第53話




「今日は早いな」

「ほんの少し早く目が覚めたので。はるくんもお早いですね」

「弁当作りで早く目が覚めた」

「そうですか」


 誰もいない教室に落ちる静寂が心地いい。どこまでも澄んでいて、息ができるお水の中でふわふわと浮かんでいるみたいだ。


「今日、1つお願いをしてもいいですか?」

「ん?」


 勝手に結菜の隣の席に腰掛けた彼の方を向くと、陽翔は机に頬杖をついて首を傾げていた。その無防備な姿に、なぜか胸が高鳴る。


「学校の授業をサボってみたいです」

「どこで?」

「………どこならサボれますか?」

「ん~、保健室が狙い目かな」

「そうですか。ちょっと楽しそうです」


 くすくすと笑う結菜に、彼はゆっくり瞬きする。


「授業、真面目に受けるのやめたの?」

「はい。もう無駄ですから。多分、今週末をもってわたしは退学になります。よくて転校でしょう。双葉の家の嫁になるというのはそういうことです」

「意外だな。医者になるんじゃないのか?」


 無表情なのにきょとんとした表情をした陽翔に、結菜は何もかもを諦めたような笑みを浮かべる。


「そういう場合が多いですが、わたしの場合は逃げることを防止するために、翼になる可能性があるものは全てもがれるでしょう。だからこそ、学歴も中卒にしたがるはずです。わたしの高校生活は、いいえ、学生生活は間も無く終わりを迎えるでしょう」


 遠い世界を見つめるように、結菜は目を細めて彼の顔を見つめる。


「そうなったわたしは、果たして生きているのでしょうか。翼を持たぬ鳥が死んだも同然であるように、わたしも死んでいるも同然になるのでしょうか」


 声が、音が。全てがひび割れてガラガラになっていく。


「わたしは、あなたとのたった1週間といえどもとても幸せな日々を、笑って思い出にできるのでしょうか。わたしは、この1週間を幸せな思い出として、唯一の幸せだった日々として、墓場まで持って行く気でした。でも、幸せを実感すればするほどに、わたしはどんどん貪欲になって行く。もっともっとと幸せを追い求めてしまう。わたしは、ただただ与えられるだけの、翼をもがれた惰性的な日々に、………耐えられるのでしょうか」


 目の前には膜が張っている。

 もう何年も前に忘れ去ったはずの水が、枯れ切ったはずの水が、いつのまにか満たされて、そして崩壊していく。

 目から溢れる水が、雫が、妙にしょっぱい。こんなものだったっけと思うと同時に、陽翔の手が結菜の目元に触れる。


「耐えなくてもいい。逃げてもいい。ただ、それがお前にとって苦痛でない道であれば、それでいい」


 ふわっとチョコレートみたいにとろけた微笑みは、結菜の心を陥落させる。どろどろにとろけて、ダメになったチョコレートみたいに、結菜をダメにさせる。


「いい、の?」

「あぁ」

「逃げても、いいの?」

「あぁ」

「楽になっても、いいの?」

「あぁ」

「これ以上、わがままになっても、いいの」

「お前はそのぐらいでちょうどいい」

「っ、」

「好きなだけ泣けばいい。ここにはお前のことを咎める奴は誰もいない」

「うあああああぁぁぁぁぁあああああああ!!」


 彼の胸にしがみついて、子供のように泣き叫ぶ。

 幼き頃に泣けなかった分を取り戻すかのように、泣き方を知らない赤子のように、要求をぶつけるでもなく、喚くでもなく、ただただ純粋な涙を叫びを上げる。その絶叫は、結菜の心の荒んだ状況をそのまま表しているかのようだった。


 結菜はこの日、初めて彼の前で泣いた。

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