繭
たもの助
第1話
繭 第一話
幸雄はやがて来る迎えを待っていた。
既に肌は秋葉の様に水気がなく、縦笛の様な細い手足、顔には音孔の様な染が出来、その染から最後の音色を待つだけであった。
家族にはしばしの間の別れを告げ、最愛の妻、幸子にはこれまでの感謝を伝えていた。
近所でも評判の夫婦であり、息子や娘、その孫達さえも羨む、理想の姿がそこに。
幸雄は弱々しくも右手を幸子の頬に当て、最後の言葉を残した。
「さっちゃん、今までありがとう。またいつか会えたらいいな」
そう言うと静かに右手を下ろし、同時に音もなく瞼を閉じた。
幸子から流れる雫は幸雄の頬を流れ、やがて首筋へと辿り、幸雄の身体へ。
そして、幸雄の頬からも雫が流れていた。
その雫もまた同じ流れとなり、やがて身体へと消えていった。
微かな音が聞こえ目を覚ます。
耳障りの悪さに目覚めた幸雄は、容易に身体を起こせる事に気味の悪さを覚えていた。
周りを見渡すといつもの風景とは違い、薄暗く、人一人が進めそうな一本の道だけがあった。
幸雄は、立ち止まっていてもしょうがない、
そう思い薄暗く音の鳴る方へと歩み始める。
久々に歩んでみたからか。脚の感触からそこが部屋なのか、外かさえも判断できずにいた。
そして何処かじめっとした空気を感じながらも、歩みを止める事はなかった。
不思議な事に身体が疲れを知らず、しばらく歩みを進める。
その内耳障りな音が誰かの声だと認識出来る様になっていた。
そこから更にどれくらい歩んだのだろうか。
薄暗さで気付かなかったが、微かに見える視線の先には見た事もない程の大きな門が構えていた。
門は余りにも大きく、首を九十度近くまで曲げる事で初めて、門の天井が判断出来る程だ。
その天井に圧倒され立ち尽くしていた時、突如目の前に耳障りの悪い声の主がやって来た。
それはどう見ても人間の姿ではないものが。
口には下顎から二本牙が生えており、頭には角が二本、背丈は酷く猫背であり、それでも幸雄と同じ程度であった。
幸雄は所謂鬼である事はすぐに判別付き、そして恐しく怯え始めた。
ここが地獄だと確信したのだ。
鬼を認識したと同時に頭を下げ、目を瞑った幸雄に対し、その鬼は態々下から覗き込む様に話しかけて来た。
「おい人間。ワシは待ちくたびれたぞ」
その鬼の声量は遥か遠くまで響き、黒紅色した肌から黄ばんだ目を睨みきかせ、幸雄の反応を窺う。
幸雄は余りの恐ろしさに目を瞑っていたが、赤子が寝静まった部屋の戸を開ける様、そっと、片目をそっと開けると。
「ひぃえぇ」
その顔面の迫力は、八十年余の生を全うした幸雄が、生前出した事のない声を出させるには容易であった。
そして近くに来て気付いたが、鬼からは今の今まで生肉を喰っていたかの様な、そんな血生臭さが鼻腔を刺激していたのだ。
鬼は幸雄の怯えた様子を見て満足したのか、含み笑いをしながら、
「付いて来い」
そう言って幸雄の手を引き門の奥へと歩み始めた。
幸雄はこれまでにない絶望と恐怖を、このひと時で凝縮して感じた為、それ以上考える事が出来ずにいた。
鬼に手を引かれしばらく歩んだ所で、鬼は脚を止めた。
幸雄はそこでやっと意識を目の前に戻す事が出来、無意識に頭を上げると、そこには門に負けじと果てしなく構える屋敷が一棟立っていた。
蛭の様な歩幅の幸雄に、急かす様に先程よりも歩の速度をあげる鬼。
幾段かの階段を上がり終えると、目の前の景色が全て壁になった。
鬼は幸雄の手を離し、一人でにその壁を押し始めた。
大地の唸り声の様な音が響き、壁が動き出した所で、やっとそれが屋敷の扉だと認識していた。
あっけらかんとしていた幸雄に鬼は再度、無言で腕を取り更に奥へと歩みを進める。
少しの時間歩いた所で、目に写った。
奥に鎮座していたのは、その屋敷に相応しい程、大きく、そして絶対的な威圧を放つ大男だった。
大男はその規模に見合った机に、肩肘を付いていた。
道服を身に纏い、頭には道帽子を被り、口と顎には髭を蓄え、その髭を幾度か触りながら話し始める。
「お主の名は?」
