水と油とロケットと–3話
ハカセの言葉を最後まで聞くや否やの瞬間、船底が大きく弾かれたかのようにどぉんと衝撃が走る。足場が歪み、小さな潜水艦は一気に水上へと駆け抜け、分厚い水の膜を突き破って湖上まで吹っ飛んだ。いきおい慣性でハッチに全身を叩き付けられた俺は、くらくらする視界に巨大な水柱を何本も映して呆然とした。
ほとんど透明なそれらはタコの触腕のようにうねり、水中から突き出した分の長さだけでこの潜水艇3機分ほどはある。空を切って一回転し横倒しに着水した船の中、驚愕に言葉もない俺をむぎゅっと押しやり、マコは爛々と光る眼で頭上の触腕を眺めている。
「わーー!これってもしかして、スライム?こんなにでっかいスライム初めて見た!」
「ぐえ、バカマコ降りろ!ハカセ!どーすんだよこれ、早く何とかしてくれ!」
「やはりスライムだったか、ここまで成長してしまっていたとは…」
ハカセはぶつぶつ何か言っているが、同時に素早いタイピングの音が聞こえるあたりデータを記録することに夢中な様子だった。
スライムというのは、所謂洗濯糊とホウ酸でつくるあの泥ともゴムともつかないぶよぶよドロドロした塊のように、水気があって自在に形を変える、半固形状のクリーチャー全般を指す言葉だ。透明か半透明の個体も多い。分類が広く、どこにでも発生しやすいことから比較的よく見かけるクリーチャーだ。
しかしマコの言った通り、こんなにでかいのはお目にかかったことも無い。適切な育成環境がないと大きくなれず、干からびて消滅してしまうという特性もあるこのクリーチャーだが、逆に言えば良い環境とたっぷりの餌さえあれば無限に大きくなれる可能性も秘めているということだ。
「2人とも大丈夫?」
「キリさん!」「何とか」
「よし、じゃあエンジンかけ直して!捕獲に入るよ!」「え!?」
半ば呆然としている俺を踏み潰してマコが操縦席に移る。エンジン音が鳴り出すと周囲のスライムがびくりと反応し、俺たちを探すように動き始める。水面を叩く触手にぞっとして、通話中のアイコンを示すガジェットに向かって喚き散らした。
「こ、こんなのどうすんだよ!囲まれてんのに、捕まえるったって」
「何とかそいつを陸まで引き付けて、浅瀬まで連れてこれれば捕獲器を使えるから」
「わかりました!」「おい!!」
「ユウ!後ろ見張っといて!」
マコは迷いなくそう言い切り、船を動かそうと躍起になっている。俺は思わず零した。
「怖くねえのか?」「え?」
「こんな状況で…いくら生き物が好きだからって、なんで平気でいられるんだよ」
情けないことに、俺の両膝はさっきから笑っぱなしだった。マコだって手袋の中の指先を震えさせているくせに、どうしてそんな顔をしていられるんだ。
「だって、そりゃ私だって怖いけど…でも、私だけじゃないから。ユウがいるから、怖いけど、でもなんとかなるって気がするんだよ」
「俺が?」
「ユウは私と違って冷静だし!細かい作業も得意だし、山育ちだし、ちょっと怖がりだけど」
今の所何にも何とかなりそうな要素が見当たらなかったが、それでもマコは澄んだ瞳を何の衒いもなく、真っ直ぐに俺に向けてくる。
「ユウが助けてくれれば、ぜったいなんとかなるんだよ!いつもそうでしょ」
あの白い子のときだって、とマコははにかむように笑った。傾いた船体を元に戻そうと操縦席を体全体で押して揺らしている。俺はへたりこんだままそれを見ていた。触腕が船底を叩き、鈍い音が響く。
「そりゃあ怖かったけど、でもユウは咄嗟に手を掴んでくれたでしょ。あの時ほんとに、ユウがいなかったら私途中で手離してたよ!」
「…あん時だって結局俺は何にもできなかっただろ」
「そんなの、私だってそうだったでしょ!だからさ」
どん、と弾むような音が耳元でこだました。ゆっくり顔を上げると、マコの碧い眼差しと俺の視線がかち合った。
「いっしょにやろうよ。2人ならなんだってできるよ」
触腕がハッチをこじ開けようと這いずり、分厚いアクリル板にヒビが入った。マコはびくりとして上を見上げたが、またすぐに船体を押し始める。
どうしてこいつはこんな情けない俺を信じてくれているのだろうか。考える間もなくマコの隣に立ち、手のひらに強く力を込めていた。傾いていた船が勢いをつけて元の位置に戻る。俺たちは反動でよろめき船底に倒れ転がる。ひび割れた窓越しに揺れる触腕が見えた。
「やった!」「あんまり喜んでらんねえぞ」
「うん、よし、行こ!」
操縦席に座り、レバーを握る。ガジェットにはスライムと捕獲器のデータが送られて来ていた。続けてハカセの声が2人のガジェットから響き渡る。
「スライムは獲物の匂いと動きを感知して餌を探し、捕食する。そこで大人しくしている限りは襲ってくることはないと思うが」
