第5話

 麻季が長い話を終えたとき、それが残酷でひどい内容だったにも関わらず、どういうわけか僕の心の中から彼女への憎しみが薄れていった。

 そのかわりに今さらだけど、本当に麻季との生活が終ったことを実感し、そして帰国して以来初めて彼女への憐憫と、少しだけ後悔の念が心の中に去来した。

 麻季は怜菜の死やその意図について、明らかに過剰反応しているとしか思えない。

 でも彼女をそこまで追い込んだ責任が僕にないと言いきれるかというと、そんな自信はなかった。

 これまで僕は麻季のことを大事にしてきたつもりだ。でも一度だけ麻季のことなんかどうでもいいという感情に囚われ、そしてそれを彼女に対して隠すことすらしなかったことがあった。

 それは怜菜の死を知った直後のことだった。

 混乱して泣く麻季の姿は、そのときの僕の感情を動かすことはなかった。これまでこれだけ麻季を大切に思い、彼女を傷つけないように過ごしてきたというのに。

 そのときの僕は、怜菜の悲惨な死に心を奪われていた。でも今にして思えばあのときは僕と同じくらいに、麻季は傷付いていたのだろう。親友の死とその親友と自分の夫とのつかの間の交情を知ったことで。

 依然として麻季が子どもたちを追い詰めた事実には変りはないし、太田先生の受任通知で僕を貶めたことにも変りはない。

 それでも僕は麻季の告白から、彼女の心の変遷を知ることができてしまった。そしてそれを知ってしまうと、麻季の心変わりに悩んでいた時のような彼女への憎しみが消えて、その感情は憐憫と後悔に置き換わったいった。

 これは常識的な判断ではない。

 奈緒人と奈緒が仲が良すぎることなんか気にすることではない。でも僕には一見して支離滅裂な麻季の言葉から、彼女の感情の動きや彼女なりのロジックを推測することができた。

 誰よりも深く、そして多分正しく。

 僕が麻季の気持を察することができることが、破綻する前の僕と麻季との絆を深めていたのだ。

 唯にそう言われてから、僕はこれまでは麻季は敵だと思うようにしていた。

 というより僕の知っていた麻季はもういないのだと、僕のことを誹謗中傷しているこの麻季は僕の妻だった女ではなく、見知らぬ女なのだと考えようとしていた。

 でもこの日、深夜の居酒屋で僕は不用意にもかつてのように麻季の言葉足らずの説明を脳内で補正して、彼女の真意を理解してしまった。

 それは客観的には間違った考えだとしても、麻季にとってはようやく見出した真実なのだということを。

 僕は不用意に麻季の泣き顔を見た。生涯、麻季につらい思いはさせない。かつての僕が自分に自分に誓った言葉が再び僕の脳裏に思い浮んだ。

 このときの僕の決心は、結局この後の僕をずっと苦しめることになった。


 奈緒の親権は、奈緒の実父の鈴木雄二と婚姻するという条件で麻季へ。奈緒人の親権は僕へ。慰謝料、養育費はお互いになし。お互いに、あらかじめ決められた回数はそれぞれ相手に引き取られた子どもに面会できる。

 離婚事由についてはお互いに相手を有責と主張したままだったので、調停結果は互いに慰謝料はなし。翌年の三月に調停委員からこういう調停案が提示された。

 あくまでも調停なので調停案を拒否することはできる。だけど一度調停案に同意した場合は、その調停結果には拘束力が生じる。つまり一度それに同意した場合は判決と同じ効果が生じるのだ。

 僕は調停の結果を受け入れた。

 つまり奈緒は奈緒人と別れさせられ、麻季と鈴木先輩が引き取る結果を容認したのだ。僕はその決断を誰にも相談せずに自分で決めた。

 そしてそう決断した結果は目も当てられないものだった。

 まず、僕は涙を流しながら僕を責める唯に絶交を言い渡された。

「何であんなに仲のいい二人を引き離すなんてことができるのよ。あたしが何のために奈緒人と奈緒の面倒をみていたと思ってるの」

 僕はそれに対して一言も答えられなかった。説明しても理解してもらえないだろうから。

「もうお兄ちゃんとは一生関わらない。あたしは彼氏との付き合いよりも、内定した会社への入社よりも奈緒人と奈緒のことが大事だったのに。まさか、理恵さんと早くで結婚したかったからなの? 子どもたちの幸せより自分の再婚の方が大切だったの?」

 この後、今に至るまで僕は泣きながらそう叫んでいた唯とは絶縁状態のままだ。

 僕の両親も唯と同じような反応だった。

「確かに奈緒ちゃんはおまえと血が繋がっていないけど、それでもずっと奈緒人と一緒に過ごしてきたんだぞ。どうしてそんな冷たい仕打ちができるんだ」

 父さんが混乱した表情で僕を叱った。母さんは俯いて涙を拭いているだけだった。

「もう勝手にしろ。俺たちはもう知らん」

 そしてこの件で僕は理恵の両親の信頼すら失った。

 理恵が言うには、僕との再婚に何の反対も心配もしていなかった理恵の両親は、僕との再婚は考え直した方がいいのではないかと理恵に言い出したそうだ。

 たとえ血が繋がっていないとはいえ、自分の子どもをあっさり見捨てるような僕に不安を感じたのだという。

 僕と理恵の再婚に、唯とともにこれまで一番味方になってくれていた玲子ちゃんは、両親のように僕を責めはしなかったけど、一時期のように僕を慕ってはくれなくなったようだ。

