。

「今日は練習じゃないのか?」

 矢口が松嶋を見上げる。男子の平均身長よりはやや高めの矢口と並んでも、松嶋はかなり大きい。

「今日はコーチが休みだから自主練。この後ランニングに行くよ。とりあえず、薦められた本だけでも借りとこうと思って」

 松嶋が苦笑混じりにため息をつく。まだ浮かない顔だ。

「他に何か悩みがあるのか?」

 訊ねると、俺の顔をちらりと見て小さく呟いた。

「ロッカーの鍵が開かなくて」

 ロッカーの鍵?

 思わず矢口と顔を見合わせる。矢口が訊ねた。

「鍵を失くしたのか?」

「いや、ダイヤル式の鍵だ。四桁の」

 なるほど。つまり自分で設定した鍵の番号を忘れたわけだ。

「うっかりしてるな」

 呆れて笑うと、矢口も隣でやれやれといった様子で腕を組んだ。

「まあダイヤル式なら、心当たりを片っ端から試していけば、いつかは開くんじゃないか?」

 無責任に言い放つ俺に、矢口がぼそりと呟く。

「一万通りあるけどね」

 松嶋が大きく首を振った。

「いや、番号はわかるんだ。鍵をかけたのはさらだから」

「水谷が?」

 なんでまたそんなことを。

「昼休みにメールが来たんだよ。松嶋くんは忘れっぽいみたいだから、次のデートの予定を書いたメモをロッカーの中に置いておくって。鍵の番号は私の誕生日だからってさ。俺、普段はロッカーに鍵かけないから」

 なんだ、そういうことか。

「それならさっさと開けりゃいいじゃねえか。別に困るようなことじゃないだろ」

 首を傾げる俺に、松嶋がぐうと唸った。口をもごもごとさせて、視線を彷徨わせている。矢口の目が呆れたように細くなった。

「まさか」

 思わずこぼした言葉に、松嶋は、あははとかわいた笑いを返した。

「そのまさかなんだ」

水谷こいびとの誕生日を忘れたのか?」

 大きな声を上げてしまい、慌てて口を押さえる。館内を見回したが、今日は他に利用者もいない。安堵した俺の頭上から、松嶋の情けない声が降ってきた。

「『松嶋くんは私のことをちゃんと大事にしてくれるって約束したよね? デートの約束を忘れちゃっても、一番に思う気持ちは変わらないっていってくれたね。それじゃ、鍵の番号はわざわざ教えなくても平気よね。私のことが好きならわかるもんね』っていわれてさ」

「それは……」

「めちゃくちゃ怒ってるな」

 可愛い彼女から向けられる笑顔と、その目の奥で静かに燃える怒り。怖い。

 ぱしんと音を立てて松嶋が両手を合わせた。そのまま勢いよく頭を下げる。

「高谷、矢口、頼む。さらの誕生日を思い出すのを手伝ってくれ!」

 思わず隣を振り返ると、こちらを向いた矢口と目が合った。二人同時に肩をすくめる。

「そんなこといったって、俺たち水谷のことほとんど知らないんだぜ」

 無茶いうなよと顔の前で両手を振る俺の肩を、松嶋ががしりと掴む。痛い。

「なんかちょっとヒントになるだけでもいいんだ。今の状態で『誕生日いつだっけ?』なんて聞いた日には、ホントに愛想尽かされる」

「昨日のデートをすっぽかすからだろうが、正直に謝って許してもらえよ」

「なんていうんだよ? 『ごめん、君のこと好きだけど、ついうっかりデートの約束を忘れちゃった。ついでに誕生日も忘れちゃったから教えてくれる?』って?」

 松嶋が情けない声を上げながら俺の肩を思い切り揺らす。かなり痛い。

「あとはアレだ、バラの花束でも用意して『君の誕生日? もちろん知ってるさ、今日だろ? 君が目覚めるこの世界は毎日が誕生日だぜ、Happy Birthday』っていって許してもらう」

「んな身体張ったアホなボケができるか。スベったら大事故じゃねえか」

 騒ぐ松嶋の隣で、矢口が感心した顔で頷いた。

「英語の発音うまいな、高谷くん」

 矢口よ、つっこむポイントはそこじゃない。

「高谷くんのコントはともかく、誕生日なら最大で三百六十六通り試せばいいだけだし、なんとかなるんじゃないか?」

 矢口の言葉に、松嶋が長いため息をついた。

「実は、この後、部活で使うランニングシューズが見当たらなくてさ」

 ほう?

「バッグに入れといたつもりだったんだけど、まだロッカーにあるみたいなんだ」

 マジかい。

「水谷はまだ校内にいるのか?」

 ひとまず今日のところは謝って鍵を開けてもらったらどうだろうか。誕生日の件は、あとでゆっくり思い出すとして。

「いや、今日は部活もないから帰ったらしい。さっきメールしてみたんだが、久々に地元の友達と観覧車に乗りに行くっていってた。……昨日、俺と乗る予定だったやつ」

 松嶋の声が小さくなっていく。大きな身体と声が萎んでいく様子は、なんというか、大変不憫だ。隣に視線を送ると、矢口も俺を見返して肩をすくめた。

 仕方ない。恋に悩むクラスメイトのために、一肌脱いでやろうか。

「わかったよ。一応考えてみるけど、あんまり期待するなよ?」

 俺の言葉に松嶋が勢いよく頭を上げる。そのまま両手を掴んで思い切り上下に振った。

「十分だ。助かる、ありがとう」

「礼ならロッカーの鍵が開いてからな」

 白い歯を見せて松嶋がにかっと笑う。

「いや、一緒に考えてくれるだけで心強い。ありがとな」

 まったく。豪快で大雑把で。本当に、太陽のような男だ。

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