第47話 ドラゴンだーっ!?
森を抜けると前方にかすかな水音が聞こえた。
近づくにつれ、その音は次第に大きくなり、やがて澄んだ渓流が姿を現す。
陽光が木々の隙間から差し込み、流れる水面をきらめかせていた。
その奥にそれはいた。
渓流の向こう、岩肌を背にして横たわる巨大な影。
青く輝く鱗が太陽の光を反射し、まるで湖の底に沈んだ宝石のように美しい。
頭部には白銀の角が二本、天を衝くように伸びている。
樹木の幹のように太い尻尾が大地を這い、ゆるやかに巻かれていた。
巨体は微かに上下しており、穏やかそうに眠っている。
「……嘘……でしょ……」
アマンダの声が震える。
セレスティアも息を呑み、喉が鳴るのも忘れていた。
アンナの指先は小刻みに震え、汗が頬を伝って落ちる。
圧倒的な存在感。
目の前にいるだけで、皮膚がひりつくほどの威圧感が漂っている。
理性ではなく、本能が告げていた。
ここにいてはいけない。
この存在に見つかったら生きて帰れない。
逃げ出したい。
だが、足が竦んで動かない。
恐怖が体を支配していた。
そんな三人の前でロジャーが一歩、前に出た。
「深く息を吸え」
静かに、しかし確かな声でそう告げる。
彼は振り返らず、渓流の向こうに眠る巨影を見据えたままだ。
「吸って……ゆっくり吐け。焦るな。心を落ち着かせろ」
セレスティアたちはその言葉に従い、震える胸を押さえて深呼吸する。
肺に冷たい空気が入り、わずかに頭の霧が晴れる。
「……よし。今のうちに心を整えておけ」
ロジャーが小さく頷く。
その背中はどこか頼もしく見えた。
まるでこの恐怖すら受け止めてくれるような、そんな不思議な安定感があった。
渓流の水音が、やけに大きく響く。
そして、その音に混じって巨体の呼吸音が微かに聞こえた。
それがゆっくりと動いたのだ。
青い鱗が陽光を反射し、森全体に青白い光が散る。
大地がかすかに震え、三人の心臓が跳ねた。
「起きたのですか……?」
アンナが掠れた声で呟く。
ロジャーは答えなかった。
ただ、腰の剣に手を置き、静かに目を細めた。
その瞬間、大地が鳴った。
渓流の向こうで青い巨体がゆっくりと動き出す。
まるで山そのものが姿を変えているかのような錯覚。
木々の枝葉が揺れ、風が逆流する。
巨竜が目を覚ましたのだ。
金色の瞳がわずかに開き、深淵のような光が漏れ出す。
青い鱗の間を走る紋様が淡く発光し、森全体が青い光に包まれた。
「……っ……!」
セレスティアの喉が引き攣る。
息ができない。
ただ、そこに存在しているだけで空気が震えている。
生命の格が違う。
本能がそう理解してしまうほどの威圧感だった。
ドラゴンは長い首をゆっくりと持ち上げ、天を仰ぐように姿勢を変える。
白い角が光を受けて輝き、まるで神殿の柱のように荘厳だった。
そして、その大きな口が動いた。
「……そこにいるのは……誰だ?」
重低音が空気を震わせ、森全体が軋む。
鼓膜を通じてではなく、魂そのものに直接響くような声。
セレスティアたちは一斉に息を呑んだ。
ドラゴンが言葉を発したことに。
「しゃ……喋った……!?」
アンナの顔が真っ青になる。
「まさか、言語を……!? そんな……」
アマンダが声を失う。
言葉を操る竜は上位種と呼ばれている。
それはすなわち、生物の頂点に立つ存在。
人間ごときが敵うはずもない神話の存在である。
その圧倒的な気配に膝が勝手に震える。
視界が霞む。
心臓が早鐘を打ち、呼吸すら忘れてしまう。
動けば、殺される。
声を出せば、焼かれる。
ただ、恐怖。
それだけが彼女たちを支配していた。
そんな中、ロジャーだけが前に出た。
「……落ち着け。吸って……吐け」
深呼吸しろ、と短く言いながら、竜を真正面から見据える。
竜と目を合わせたまま、まるで古くからの友にでも話しかけるような落ち着きぶりだった。
「……人の子が……竜の眠りを妨げに来たか……?」
ドラゴンの声は低く、しかしどこか穏やかだった。
威圧の中に確かな理性が宿っている。
ロジャーは片手を上げ、静かに言葉を返す。
「……そういうつもりはない。ただ、確かめに来ただけだ」
セレスティアたちは震える手で口元を押さえながら、息を詰めて見守る。
ロジャーは青き巨竜の金色の瞳をまっすぐに見上げながら、ずいと歩みを進めた。
その足取りは恐怖とは無縁のように静かで確信に満ちている。
「何の用だ、人の子よ」
竜の声は低く響き、森の奥まで震わせた。
ロジャーは首を傾げながら頭を掻いた。
「いやぁ、用ってほどでもねえんだが……」
そして、ぽん、と手を叩いた。
「あー、そうか。やっとわかった。お前からは、なんというか凄みを全く感じねぇんだ」
その言葉に三人の仲間が絶句する。
「し、師匠!?」
「ちょ、ロジャー!?」
「何を言ってるんですかぁぁぁ!」
