第33話 沙耶の症状
「逆行性健忘?」
「そうだ。簡単に説明すると、脳震とうを起こしたせいで過去の記憶が思い出せなくなっているんだ」
「じゃあ私の事も兄さんの事も・・みんな忘れちゃったの?」
「今は忘れている状態だ。時間が経てば思い出すこともあるらしい」
「そんな・・」
今にも結花は泣き出しそうだった。
「沙耶はまだ若いから脳細胞のダメージが回復しやすいはずだと医者は言っていたよ。回復すれば俺たちの事を思い出せる」
説明している馨自身も医者の言葉をどれほど信じたいと思っている事か。
結花の向に座っていた義久も結花をなだめた。
「国内でも最高の脳の専門医を見つけよう。国内でだめなら世界からだって探し出して沙耶さんを治療してもらう。希望を捨ててはいかんぞ結花」
「うん・・分かった。退院してもここには帰ってこないの?」
「今の状態だと難しいな。今の沙耶にとって俺たちは赤の他人だ。だから都内にマンションを買う事にした。一時的にそこに住んでもらおうと思ってる」
「そこに遊びに行ってもいいかな?」
「少し時間を置いてから・・だな。今はまだ自分の状況も把握できてないし混乱しているだろうから。結花も沙耶に負担を掛けたくないだろう?」
「そうだね、ストレスを与えちゃいけないって調べたら出てきたし」
「偉いな、結花。私達が沙耶さんを全力でサポートしよう」
______________
馨はこの前日沙耶に会いに行っていた。だが医者からすぐに今の状況を全部話してしまうのは患者に大きなストレスを与えることになるから避けた方がいいと言われ、自分が夫だとは打ち明けられなかった。
大きな花束を持って来た馨と涼に沙耶はお礼を言った。
「綺麗なお花をありがとうございます・・あの、景子のお仕事関係の方だとお聞きしましたけど・・」
馨の姿を見ても何の反応もなく無邪気に花を愛でている沙耶を前に、馨は言葉を失った。代わって涼が答えた。
「ええ、そうなんです。僕たちは友人になったんですよ、ですから何かあれば遠慮なく僕らを頼って下さい。必要な物でも何でも・・」
涼は、『そうですよね?』と小声で馨をつついた。
「ああ、そうなんだ。・・何か欲しいものはないか?」
「私・・覚えていなくてごめんなさい。あなた方とお友達になった経緯を忘れてしまってるんです。そんな私があなた方を頼ってもいいものなんでしょうか?」
「もちろんいいに決まってるじゃないですか。そうじゃないと僕らは寂しいですよ」
「そうですか・・私はいい方達とお友達になれたんですね。あの・・じゃあパジャマの着替えが足りなくて・・もしご迷惑でなかったらパジャマが欲しいんですが」
「パジャマか。よし涼、すぐ買いに行くぞ」
「えっ、今からですか?」
「そうだ。さ‥石井さん、また来ますね」
「はい、お見舞いありがとうございました」
病室を出ると近くにあったベンチに馨は腰を下ろして頭を抱え込んだ。
「予想はしていたが、実際に会うとキツイな。俺たちの顔を見ても何の反応もないなんて・・」
「馨君・・辛いよね」涼はそっと馨の方に手を置いた。
そこへ廊下を歩くヒールの音が響いて来た。
高野景子だ。今日もサングラスを掛けているが病院の中ではそれが悪目立ちしていた。
「五瀬さん、池田さん。沙耶が・・大変な事になって・・」
涼から連絡を受けた景子は事の経緯のあらましを聞かされていた。
「俺たちは帰る所だ。涼、行こう」
景子に話しかけられた馨はすぐベンチから立ち上がって帰ろうとした。涼もそれに従ったが、景子には釘を刺しておかなければいけない。
「高野さん、僕たちは失礼しますね。電話でも言いましたけど沙耶さんに多くの情報を話して混乱させないで下さい。今の彼女には安静が必要ですから」
「心得てますわ。五瀬さんも、私に何か力になれることがあれば何でもおっしゃって下さいね」
