第23話 ゴブリン退治

 焚き火の赤が徐々に小さくなり、森は静寂に包まれていく。

 アマンダとアンナは既に寝袋の中で安らかな寝息を立てていた。


 夜の見張りはロジャーが一人で引き受けている。

 膝に肘をかけ、真剣な眼差しで闇を見据える姿は、いつもの飄々とした彼とは別人のようだった。


 やがて、テントの中から小さな気配が動く。

 セレスティアが毛布を抱いたまま出てきて、火の傍に腰を下ろした。


「……眠れないのか?」


 ロジャーが問いかけると、セレスティアは小さく頷いた。


「はい。明日のことを考えると、胸が高鳴って……怖いのか、楽しみなのか、自分でもわからないんだ」


 ロジャーは鼻で笑い、夜空を仰いだ。


「そんなもんだ。俺だって最初の山籠もりのときは三日三晩眠れなかったからな」

「山籠もり……?」

「山奥で一人、断食と座禅と素手での狩り。夜は寒さで震え、昼は飢えで頭が回らん。けどな……そういう時に一番、自分の心と体が研ぎ澄まされるんだ」


 焚き火がぱちりと弾ける。

 セレスティアは驚いた目を向けた。


「……普通の人なら死にますよ」

「俺は普通じゃない。だから生き残った。……そして、今もこうして見張ってる」


 ロジャーは片方の口角を上げ、視線をセレスティアに戻した。


「だがな、セレス。お前が眠れないのは悪いことじゃない。戦う前に緊張できるやつは、最後まで踏ん張れる」


 セレスティアは火の揺らめきを見つめ、ぎゅっと拳を握った。


「……明日、私は逃げない。恐怖を振り払って、最後まで立ってみせる」

「その意気だ」


 ロジャーの声は低く、しかし確かな熱を帯びていた。


「明日は血の匂いと悲鳴の中に立つことになる。だが、お前が剣を振り続ける限り、俺が隣で見ている限り……終わりはしない」


 その言葉に、セレスティアの胸が少しだけ軽くなる。

 彼女は微笑みを浮かべ、小さく頷いた。


「ありがとうございます、師匠」


 ロジャーは何も言わず、焚き火に新しい薪をくべる。

 炎が再び大きく燃え上がり、二人の影を闇に揺らした。


 夜明け前の薄暗さがまだ森に残っていた。

 焚き火の匂いも煙もない静かな気配の中、セレスティアたちはゴブリンの群れが潜む洞窟へと忍び寄る。


 アマンダが矢をつがえ、弦を引き絞った。

 放たれた矢は音もなく飛び、見張りのゴブリンの喉を貫く。

 呻き声すら上げられず、そいつはその場に崩れ落ちた。


「今だ!」


 セレスティアの低い声と同時に、一行は突入した。

 彼女の剣が一閃し、混乱するゴブリンを斬り伏せる。


 普段は飄々としたロジャーも真剣そのもの、体術で次々とゴブリンを地に叩きつけ、アマンダの矢が的確に急所を射抜いていく。


「はぁっ!」


 セレスティアは気迫を込め、迫り来るゴブリンを斬り裂いた。

 勢いに乗った快進撃――次々と数を減らしていくゴブリンたち。


 だが、それは長くは続かなかった。


 群れの奥から、低く唸る声が響いた。

 現れたのは体格の大きな上位種――ゴブリンロード。

 その影に従うようにゴブリンシャーマンまで姿を現す。


 シャーマンの杖が振るわれ、幻惑の霧が一帯を覆った。

 ゴブリンたちは統率を取り戻し、鋭い叫び声をあげて一斉に反撃に転じる。


「くっ……!」


 セレスティアの腕に刃がかすめ、血が散った。

 だが彼女はよろめきながらも踏みとどまり、剣を握る手に力を込める。


「まだ……戦える!」


 背後ではアンナが使い魔たちと共に避難場所を固め、ロジャーはその守りに徹しつつも鋭い視線で前線を見据えていた。


「セレス! 無理はするな、俺がいる!」

「落ち着け、隙を狙え!」


 アマンダが矢を次々と射ち込み、セレスティアの剣筋を支える。

 激しさを増す戦場の中で、少女の奮闘はまだ続いていた――。


 ゴブリンシャーマンが杖を掲げ、不気味な呪文を響かせた瞬間、空気が淀み、辺りの景色がぐにゃりと歪んだ。

 次の刹那――森の奥から這い出すように、巨大な黒き影が現れる。


 ――黒竜。


 全身を漆黒の鱗で覆い、血のように赤い双眸がセレスティアを射抜く。