「思うが?」
「どうやら腹を空かしているらしいな、気が立っている。このままでは襲われずとも暴れだして渦に巻き込まれるかもしれん」
「何にしてもさっさと逃げたほうがいいってわけか」
「でもこの船、時速30kmくらいしか出ないんですよね?大丈夫かな」
「大丈夫!エンジンスイッチの下にターボスイッチがあるでしょ、それを押せば一気に2倍速まで出せるようになるよ!」
「それでも法定速度じゃねーか、どうせならマッハ出るようにしといてくれよ」
文句を言いつつ赤いスイッチを押し込むと、どるんと音が鳴って大きく船が揺れ始めた。周りの触腕達はびくりと体を震わせて一斉に船を目がけて集まってくる。レバーを目一杯前に倒して、アクセルを思い切り踏んだ。
小さな船は唸りをあげて水面を進み出した。船を獲物と見なしたスライムは、跳ね上がる水飛沫とともに水面下を追いかけてくる。波のように立ち上がった触腕の1本が下からハッチを突き上げ、透明な蓋が空中へと吹き飛ぶ。俺たちは唖然としてそれを見上げ、慌ててガジェットに呼びかけた。
「おおおおい!!やばいってさすがに死ぬぞこれ!!」
「ハカセ〜!!たすけて!このままじゃ私たちスライムのごはんですよ〜!!」
「落ち着け諸君、追いつかれることは恐らくない、そのサイズなら触腕1本でもかなりの重さだろうからな」「恐らく!?」
「頑張って!そこから岸まで今の速度ならだいたい7分で着くはず、直線距離で逃げ切って!」
「頑張るけど!窓飛ばされちゃいましたよ〜!!」
「ええ!?まずいなあ、でもなんでそこまで船に執着するんだろう?」
「そんなの知るかよ!!」
「いいか、そいつらは動きと匂いで獲物を感知していると言っただろう、ただ動くだけの鉄の塊に反応するはずはないんだ」
「じゃあなんでこんなに追っかけてくるんですか〜!!」
俺とマコは必死に操縦レバーにしがみついている。座席を覆っていた窓が失われた今、乗組員は生身をむき出しの状態で、つまり全くの無防備だ。もう一度操縦席を攻撃されたら今度は俺たちが吹っ飛ぶ番である。
「お前たち、さっきのヌマスナメリの血を浴びていただろう!それに反応して獲物だと思われているんじゃないのか、」
「でも、そのあと着替えましたよ!?」
「血の成分は落ちにくい、髪や皮膚に染み込んでしまっている可能性がある」
「…もしかして、お前の弁当の匂いにつられて追っかけて来てるんじゃねえのか!?」
「あっ」
「愚か者レーションならともかく弁当だと!?スライムはおろか他の生物も寄ってくるわ!!」
それなら、とマコは鞄からラップに包まれた2つの大きなおにぎりを取り出す。このアホどんだけ食うつもりだったんだ。マコは立ち上がると大きく振りかぶって船の向こう側におにぎりをぶん投げた。
「それっ、取ってこ〜〜い!!」
犬じゃあるまいしそんなんで釣れるのか、という思いに反して船のすぐ脇にぴったりくっついていた触腕がざあっと一直線におにぎりの着水点目がけて去っていった。おおっ、と2人で感嘆の声をあげる。
「すごいよ!ユウ!おにぎりすごい!」
「そ、そうだな、でも待てお前!進行方向に投げてんじゃねえか!!」
「えっ?あっうわー!!」
急に曲がりきれなかった船はおにぎりを貪っているスライムに勢いよく激突し、どぱん、と突っ切って胴体に風穴をあけた。全身ずぶ濡れになりながらマコと顔を見合わせてそろりと振り返ると、案の定触腕が猛威を奮って追いかけてきているのが見えた。
……相当怒っているようである。
「「うわーー!!」」
「愚鈍にも程があるぞ貴様ら!!怒らせてどうする!!」
「あちゃ〜」
「ハカセ、なんかあれの弱点とかねえのかよ!塩ふったら溶けるとか、」
「ナメクジじゃあるまいし…」
だいたい塩ならさっきのおにぎりにも使ってあっただのいや一部のスライムには酸性の薬品が効くだのスピーカーの向こうではやいのやいの議論が繰り広げられているらしいが、そうこう言っているうちに激怒したスライムは着実に船との距離を縮めている。
「いいからとにかく、秘密兵器とかないのか!?」
「あとはもう私丸腰だよ!」
「いやしかし待て、一部のスライムは熱に弱い、水中に住むものなら尚更だ。あの大きさでは焼け石に水だろうが、なにか熱源があれば動きを止められるかもそれん」
「ジッポなら工具箱に入ってるけど」
「そのサイズでは厳しいな、」
「この船になんかそういう道具積んでねえの!?」
「カイロでもあれば少しはマシなんだけど、あとは船そのものが多少は暖かいはずだよ、エンジンが載ってるんだから」
「エンジン…」
