第1章 桜色リップクリームの君
1 廊下を駆ける少年
社会にはルールというものがある。法律は当然守られるべきものだし、仮に法で決まってなくたって守らなければならない約束事というものはある。
時間に遅れてはいけません。
人の陰口をいってはいけません。
言い訳をしてはいけません。
無闇にゴミを捨ててはいけません。
食べ物を粗末にしてはいけません。
日本人ならば誰もが小学校で教わる〈常識〉という名のルールである。
俺はごく普通の一般的な人間だ。自分でいうのもなんだが、正真正銘、日本国原産の、純一般人だ。「法律は当然守られるべき」とかいっちゃってる時点で、俺の一般人ぶりがよく表れていると思う。
そんな一般人の俺だからこそ、「ルールに縛られるなんてダセェぜ。センコーなんざクソ喰らえじゃあ」とかいっちゃったりもする。だってかっこいいよね、ちょっとワルな感じは。
そのくせ、教室の机に座っているところを教師に見つかろうものなら、即座におりてイスに座り直す。ついでに生真面目な顔をして何事もなかったかのように教科書を開いてみたりする。
結局俺は、盗んだバイクで走り出せない、夜の校舎窓ガラス壊せない、むしろ、夜の校舎怖すぎて入れない近付けない。わかりやすいくらいの一般人だ。
そんな俺なので、これまで校則を破ったことは数えるほどしかない。全くないといい切れないのは、校則が多すぎて全てを覚えていないからだ。学校帰りに制服でコンビニへ行くくらいは、男子高校生としては一般的な行為であるが、それが校則違反になるのかは記憶にない。まあ生徒手帳を見ればいいんだけど。
そんな一般的かつ模範的な男子高校生たる俺は、ただ今、全力で廊下を走っている。
視界を掠める〈歩く〉の文字。やけに達筆でシンプルなポスターは、国語教師で古典担当の篠田先生の手によるものらしい。
いいよね、このポスター。「廊下を走ってはいけません」より、ポジティブかつ強い意志を感じる。「歩け」と命令されるより無言の圧が強い。だけど、ごめん篠田先生。今だけは許してください。僕の人間としての尊厳がかかっているのです。
もうお気付きの方もいらっしゃるだろうが、健全な男子高校生が廊下をダッシュする理由など限られている。アイドル級の美少女転校生の噂を聞いて教室へ見物に行く時か、御手洗に御用がある時だ。もちろん、今回は後者である。
今から十分ほど前。四時間目の化学が始まって間もなく、急激な腹痛に襲われた俺は、近くに座っていた小野の袖を引っ張って囁いた。
「なんか、ちょっと、腹が痛いんだけど」
実験用のメスシリンダーを持つ手を止めた小野が、真剣な顔で頷く。そしてまっすぐに右手を上げ、「先生」とよく通る声で発言の許可を求めた。
各班の実験準備を見まわっていた化学の神谷先生、通称かみやんがこちらを振り向く。自然と、クラス全員の目が小野に集まった。
「先生、貴文くんが、うんこです」
小野に集まっていた目が一斉に俺を向いた。
言いやがった。そうだよな、わかってた。お前はそういう奴だよ。
恨みを込めて小野を睨むと、「あとは俺に任せて早く行け」とばかりに友愛に満ちた笑みを浮かべている。天に向けられた親指が果てしなくウザい。
教室には微妙な空気が流れている。当然だ。小学生じゃあるまいし、高二にもなって、うんこで笑いは取れない。どうしてくれるこの空気。
さあ、こんな時、一般的男子高校生ならどうするか。
答えは普段の教室内の立ち位置によって変化する。つまり、陽気か陰気か、お調子者か爽やかくんか、真面目ボーイか捻くれガイか、不良か優等生か、のび太くんか出来杉くんかである。
どちらかというと陽気でお調子者カテゴリに属する俺、
俺は痛む腹を右手でおさえながら、できるだけ真面目な顔を作って立ち上がる。
「先生」
かみやんが俺を見た。視線が冷たい気がするのは、思い過ごしだろう。たぶん。
背筋を伸ばし、きりりとした顔でかみやんを見返す。この「きりりとした」というのは当社比であり、個人の感想である。