 口腔から溢れる業火の気配は幻のはずなのに、皮膚を焦がすような熱を伴って迫った。


「っ……!」


 セレスティアの足が竦む。頭では分かっている。

 これは幻影だと。

 だが、理屈では抗えない。


 心臓は握り潰されそうなほど早鐘を打ち、喉は干上がったように乾く。

 剣を持つ手が震え、指から滑り落ちそうになる。


 黒竜の咆哮が空気を震わせ、地面が割れる錯覚が広がった。

 恐怖に押し潰され、セレスティアはその場に膝をつきそうになる。


「セレス!」


 ロジャーの怒声が飛ぶ。


「幻影だ! だがな――この恐怖に打ち勝てなきゃ、ドラゴンに立つことはできねぇ! まだ剣を握れるだろう! 立ち向かえ! お前は貴族のお嬢様じゃない! いずれ、ドラゴンをテイムするテイマーだろうが!」

「……!」


 胸を突き刺すような叱咤に、セレスティアは目を見開く。

 確かに恐怖で体は震えている。

 だが、まだ、剣は手の中にある。


「私は……!」


 震える足に力を込める。

 幻影の黒竜の眼光が迫る。


「私は……諦めない!」


 振り絞るような声と共に、一歩を踏み出す。

 その瞬間、黒竜の幻影が砕け散るように霧散した。


「ギィッ……!」


 詠唱を途切れさせたゴブリンシャーマンが驚愕する。

 ゴブリンの群れを飛び越えて、セレスティアはゴブリンシャーマンへと迫る。

 セレスティアは渾身の力で剣を振り下ろし、シャーマンの杖を弾き飛ばした。


「よし!」


 ロジャーが声を上げ、アマンダが瞳を輝かせる。


「幻影を破った……!」


 息を荒げながらも、セレスティアは剣を握り締め続けていた。

 恐怖は消えていない。

 だが、それでも前を向くことができる。

 それが、彼女の新たな一歩だった。


 シャーマンの杖を弾き飛ばした刹那、すぐそばから轟くような咆哮が響いた。

 ゴブリンロード――巨体を震わせながら、鉄棍を振り上げてセレスティアに迫る。


「セレスティア、下がれっ!」


 アマンダが弓を引き絞り、矢を放つ。

 鋭い一矢がゴブリンロードの腕に突き刺さり、苦痛の呻きと共に鉄棍が地に落ちた。


「今だっ!」


 セレスティアは叫び声を上げ、全身の力を剣に込めて突き出す。


「ああああああああああああっっっ!!!」


 雄叫びと共に放たれた突きは真っ直ぐに喉笛を貫いた。


「ギィィィィ……!」


 濁った声を漏らし、ゴブリンロードは巨体を痙攣させて崩れ落ちる。

 頭を失った群れは一斉に悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


「逃がすかよ!」


 ロジャーが地面に拳を突き立てた。

 瞬間、彼を中心に広がる魔法陣が輝き、轟音と共に炎が奔流のように洞窟を埋め尽くす。

 逃げ惑うゴブリンたちは、悲鳴を上げる間もなく炎に呑まれ、灰へと帰した。


 残響だけが丘にこだまし、やがて静寂が訪れる。


「……終わったな」


 ロジャーが肩を回しながら立ち上がる。

 アマンダは安堵の息を吐き、セレスティアは荒い呼吸のまま、血に濡れた剣を見下ろしていた。


 震えはまだ残っている。

 だが確かに――彼女は恐怖を越えて、一撃を通した。


 ゴブリンロードが崩れ落ち、丘に重苦しい沈黙が広がる。

 セレスティアは荒い呼吸を繰り返しながら、まだ震える手で剣を支えていた。


「……これで、終わったの? あ! そういえばゴブリンシャーマンは?」


 不安げに呟いた彼女に、ロジャーが鼻で笑った。


「シャーマンのことか? あんな奴、杖を落とした瞬間に一目散に逃げやがったよ。もっとも――」


 ロジャーは振り返り、燃え尽きたゴブリンの群れを顎で示した。


「さっきの俺の魔法で、灰になってるだろうがな!」


 豪快に笑うロジャーの声が、戦場に残る血と煙の匂いをかき消すように響く。

 アマンダは小さく肩をすくめたが、その口元には安堵の笑みが浮かんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る