第5話

「最初から目は覚めてる」


 言いながら頬を押さえていた手を下ろす。ジンジンと響くような痛みは心にまで広がっていく。三奈は一つ深く息を吐き出した。


「目が覚めてなかったのはそっちじゃない? 嫌なら最初からそう言えばいいじゃん。なに? わたしが可哀想だからちょっと期待させてみたの?」


 三奈は薄ら笑いを浮かべながら美桜の瞳を見つめる。怒りが込められたあの瞳を見つめていれば心の痛みも忘れられそうだ。あの怒りは自分に向けられている。

 あと少し。

 あと少しで美桜はきっと嫌いになってくれる。

 だから、もっとウソを並べないと。


 ――美桜をわたしから守るためのウソを。


「ひどいなぁ。わたしの気持ちを弄んでさ。あ、あれか。わたしが最初にあの人との仲を邪魔したから、その仕返しをしてんだ?」


 精一杯のウソを。

 どんなに心が苦しくても言葉を止めてはいけない。

 そうしないと、美桜は離れていってくれないから。


 ――美桜を好きなわたしがいれば、きっといつか美桜を傷つけるから。


「美桜、あの人のこと好きになって性格悪くなったんじゃない? わたしが言うのもなんだけどさ」


 三奈は肩を竦めながら言う。美桜はまだ怒った顔のままだ。何かを堪えるように唇を噛んでいる。


 ――もっと嫌われないと。美桜が、もう二度とわたしに近づかないように。


 三奈は笑みを消して美桜を睨んだ。そして渦巻く感情を精一杯押し殺す。


 ――大好きな美桜が、わたしから離れるように。


「わたし、そんな美桜は嫌い」


 ――あの人の隣で美桜が安心して笑えるように。


「あんな奴を好きな美桜は大嫌い」


 美桜は顎を引き、わずかに眉を寄せる。それは彼女が本気で怒ったときに見せる表情だった。三奈は心の中で安堵して彼女から視線を逸らす。

 これで、きっともう美桜は――。


「無駄だからね」


 静かな部屋に響いた美桜の声。三奈はハッとして視線を戻す。彼女は三奈のことを睨んだまま「わたしは、三奈のこと嫌いになんてならない」と言った。


「え……?」

「わたしは三奈がなんと言おうと三奈のこと好きだから」


 彼女が何を言っているのか理解できなくて三奈は眉を寄せる。


「なに、言って……」


 掠れた自分の声を聞いて、三奈は我に返った。そして美桜を睨む。


「聞いてた? わたしはあんたが嫌いだって言ってんの」

「うん」


 美桜がそっと三奈に手を伸ばしてくる。


「もう、美桜の顔なんか見たくない」

「うん」


 彼女の冷たい指が腫れた頬に触れる。三奈は必死に感情を殺しながら「わたしは」と言いかけたが、喉に何かが詰まったようになって声が出ない。


「ごめんね。つい思いきり殴っちゃった。ほら、三奈も昨日思いきりわたしのこと殴ったでしょ? そのお返しのつもりだったんだけど。痛かった?」


 美桜が心配そうに首を傾げて三奈の頬をさする。美桜の手が冷たいのか、それとも自分の頬が熱いのかわからない。けれど、その手は優しくて心地良い。三奈は目を閉じて涙を必死に堪える。


 ――わたしは、美桜のことが。


「……大嫌いだってば」

「また、そんなウソばっか言ってさ」


 ペチッと頬を叩かれて三奈は目を開ける。目の前で三奈の顔を覗き込む彼女は、微笑んでいた。何もかもわかっている。そんな表情で。


「は? ウソ? なに言ってんの。わたしは――」

「三奈ってさ、ウソつくとき微妙に右の眉が上がるんだよ。これ、たぶん誰も知らないと思うんだけど」


 言って彼女は三奈の頬に触れていた手を額へと移動させる。


「さっきからずっと右眉、上がってるよ」


 三奈は美桜の手を払うように顔を左右に振ると、懸命に美桜を睨んだ。


「触らないでよ。わたしなんかに」


 ――そんな笑みを向けないで。


「優しいね、三奈は」


 そう言った彼女は、あのときのような困ったような笑みを浮かべていて、しかしその瞳にはあのときのような弱々しさはない。


「わたしは三奈がどんなにわたしと友達の縁を切りたくても切るつもりはないから」


 そう言って彼女は立ち上がって三奈を見下ろす。


「三奈がどんなにわたしのことを嫌いでも、わたしは三奈のこと好きだから」


 三奈はぼんやりと美桜のことを見上げる。彼女は困ったような笑みのまま「三奈のせいだからね」と言った。

 言葉の意味がわからず三奈が黙ったままでいると、美桜は懐かしいことを思い出したようにわずかに目を細めた。


「高校に入って浮いてたわたしを拾ってくれたのは三奈でしょ? だから、ちゃんと最後まで責任とって面倒みてもらわないと」

「面倒? 最後までって……」


 美桜が何を言っているのかわからない。困惑しながら彼女を見上げていると美桜は笑った。さっきまでの困ったような笑みではない。まっすぐで綺麗なキラキラした笑顔。そしてちょっと、いたずらっ子のような笑顔。


