同日、10時1分

 転属したい。


 ひっそりと呟いた本音は、夏希の耳に届いてしまったらしい。視線を合わせるようにしゃがみこむと、うんうんと頷く。


「いいよいいよ、好きにしな。何しろこの業界人手不足だからねぇ。少しでも長く働いてもらうために魔導師の希望は基本通るし。ウチの最短記録は会って1分だから、まだキミはもった方」


 むしろその1分で何があったのだろうか。そちらの方が気になってしまう。一体何をしたんだこの人。


「ウチからの転属希望なら上も不思議に思わないよ。皆すぐそうするし。ただまあ、その後キミがどこに行けるかまではわからないけど」


 その言葉にはっとする。

 そうだ。私は魔導考古学研究員になると、そう両親に言ったではないか。

 おめでとうと言ってくれた母を、父を裏切るわけにはいかない。


「……いえ。失礼いたしました」

「へー、珍しいタイプ。まあいっか、じゃあ案内続けるよ」


 少し驚いたように見えるものの、夏希はすぐに切り替えて案内を続ける。

 医務室の扉を閉めて、再び歩き出した。


「あっちは客間……まあ、外部からのお客さん相手にするトコね。めったに使わないけど」

「はい」


「お風呂はここで、トイレはあっち。って言っても、基本皆こっちは使わないよ。たまに雅……医療班の班長が使ってるかな」

「はい」


「んで、ここが食堂」


 再開してからここまで、ざっくりとした説明しかされていなかったが、食堂だけは立ち止まって話が始まった。


「朝昼晩、何にもなければここでご飯食べるから覚えといて」

「何もなければ?」

「今みたいに研究に夢中になってこない子もいるし、外に食べに行く子もいるからね。いるときはそこのホワイトボードに名前の書いたマグネット貼っといて。キミのはまだないからちょい面倒かもだけど名前書いといてね」


 食堂の壁には、洋風な見た目に似つかわしくないホワイトボードがあった。左半分にはメニュー、右半分はさらに半分に分けられ、「いる人」「いらない人」と書かれている。今のところ、7つのマグネットが「いらない人」の下に貼られている。


「食堂の方がいるんですか?」

「大きいトコはね。ウチは昔はいたけど今はいないよ。ただ、料理のできる子が作ってくれてんの。今いるかなー……かーずまー?」


 キッチンを覗き込んで、誰かの名を呼んでいる。しかし、天音の魔力探知―どこにどれだけの魔力があるのかを探す能力―によれば、ここには夏希と自分しかいない。


 だと言うのに、調理器具の陰から、小さな声がした。


「は、はい、なんでしょう……」

「えっ!?」

「ひっ、お、驚かせてすみませんっ、ごめんなさい……」


 現れたのは、どうやって隠れていたのかわからないほど背の高い青年だった。眉の下がった気弱そうな顔立ち。軍服というよりはコックコートめいた魔導衣。何故か今にも泣きそうな表情をしていることを除けば、なかなかの美青年だ。


「し、知らない魔力の匂いがしたから、つい隠れちゃいました……し、新人さん、来てくれたんですね……あ、じ、実はもう転属願出されてるとか……?」

「一応まだー」

「あ、よ、良かった……」


 どれだけ転属率が高いんだ、ここ。

 天音はもはや脳内で乾いた笑いをこぼすことしかできない。


「あ、えっと……山口和馬っていいます……い、一応、魔導解析師です……」


 天音は研究員として最も低いランクの魔導解読師。その上が魔導解析師である。大半の研究員が魔導解読師から上に行くことができないとされているこの状況で、魔導解析師が当たり前のように所属していることに驚く。


 少数精鋭。その言葉には、嘘はなかったようだ。

 ひとまず、転属は話を聞き終わってからでもよいかもしれない。

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