第3話

 三奈はペットボトルを一本取って蓋を開ける。爽やかな良い音が部屋に響き渡った。炭酸が少し抜けるのを待ってから一口飲む。


「……いいの? ここにいて」


 両手でペットボトルを持ちながら訊ねると、美桜は怪訝そうに首を傾げた。質問の意味がわからないのだろう。三奈はグッと両手に力を入れる。


「あの人のところにいなくていいのかって聞いてんの」


 すると彼女はようやく理解したのか「ああ、うん」と頷いた。


「今日も明日も、仕事なんだって」


 ――だから、ここに来たんだ。あの人がいないから。


 ベコッとペットボトルが音を立てて少し凹んだ。


「へえ。大人は大変だね」

「……そうだね」


 ちらりと視線を向けると、美桜はテーブルの上に手を置いて親指と人差し指を擦るようにして動かしていた。それは彼女の癖だった。困ったときによくやる癖。友人たちの中でも知っているのは三奈だけだろう。

 学校にいるときの美桜はいつだってクールで、自分の感情を隠すのが上手かった。だから、この癖を知っているのは彼女をいつも見ていた自分だけ。


「あのさ、三奈。昨日も言ったんだけど、わたしは――」

「だから、わかってるって」


 再びベコッとペットボトルが音を立てた。

 わかっている。もう、充分すぎるほどわかっているのだ。彼女の気持ちが変わらないことくらい、最初からわかっていた。だって美桜のこんな顔を見たことはなかった。こんなに弱々しい表情を彼女が他人に見せることはなかった。


「わかってないよ、三奈は」


 そう言って柔らかく悲しげに微笑む顔を、三奈は知らない。


「わたしは三奈のこと、大切だって思ってるんだよ?」


 そうやって自分の感情を素直に言葉にするような美桜を三奈は知らない。


 ――全部、知らない。


「変わったよね、美桜は」

「そう?」


 自覚がないのだろう。自覚があれば、きっとそんな顔を他人に見せたりはしない。


「あの人のせい?」


 美桜は少し考えてから「もし、わたしが変わったって三奈が言うのなら、それはきっと先生と」と言葉を切って薄く微笑んだ。


「三奈のおかげ」

「――それはずるいよ」


 三奈は思わず呟く。ペコッとペットボトルの形を元に戻してテーブルに置く。


「三奈のこと嫌いになんかならないよ。大切だもん」

「わたしの知ってる美桜はそんな歯の浮くようなセリフ言ったりしなかった」


 すると美桜は驚いたような顔をしてクッと笑った。


「そうかもね」


 でも、と彼女は優しい表情のまま続ける。


「ちゃんと言葉にして言わないと伝わらないってわかったから」

「ふうん」


 三奈は膝を抱えて美桜の顔を見た。幸せそうだった。一昨日、この部屋で見た彼女の顔とはまったく違う。

 ちゃんと言葉にして伝えた結果、彼女はまた一歩先へ進んでしまったのだろう。そしてきっと気づけば遠くなってしまうのだ。

 知らないうちに。

 あっという間に。

 追いつけないほど遠くに行ってしまう。


「どこがいいの? あんなおばさんの」


 一瞬、美桜の表情が硬くなったのがわかった。そういえば前に美桜が言っていた。


 ――わたしの好きな人のこと、悪く言わないで。


 違うのに。今は別に悪く言いたいわけじゃないのに。ただ知りたいだけだ。自分とあの人の何が違うのか。自分の何がダメだったのか。


「どこがいいのか、言ってみてよ」


 美桜は窺うような視線を三奈に向けたが、やがて「そうだなぁ」とテーブルに置かれたペットボトルたちを見つめた。そして何か思い出したのかフッと微笑む。


「どんなに自分が辛くても他人のことを心配しちゃうところ。大人なのに大人らしくないところ。恐がりなところ。純粋なところ。まっすぐなところ。素直なところ。仕事を頑張ってるところ。それから、私生活がポンコツなところ――」


 彼女の口から出てくる言葉はどれも愛しさに満ちていて聞いていたくない。だけど、その言葉を一つ一つ噛みしめるように言う美桜の表情は透き通ったように綺麗で、ずっと見ていたいと思ってしまう。


「それから」


 美桜は微笑みながら顔を上げた。


「寂しいって言っちゃうところ」

「なにそれ」

「わたしは言えないなって思ったんだ。何でもない相手に対して寂しいからそばにいてなんてさ」

「……それ、完全に誘ってるじゃん」


 しかし美桜は笑って首を左右に振った。


「酔っ払ってたんだよ。寝落ち寸前にそんなこと言ってくるから、子供みたいだなって思って」

「いつの話? それ」

「え……」


 美桜は一瞬言葉に詰まり、そして僅かに視線を俯かせて「五月の終わりくらい、かな」と言った。三奈は眉を寄せて「意味わかんないんだけど」と低く言う。


「なんで酔っ払って寝落ちしてるあの人と美桜が一緒にいるわけ?」


 すると美桜は「ああ、うん」と笑みを顔に残したまま、何かを決意したように短く息を吐いた。


「隣の部屋に住んでる人ってね、先生なんだ。ナナキの散歩させてるときに偶然会って……。先生、なんかすごく辛そうで実家にも居場所がないみたいで。だから、うちの部屋を貸してあげることにしたの。でもすぐには部屋に入れないから、二晩だけわたしの部屋に」


 ――なにそれ。


「へえ。そのとき一緒に寝たの?」

「……先生が最初の日に客用の布団にビール零しちゃったから、一晩だけベッドを半分こしたけど」


 美桜の頬がわずかに赤くなった。その反応に苛立ってしまう。


「あのアパートって、たしか二階は空室だったよね。てことは、あの人と二人だけで暮らしてるってこと? それ、周りは知ってんの?」

「ママと松池先生は知ってるけど、他の人は知らない」


 ――そうやって、わたしが知らないところで秘密をつくっていたんだ。


「ウソついてんだ? 周囲に知られるのが怖くて」


 ――あの人を守りたくて。だから、あのアパートにわたしが行くのを嫌がった。


「そうだね。うん、そう……。わたしはみんなにウソをついてた」


 ――違う。それはウソじゃない。そんなのはウソとは言わない。ただの秘密だ。


 美桜は「でも」と三奈の目を見つめた。まっすぐに。キラキラとした輝きを湛えて。


「もう、ウソはつかない」


 そう言った彼女の顔は決意に満ちていた。


「言いふらすかもよ? わたし」

「いいよ。別に悪いことしてないし」

「悪いことでしょ。教師が生徒に手を出すなんて。あの人、クビになるんじゃない? 美桜だって進学できなくなるかも」

「そうなったら二人でどこか別の土地に行くのもいいかなぁ。お金はないけど」


 そう言って美桜は笑った。三奈の前でいつもそうしているように、自然な笑顔で。


「ふうん」


 三奈は膝を抱えた腕に力を込めて床を見つめた。

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