だが、ロジャー本人はけろりとしていた。
その態度に青き巨竜の目が細まる。
「……ほう。人間ごときが、我を侮辱するか」
声は一瞬で冷たく変わる。
渓流が震え、風がざわめいた。
その身から漏れ出る威圧だけで木々が軋み、岩が砕ける。
しかし、ロジャーは一歩も引かない。
「別に侮辱してるわけじゃねぇよ。ただな……以前、ドラゴンと戦ったことがあるんだが、そいつに比べると――」
人差し指を立てて軽く振る。
「――お前からは、あの時の圧が全然感じられねぇんだ。確かに、お前はドラゴンだから強いんだろう。けど、圧倒的強者の風格ってやつが……ない」
竜の瞳に怒気が宿る。
低く唸るように喉を鳴らし、牙を剥き出しにする。
「貴様……よくもこの我にそのような口を!」
風が爆ぜ、渓流が逆巻く。
巨竜の口元から、熱を孕んだ光が漏れ始めた。
「ならば、我が力の一端を味わうがいい――矮小な人間よ!」
怒号とともに大気が焼ける。
その瞬間、ロジャーは足を止め、使い魔たちをそっと腕に包み込んだ。
口元に不敵な笑みを浮かべる。
「やってみろ。だが言っとくぞ、俺はこの子たちに誓ったんだ」
ロジャーの声が低く、しかし力強く響く。
「この世のすべてから守るってな。それがたとえ魔王だろうと、ドラゴンだろうと」
瞬間、ロジャーの全身から光が奔った。
大地が震え、空気が爆ぜる。
彼の体を包む魔力は竜すらたじろぐほどの圧力を放っていた。
青白い輝きが周囲の空間を歪め、地面の草が一斉に風に押し倒される。
「この魔力、人間のものか……!?」
巨竜が目を見開く。
その瞳に初めて驚愕の色が宿った。
ロジャーは抱きしめていた使い魔たちの頭を軽く撫でながら、静かに言った。
「悪いが、この子たちの前で負けるわけにはいかねぇんだよ」
青き巨竜は燃え立つような魔力の奔流を前に思わず動きを止めた。
肌を焼くような魔力圧に竜の鱗がわずかに軋む。
「……待て、人の子」
その声は先ほどまでの威圧が嘘のように静まり返っていた。
どこか、慎重さを含んだ響きだった。
「……先ほど用があると言っていたな。まずは――話を、聞こうではないか」
ロジャーは使い魔たちを腕に抱いたまま、竜を見上げる。
その表情はどこか拍子抜けしたような微妙なものだった。
「話ねぇ……。まあ、聞いてくれるなら助かるが――」
ロジャーは首を傾げ、しばし竜をじっと観察する。
そして、ぽつりと呟いた。
「おい。お前、まさかとは思うが、まだ子供じゃないだろうな?」
その言葉にドラゴンの瞳がぴくりと動いた。
「ば、馬鹿な……! 我は誇り高き竜族の――」
「その反応、図星だな」
ロジャーがジト目で睨む。
肩をすくめながら、一歩前に出た。
「さっきからどうも様子がおかしいと思ったんだよ。圧倒的強者の風格がねぇっていうか……。正直、経験不足の匂いがプンプンする」
ドラゴンの顔に一瞬、焦りのような色が浮かぶ。
ロジャーは溜息を吐き、手のひらを軽く上げた。
「正直に話さねぇなら、こっちにも考えがある」
瞬間、ロジャーの魔力が再び弾けた。
空気が震え、大地が鳴動する。
魔力の奔流が渓流の水を逆流させ、木々が軋みを上げる。
「……っ!?」
ドラゴンの瞳が見開かれた。
その瞳にはもはや怒りではなく、明確な恐怖があった。
竜の本能が告げていた。
この男には勝てない。
この存在は自分の理解を超えている。
数秒の沈黙の後、巨竜は重々しく首を垂れた。
「……降参だ。認めよう、我は成体になったばかりだ」
セレスティアたちが驚愕の息を呑む。
「住み家を探していたところ、この森を見つけた。魔力の流れが良く、棲むには最適だった。だから、ここを我が巣としようとしただけだ。まさか、これほどの人間が近くにいるとは思わなんだがな……」
疲れたように話す巨竜は静かに息を吐いた。
ロジャーは腕を組み、ふむと唸る。
「なるほどな。つまり、引っ越し中だったってわけか」
「ひ、引っ越し……?」
「ああ。要するに巣探しだろ? 部屋探しみたいなもんだ」
ロジャーがあっけらかんと笑う。
竜は戸惑いながらも、なぜか否定できずに口を閉ざした。
「なるほど、ドラゴンのくせに可愛いとこあるじゃねぇか」
その言葉にドラゴンはますます目を丸くする。
ロジャーの腕の中で、使い魔たちがぴょこぴょこと鳴いた。
「ほら、この子たちもそう思ってる。お前、案外悪くない顔してるぞ?」
「な、なにを言うか! 我は誇り高き竜ぞ!」
「まあまあ、怒るな怒るな」
ロジャーは笑いながら、使い魔の頭を撫でた。
ドラゴンは困惑しながらも、なぜか攻撃の気配を見せない。
先ほどまで命を削るような緊迫の空気が、いつの間にか和らいでいた。
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