第68話


「どいて、」

「きゃっ、」


 彼の身体を呆然と握りしめていた結菜の身体が、ベリッと剥がされて床に叩きつけられる。誰がやったのか、誰が動いたのか分からなかった。けれど、目の前に現れた見慣れた恐怖の象徴たる背中に、結菜は結菜を突き飛ばした犯人が唯斗であったことに気づいた。


「脈は………、あるな。そこのお姉さん、救急車をお願いします」


 冷静な判断力で指示を出した唯斗は、強い力と大きな声で陽翔の意識を呼ぶ。


「大丈夫ですか、大丈夫ですかっ、大丈夫ですか!!」


 けれど、陽翔の意識が戻ることがないし、それどころか彼から流れ落ちる冷や汗は増してきている気がする。顔から血の気が引いていくのを感じながら、結菜は呆然と彼の近くで座り込んでしまう。幼い頃から大病院の医院長の娘として、緊急時の応急処置の仕方はしっかりと叩き込まれていた。なのに、結菜は大事な場所で、最も行わなければならない場所で、何もできない。


 遠くから救急隊員が走り寄る足音が聞こえる。その地響きのような揺れに、振動に、結菜はビクッと肩を跳ねさせる。


「逃げろ」

「にい、さん………?」

「こいつと2度と会えなくなっていいならここに残れ。そうじゃないなら、ーーー逃げろ」


 言いたいことの意味は分からない。けれど、結菜はただただ一生懸命に足を動かしてその場を逃れた。意味がわからない。先ほどまでは確かに人生最高潮の幸せにいたはずなのに。それなのに、いつのまにかどん底まで突き落とされてしまった。結菜には全て理解できなかった。けれど、本能は分かっていた。もう、この幸せが戻ってくることなんてないって言うことを。

 目から溢れる涙を拭うこともせず、結菜は店の入り口でタクシーを拾って家の住所を伝える。ただただ早く、ベッドに潜り込みたかった。絶対不可侵の自分だけの領域に逃げ込みたかった。外の世界は結菜にとって全てが敵だ。蹴落とすための道具であり、生き残るための手段。そのはずなのに、そのはずだったのに、結菜は知らず知らずのうちに愛してしまった。そとの世界という自由を、味わってしまった。


「こんなんだから、わたしは馬鹿なのです………。“恋”なんてくだらないものに生きるんじゃなかった………………」


 無駄に豪奢な家に帰宅した結菜は、天蓋付きの大きなベッドに頭からダイブする。無駄に溢れてくる涙は止まるところを知らない。泣いて泣いて、いつしか眠りの世界という最大の逃げの世界へと結菜は駆け込んだ。

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