「死ぬまでだよ」

「は?」

「死ぬまでわたしと友達でいなよ。三奈」


 それは、あまりにも残酷な言葉。けれどもあまりにも優しい言葉。三奈は俯きながら「なんで」と低く声を漏らした。


「わたしはあんなにひどいことしたのに。美桜に、あんなに辛い思いをさせたのに」

「……三奈さ、あのとき最初から言いふらす気なんかなかったでしょ」


 当たり前だ。そんなことをすれば美桜が傷ついてしまう。あの人が傷つけば、きっと美桜だって傷つくのだから。そんなことできるわけがない。


「あれはね、わたしが自分で選んだんだよ。そうやって先生を守れるつもりでいたの。でも違った。わたしが選択を間違えて、周りの人をたくさん傷つけた。わたし自身も、それから三奈、あんたのこともね」

「違う。わたしは美桜のことを手に入れたいって、それだけしか考えてなかった。今だってそうだよ。わたしのモノにならない美桜なんかいらないって思ってる。わたしを見てくれない美桜は嫌い。わたしは自分勝手でウソつきな汚い人間だからさ。だから、美桜はもうわたしなんかとは――」

「無駄だって言ったよね? 聞き分けの悪い三奈は嫌い」


 その言葉に三奈は思わず言葉を呑み込んで顔を上げる。彼女は強い瞳を三奈に向けていた。


「美桜?」


 つい不安になって彼女の名を呼ぶ。すると彼女は表情を緩めた。柔らかく微笑むその顔はどこか大人びていて、その笑みを見て三奈はようやく気づく。

 もう、あのときのような触れたら壊れてしまいそうな弱い彼女はいないのだ。


「大丈夫。全部わかってるよ。三奈がすごく優しいってこと。わたしが誰よりも知ってる」


 美桜の言葉が痛む心に染みこんでいくようで、そして嫌われたい気持ちと同じくらいに溢れてくる嫌われたくないという気持ちをどうしたらいいのかわからなくて、三奈は項垂れながら床に視線を向けた。


「ずっとそばにいるからね。三奈が嫌だって言っても、ずっと」


 美桜の手がふわりと三奈の頭を撫でる。そしてそのまま彼女はバッグを手にして出て行ってしまった。三奈は顔を上げると唇を噛みしめ、美桜が座っていたクッションを掴んでドアに投げつけた。しかし、何事もなかったかのようにトントンと階段を降りていく足音が聞こえる。


「――大嫌い」


 呟いたウソは、もう美桜には届かない。

 きっと彼女はもう大丈夫なのだ。繊細で弱々しくて壊れそうだった彼女は、いつの間にか大切な何かを見つけて、それを守るためにまっすぐ前へ進んでいく。

 もうウソをつきたくないと言った彼女はウソをついても綺麗なまま。三奈が彼女のそばにいてもいなくても関係ない。彼女が歩みを止めることは、もうないのだろう。

 それに比べて自分はどうだろう。

 小さな世界に満足して、怖がって足を踏み出すこともできない。ウソだけを纏って小さく丸まり、初めて見つけた大切なものを守るのだと意気込んで空回りして……。


「なにやってんだろ、わたし」


 三奈はテーブルの上に並べられたコーラへ視線を向ける。ペットボトルから流れ落ちた水滴がテーブルの上で小さな水たまりを作っていた。

 どこで買ってきたのだろう。近くの自販機だろうか。あの美桜が一人で何本もコーラを買ってバッグに入れている姿を想像すると少し面白い。重かっただろうに、三奈のために持ってきてくれた。

 三奈は息を吐くと自分の額に手をやる。


「右眉が上がる、か」


 そんな癖、自分だって知らない。なのに美桜は知っていた。まるで三奈のことをずっと見ていたかのように。いや、きっと見ていてくれたのだろう。だって三奈が感情を抑えられなくなったときにいつも止めてくれるのは美桜だった。さっきだってそうだ。

 思いながら、まだ痛む左頬を手で押さえる。

 死ぬまで友達でいろ、と彼女は言った。三奈の気持ちを元には戻せないことを知っていながら、それでも友達でいてくれる。

 また暴走するのなら、いくらだって止めてやる。その意思の表れだったのかもしれない。

 全力で止めるから、と。

 それほどまでに彼女が自分のそばにいてくれる理由がわからない。自分のことを好きだと言ってくれる理由がわからない。

 美桜のそばにいればいるほど、好きだという言葉を聞けば聞くほど、三奈は苦しくて辛くて感情を抑えられなくなるだけなのに。

 いつ美桜をまた傷つけるかわからないのに。

 それなのに、離れてはくれない。

 死ぬまで苦しめと言われているようなものだ。それでも、やはり彼女のことを想う気持ちは変わってくれそうにない。


「――罰かな」


 今まで散々ウソをついて人を傷つけてきたことに対する罰なのかもしれない。とても残酷でひどくて、とても優しい罰。

 三奈はため息を吐いて仰向けに寝転ぶと目を閉じる。

 一階で、掃除機の音が再び響き始めていた。

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