 内心では彼女も僕の決断を嫌悪していたのかもしれなかった。

「本当にそれでいいの? 後悔しない?」

 理恵だけは冷静に僕に聞いた。

「・・・・・・後悔すると思う。でも、今はこうするしかないと思っている」

 僕の答えに、理恵は紅潮した顔で何かを言おうとして、寸前で留まったみたいだった。

「あたしは博人君が麻季ちゃんに何でそんなに気を遣うのかわからないけど」

「・・・・・・うん」

「でも。まあ、あたしだけは仕方ないから君の味方になるよ。君がそれでいいなら再婚しよう。奈緒人君と明日香とあたしたちで新しい家族を作ろう」

 理恵がどうして周囲と異なり僕の非常識な決断に理解を示してくれたのかはわからない。

 でも、こうして麻季の複雑な心理を最後に読みほぐし、結果として麻季の考えに従うことを選んでしまった僕には、理恵以外には味方がいなくなった。

 自分の息子の奈緒人をも含めて。

 僕はその決定を人任せにはできず、自ら奈緒人に話をした。彼ももう小学生だったので、たとえ今は誤魔化していても、いずれは妹がいなくなったときに納得するはずがなかったから。

 彼が奈緒と別れて僕と理恵と明日香と暮らすことになると知ったとき、奈緒人は黙って僕の話を聞いていた。そのときは奈緒人は青い顔で黙ったまま反発も非難も泣くことすらしなかった。

 翌日、僕が出社時間に間に合うように起き出して子どもたちの様子を覗おうと部屋の扉を開けると、そこには子どもたちの姿がなかった。

 奈緒人と奈緒は二人きりで僕の実家から脱走したのだった。


 冷たい雨の中を傘もレインコートもなく逃げ出した二人は、すぐに警邏中のパトカーに乗った警官に発見され保護された。

 パトカーの後部座席に乗せられた二人は手を繋いで互いに寄り添ったままだった。そして連絡先を優しく聞き出そうとする初老の人の良さそうな警官に対しては一言も喋らす何も返事をしなかった。

「君たち迷子になったんんでしょ? おうちの人に迎えに来てもらおうね」

 その警官は無骨な顔に精一杯笑顔を浮かべて連絡先を聞き出そうとしたけど、二人はさらにお互いの体を近づけて握り合う手に力を込めるだけだった。

「何か様子が変ですよ」

 運転席の若い警官が初老の相棒に声をひそめて話しかけた。

「もしかして虐待とかじゃないですかね」

「いや。雨に濡れてはいるけど服装もきちんとしているし、外傷もなさそうだしな」

「そうですね」

 運転席の警官が身体を回して二人を覗き込んだ。

{あれ? 女の子のカバンに何かタグがついてますよ」

「うん? お嬢ちゃんちょっとごめんね」

 初老の警官が奈緒の持っているバッグに付けられていたタグを手に取って眺めた。

「よし。緊急連絡先とか血液型とかが書いてある。えーと、結城奈緒ちゃんって言うんだね」

 自分の名前を呼ばれた奈緒は顔を上げようともせずに、これまで以上に力を込めて奈緒人に抱きつくようにしただけだった。

「仲がいいなあ」

 そう言いながらも警官は手際よく連絡先を読み取った。

「携帯の番号が書いてあるな。心配しているといかん。俺はここに電話してみるからとりあえず角の交番まで連れて行こう」

「了解です」

 降りしきる冷たい雨の中を、それまで停車していたパトカーは点滅させていたハザードを止めて動き始めた。


『結城麻季さんですか?』

『ええ。結城奈緒ちゃんという女の子と、多分お兄ちゃんですかね? 小学生低学年の男の子を保護しています。男の子は奈緒人君ですか。お二人を引き取りに来ていただけますか? そうです。明徳町の交差点にある交番で保護していますから』

『兄妹じゃない? はあ。そうですか。じゃあ奈緒人君の保護者の連絡先をご存じないですか? ええ。あ、ちょっと待ってください。メモしますから』

『はい。ユウキヒロトさんですか・・・・・・え? 苗字が同じですけど家族じゃないんですか。はあ。じゃあ連絡すればわかるんですね』


 先に交番に到着したのはシルバーのBMWの助手席から降りてきた麻季だった。

 簡単な事情聴取のあと、鈴木先輩が確かに奈緒が自分の娘である証拠を提示した。

 麻季は奈緒人には目もくれずに、奈緒の腕を取って、鈴木先輩が運転席で待つ車の後部座席に彼女を乗せた。

「ご面倒をおかけしました」

 そう言って麻季は奈緒の隣に乗り込んだ。

 このときになって、思わぬ成り行きに呆然としていた奈緒人と奈緒が同時に叫び出した。

「奈緒・・・・・・奈緒!」

「お兄ちゃん! 奈緒、お兄ちゃんと離れるのはいや」

 警官たちが子どもたちの様子に不審を覚えるより早く、奈緒を乗せたそのBMWは走り去って行ってしまった。

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