その一声は何かを持たずしても、何処までもハッキリと響き渡り、屋敷が反応したかの様に揺れた。
幸雄は余りにも目の前の男が現実とかけ離れすぎた為、鬼に遭遇した時点よりは幾分冷静であった。
「さ、斎藤幸雄で、ご、御座います」
幸雄がそう言うと、大男は机にはみ出された帳面を手に取り眺め始める。
鬼と同じく黒紅色した肌と、全てを見透かしそうな丸っとした目、牙はなくとも何でも食い散らかしそうな、そんな口が開いた。
「お主は生前、素行が悪かったな。特に、火遊び。
そこらで遊んでは悪い浮名を流していたようだ」
幸雄は生前、悪い意味で名の知れた屈指の色男だった。
ハッキリとした目鼻立ちに身長も高く、言い寄って来る女性は沢山居たが、その度に最後は泣かせていた。
そして小気味の良い口蛇皮線で、己からも、漁っては次、漁っては次を繰り返す程。
いつしか大男が言う様に他県にまでその噂は流れていた。
更に結婚してからもそれは続き、止まる事はなかった。
流石に永遠と火遊びを続けるわけにはいかないと思ったのか、いつしかそのお粗末な遊びに終止符を打つが。
その時既に齢は六十を過ぎていた。
幸子とはそれから二十年もの間、誰もが羨む様な仲睦まじい暮らしをしていたが、御天道様だけは見ていたようだ。
大男は幸雄に指を刺し再び口を開いた。以外な言葉だった。
「お主は本来なら即刻、衆合地獄行きだろう。
三番目に優しい地獄だ。だが、今の私は非常に気分が良い。
そこで、一つ条件を出そう」
そう言うと大男は、右手で徐に鼻を穿り出す。
そこから何かを取り出し、人差し指と親指で幸雄目掛けて弾き飛ばした。
飛んできたそれは幸雄の頭上でピタリと止まり、宙に浮いていた。
幸雄は正に何が何だか分からない状況だった。が、自身の置かれた状況がすぐそこが地獄、と言うことだけは把握していた。
大男は幸雄の頭上に止まるそれを見て、口角を上げ、相応しい声量で大きく笑いながら言った。
「ぐははは。【繭】か。そうかそうか。
ま、ある程度悪い事をしとるからな、そりゃそうじゃろう」
屋敷が大男の笑いで大きく揺れ動く。
幸雄は立つのがやっとの状況で、揺れが落ち着いた頃、自分の頭上を見上げてみた。
そこには、【繭】の字が浮かび上がっていた。
それに触れる事が出来るのか一瞬疑問に思ったが、そんな気力はなかった為、そのまま立ち尽くす事に。
笑みを浮かべていた大男は、急に笑顔を消し去り、瞳孔を開き幸雄を見ながら言う。
「猶予は七日だ。七日以内に達成出来なければ、その日の内に衆合地獄へ連れて行くぞ。」
そう言い終わると、大男は入り口に居た鬼へと顎をしゃくり、鬼が幸雄の方へと向かって歩いて来た。
「ほれ、付いて来い」
相変わらずの血生臭さを放つ鬼が近付いた所で、すぐに幸雄の手を取り、大男が座る横を通り過ぎ奥へ。
奥へ進むとそこは薄暗い十畳程度の部屋があった。
部屋の真ん中には立札があり、その下には大きな井戸が一基、井戸の中を覗くと不思議な光を放っていた。
鬼は何も言わず幸雄を見、顎で立札へと誘導する。
幸雄は未だに置かれた状況を分からずにいたが、やむなく立札の方へと足を向ける事に。
その立札にはこう書かれていた。
字を持ち降りる者
掟 その一 書く瞬間、その目でしかと見届けよ
掟 その二 読む瞬間、その耳でしかと聞き届けよ
掟 その三 夕暮より、朝明けまで
掟 その四 雄は雄のみ、雌は雌のみ
掟その四に関しては書き足されていた様で、板の端に無理矢理描かれていた。
どの程度の時間幸雄は見ていただろうか。鬼は痺れを切らしたのか、幸雄に肩を組んで井戸を差し伝えた。
「さぁそろそろいいだろ。さっさと入れ。」
健全な状況ならきっと飛び込む事等あり得ないだろうが、真逆な状況の今、幸雄は底に見える光に希望を託していた。
井戸に入ろうと右足を差し出した時、鬼が背中を押しそのまま幸雄は中へと吸い込まれていった。
井戸の中へと落ちて行く最中の鬼の姿。
その顔は最初から最後まで不気味な顔をしていた。
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