第3話「人間の邪推」

「いらっしゃい」


 日傘を畳んで玄関扉を開けると、紫苑が出迎えてくれた。彼はにこやかに笑っている。……でも、どこかぎこちなく見える。

 なんで? そう訊きたい言葉を呑み込み――


「お邪魔します」


 なるべく明るく言って、彼の家に入った。今の花梨には遊園地デートに行った時のような幸福感が薄れていた。


「傘はそこに立ててね」

「うん」


 花梨は日傘を言われた場所に差し、サンダルを脱ぎながら頭を巡らせる。

 つい数週間前までは、こんなことはなかった。一体なにが原因なのだろう。思いつかない。そもそも、一週間前くらいまでは普通だったのだ。それが週明けには、なにかが変わっていた。怖い。教えて欲しい。

 花梨は早くこの状態から抜け出したかった。頼みの綱である翼も色が変わっていないのだから、嘘をついているわけでもないようだった。

 白いワンピース、肩を出している部分が妙に肌寒く感じる。

 前を歩く紫苑の頭の中を覗き込みたい衝動に駆られる。そんなこと絶対に出来ないというのに。

 リビングに入ると、一気に涼しく感じる。


「花梨?」

「あっ、ごめん」


 考えに熱中し過ぎた。紫苑が心配そうな顔を覗かせる。


「……体調が悪いなら、宿題やるのやめる?」

「ううん、大丈夫。外が暑かったらぼーっとしちゃったみたい」

「そっか。今日、暑いからなー」


 彼の言う通り、今日はかなりの熱さだった。外は三十度越えで、エアコンで涼みでもしなければ熱中症になってもおかしくない。


「エアコンは付けてるけど、寒過ぎたら言ってね」


 紫苑の手がぐりぐりと頭を撫でてくる。


「うん」

「麦茶、飲むか? 花梨」

「うん、飲みたい」


 彼が冷蔵庫に向かう足音を聞きながら、リビングのローテーブルに座る。

 夏休みの宿題は順調に進んだ。紫苑は同学年の中でも頭がいい。花梨自身も悪いわけではないが、彼ほどではなかった。紫苑は丁寧に教えてくれた。彼の用意してくれた麦茶を飲みながら、凪のような時間が流れる。聞こえるのは自分たちのシャーペンの音だけ。

 まるで世界に二人だけ取り残されたようだった。


「ねえ」


 花梨は自身の出した声が思いの外響き、内心で驚く。喉が勝手に鳴る。

 紫苑がノートから顔を上げた。

 花梨は彼の背後にある翼を見る。

 告白されてから、ずっと変わらない、真っ白な翼。

 だから、大丈夫。


「紫苑――私に隠していることない?」


 喉が渇く。花梨は怖くてたまらなかった。でも、訊かずにはいられない。

 彼の唇が開く。


「……なにも隠してないよ?」


 不思議そうな表情。まっすぐにこちらを見つめる瞳。からん、とコップに入った氷の音が聞こえた。


「花梨? なんで泣いているの?」


 花梨は絶望した。

 ああ、なんで。知りたくなかった。でも、目が離せない。

 紫苑の翼――真っ白だった翼は、背中の根元からなにかを吸い上げているように真っ黒に染まっていっていたのだ。


「花梨?」


 紫苑が名前を呼んでくれている。嬉しいはずなのに。大好きなはずなのに。すべてが裏返る――


「紫苑、ごめん」


 ダメだ。また、ダメになった。

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