そう言いながらサングラスをはずした景子の目は潤んでいた。―普通の男ならこれにすっかり騙されてしまうのだろうな。内心で涼はそう思っていた。
景子が病室へ入って行くと沙耶はベッドからぼんやり窓の外を眺めていた。
「沙耶、お見舞いに来たわよ」
景子は見舞いに持って来た小さな花かごをテーブルの上に置いた。テーブルには先に来ていた馨が持って来た豪華な花が花瓶に飾られていた。
12畳くらいはある病室で普通のリビングの様に革張りのソファとテーブルが置かれていた。ここには患者が快適に過ごせる設備が全て整っていた。
「あっ景子、来てくれたのね。待ってて今お茶を淹れるわ、それともコーヒーがいい?」
「いいわ、寝てなさい。それくらい私がやるわ」
沙耶の頭に巻かれた包帯を見た景子は、珍しく自分からお茶を淹れる気になった。だが普段から雑用は一切、沙耶に任せていた景子が淹れたお茶は、茶葉の入れ過ぎで胃薬のような味がした。
「あら、まずい茶葉ね・・それで調子はどうなの?」
「まだ頭が痛いわ。頭痛って辛いのね」
あの日の事も全く覚えていないのかしら? それなら都合がいいけれど・・景子は用心しながら沙耶を盗み見た。お茶を口にした沙耶は少し顔をしかめたが、それ以外は至っていつもと同じだった。
「どうして頭を打ったか覚えてないの?」
「ええ、目が覚める前の記憶はアメリカへ行く用意をしてた所までしかないの。足りないものを買い足しに家を出たはずなのに目が覚めたら病院で本当に驚いたわ」
「ふうん。いわゆる記憶喪失か。現実にあるなんてびっくりね」
「私景子に聞きたい事があったの。先生も無理に思い出そうとしてはいけないって言うからさっきの・・五瀬さんだっけ? 二人にも聞けなかったんだけど。これ見て」
沙耶は左手を景子に向けた。「これ結婚指輪よね? 私・・いつ、誰と結婚したのかしら?」
景子の頭はフル回転した。(まだ誰にも何も聞かされていないのね、それなら・・)
「沙耶はね、結婚したけど契約結婚なのよ。あんたが私だけに打ち明けてくれたんだけど、さっきの五瀬さんと・・事情があって契約結婚したの。でも私と出会った五瀬さんは私を好きになって、あんたは・・あんたは池田さんを好きになってしまって契約結婚は解消されたのよ」
「そ、そんな事があったの?! この指輪は・・私が外すのを忘れたのかしら?」
「きっとそうね」
「それにしてもさっき来た時に何も言わなかったのはどうしてなのかしら?」
「馨さんの家族にはまだ話してないからじゃないかしら。契約結婚の話を知ってるのは私達だけだもの」
「かおるさん?」沙耶の目がテーブルの上の花瓶に向いた。うわ言の様に沙耶はもう一度呟いた。「か、お・るさん・・」
「そ、そうよ。だから沙耶、池田さんに優しくしてあげなさいよ。あんたを心配して夜も眠れないって言ってたわ」
さっきのセリフをまた景子は繰り返していた。
「池田さんと私・・なんだかピンと来ないわ。でもそんな事言っちゃ池田さんが傷付くわね。私・・思い出せるかしら?」
「お、思い出さなくてもいいんじゃないかしら。無理しちゃいけないってお医者様も言ってたんでしょ? これからまた新しく池田さんを好きになって行けばいいのよ。恋人同士なんだから池田さんにうんと甘えるといいわ。じゃないと池田さんが寂しがるわ」
「そうね、頼ってくれないと寂しいってさっき言ってたわ」
「でしょ? あ、そうだ。その指輪は私が預かっておくわ。馨さんが返して欲しいって言ってたから」
「分かったわ。景子もいい人が出来て良かったわね。五瀬さん、口数は少ないけど優しそうだものね。それからごめんね私が入院してて大変じゃない?」
「マネージャー業は山本が沙耶の代わりをやってるわ。まぁまぁね、あんまり気が利かないけど」
そう言いながら景子は沙耶から指輪を受け取って病室を出て行った。
「また来るわね」
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