「僕は、うんこではありません」
教室に小さな笑いが起きる。
よし、セーフだ。これでスベったら二次災害だ。あとはいくらか緩んだこの空気に紛れて、かみやんにトイレの許可をもらうだけだ。
もう一度、かみやんの顔を見る。この状況で表情筋がぴくりとも動いていないのは、さすが理系クール男子の名を欲しいままにしている神谷先生だ。
「神谷先生。お花を摘みに行ってもよろしいでしょうか」
一部の女子からクスクス笑いがもれる。いいさ。君たちに笑顔を届けられるなら、腹下し野郎の汚名は甘んじて受けてやるさ。
かみやんは一切表情を変えずに軽く頷くと、くるりと背を向けて黒板の方へ歩き出した。俺はかみやんの背中に敬礼をしてから、できるだけゆっくりと教室のドアへ向かう。本当ならすぐに走り出したいが、そこはなけなしのプライドをかけて堪える。
教室から出てドアを閉める直前、かみやんの「いっトイレ」という声がした。閉じたドアの向こうに広がる大爆笑。「やだー」と笑う女子の声が大きいのは、絶対に気のせいじゃない。
ちくしょう。かみやんめ。全部持っていきやがった。理系クール男子のボケなんてズルすぎるだろ。
十分後、全てから解放された俺は、バラ色の世界を謳歌していた。この世の全てが愛しく見える。こんなに素晴らしい気持ちを生み出せるのなら、将来はトイレメーカーに就職するのもいいかもしれない。
開け放たれた二階の窓から吹き込む五月の風が心地良い。このまま授業をサボって中庭で日向ぼっこをしていたいくらいだ。もちろん、そんな度胸はないんだけれど。
廊下を歩きながら何気なく窓の外に目を向ける。見下ろすと、
ふと、気持ちが動いた。
普段なら授業の途中で寄り道をしようなんて思わない。ただこの時は、ほんの気まぐれに身体が動いた。
階段を下りて中庭へ出る。中庭の木が風に揺れ、女の子の髪がふわりと広がった。髪を左手で押さえ一房耳にかける。白い指先に、わずかに心臓が跳ねた。
女の子がゆっくりとベンチから立ち上がった。その拍子に何かが地面に転がり落ちる。ころころと転がる何かに気付かずに、女の子は木漏れ日の中を静かな足取りで北棟の方へと歩いていく。思わず駆け寄って手を伸ばすと、それは桜色のリップクリームだった。パッケージには花びらと小さな水玉が描かれ、流れるような細い金色のラインが入っている。普段縁のない可愛らしい柄に、一瞬、触れてもいいものか躊躇する。その間にも女の子はどんどんと離れてしまう。慌てて拾い上げ後を追った。
「あの、ちょっと待って」
女の子が振り返った。色素の薄い柔らかな髪が風に舞い、スカートがふわりと揺れる。大きな瞳が俺を見つめた。緊張で心臓がきゅうと音を立てる。
「あの、これ、落としましたよ」
声がひっくり返らなかった自分を褒めてやりたい。
小首をかしげて女の子が近付いてくる。芝生を踏み締める足音が柔らかく響いた。俺の前まで来て立ち止まる。近くで見ると、女子の中でもずいぶんと小さな子だ。
俺が差し出したリップクリームを女の子が受け取る。指先が、ほんの少し触れた気がした。
「ありがとう」
女の子が微笑む。まわりの木々が風に揺れた。初夏の陽気の中、緑にあふれた中庭が、一瞬、桜色に染まった気がした。
女の子はバイバイと手を振ると、北棟の方へ軽やかに駆けて行った。
よくわからないまま、しばらくその場に立ち尽くす。今のはいったいなんだったんだろう。季節外れの桜の精だったのだろうか。
ぼんやりとした頭で自分の手を見つめる。彼女に触れた指先が、ほんのりと桜色に色付いているような気がした。
なんだかよくわからないけど、手のひらから何かがこぼれてしまうような気がして、慌てて握りしめる。
授業の終了を告げるベルが、教会の鐘の音のように聞こえた。
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