俺ははっとして荷台の扉に飛びついた。中にはやはりポリタンクが積んである。迷うことなく引きずり出し、キャップを開けた。透明な水からむっと鼻をつく匂いがする。船の燃料だ。
「ユウ、それ!」
「撒いて火を付けるつもりか!?やめろ、スライムどころか貴様らまで立ち往生することになるぞ」
俺は腰に巻いたツールバッグの中から、細いピストルの先端部のような形のものを取り出す。まだ試用段階だけど、うまくいくはずだ。持ち手の根元にポリタンクに突っ込んだホースの先端を突っ込むと、コックを締めて装着させた。
「ユウ、なにそれ!?」
「即席ハイドロポンプ!」
「ほんとになにそれ!?」
ポリタンクを片手にホースを構え、引き金を引いた。風船の空気が抜けるような音とともに燃料が一直線に噴出する。
「え!?もしかして消防車についてるやつ!?」
「違うけどだいたいそんな感じ!」
「なにその兵器、もしかしてスプレーガン!?威力強すぎるでしょ!」
「工作も行き過ぎるとただの違法改造だぞ」
たしかにちょっといじっただけで市販の塗料噴射用ノズルがここまで破壊的な威力を持ってしまうとは思っていなかったが、じゃなくて、今はそんな事を言ってる場合ではない。
独特の匂いと噴射の勢いに怯んだらしき触腕たちがぐねぐねと自制を失ったように蠢き始める。満遍なく燃料を塗りたくるようにぶちまけ、タンクがほとんど空になったところで、仕上げに着火したライターをスライム目掛けて投げつけた。ボンと音を立てて小規模な爆発が起こる。触腕の動きはかなり鈍くなったが、船を追ってくる動きが止まる気配は無い。
マコはハンドルを倒しきってまっすぐに突き進んでいるだけだが、襲ってくる触腕をどうにか避けられているようだ。こいつはなぜかいやに運がいいんだよな、と考えて振り向くと、こちらを向いていたマコの目の前に1本の腕が伸びてきていた。
「マコ!前!!」「えっ!うわぁ!!」
音もなくその先端を花弁のように開き、操縦席に襲いかかろうとした触手を咄嗟に空いたタンクで叩きつけた。抵抗された反動で俺はバランスを崩し、船から転がり落ちる。
体が重たく水中に引きずり込まれるような錯覚を覚えた。ごぼごぼと耳元で水泡が弾ける音がする。息ができない。鼻の奥が刺すように痛い。死ぬのか、俺は。
無様に手足をばたつかせながらどうにか目を開けると、深い水色に浸った視界の中、目の前を白いロケットが走り去って行くのが見えた。まだ死にたくないな、と思った次の瞬間、何か暖かいものに手を引かれて身体がゆっくりと上昇していった。
「ぶはっ、ユウ!だいじょうぶ!?」
「…だ、大丈夫じゃねえ…」
「ユウ〜〜!よかった〜〜」
「ってやばい、はやく逃げ、」
マコはエンジンをかけたまま湖に飛び込んだらしく、船は無人のままゆっくりと走り続けていた。しかし。
スライムが動きの鈍くなった船の周りを囲む。岸まではあと200mほど。この位置ではギリギリ捕獲器は起動できない。万事休すか、と思った次の瞬間、船の向こう側で白い水飛沫が跳ねた。
「ユウ、あれ!」「えっ?」
触腕がぞろりと後方を振り返ると、今度は船の右手で飛沫が上がる。スライムは水中に潜るとそちらへ向かって泳いで行った。俺たちは唖然としながらもどうにか船に乗り上げる。
「あれって、もしかしてヌマスナメリ?」
「その通りだ」「うわ!ハカセ、これは一体」
「命拾いしたようだな、あれはさっき釣り上げた個体の仲間らしい」
「仲間?」
跳ねているのは1匹だけではないようで、あちらこちらで飛沫が上がっている。こんなにたくさん、さっき潜った時には1匹もいなかったのに。
「当たり前だ、クリーチャーはそう簡単に姿を見せない。それに彼らは会話ができるからな」「喋れるんですか!?」「イルカなどは超音波を発して仲間と意思疎通ができると聞いたことはあるだろう」
そんな話も聞いたことはあるが、かと言ってこんなにタイミング良く群れで動き出すことがあるのだろうか?ハカセの話を聴きながらも、俺はついぼんやりと何頭もの白い生き物が湖上を飛び跳ねる姿を見つめていた。
「おおかた急に騒ぎ出したスライムに気づき、また仲間が襲われていると思っての行動だろう。船と貴様らにヌマスナメリの匂いが染み付いていたのかもしれん」
「ならはやくスライムを捕まえないと!また怪我しちゃう、」
「大丈夫!スライムはかなり浅瀬にまで追い詰められてるよ、もう捕獲器も起動してるからね」
俺はいよいよ力が抜けてしまって、操縦席にぐんにゃりともたれこんだ。マコはよかったあ、と大声を出して俺の背中にのしかかってくる。
「ほらね、大丈夫だったでしょ。ユウはさ、手先器用だから」
「うん、お前もな」「私も?」
「泳げるし、食い意地が張ってる」
「わはは!そうかも!」
本当に、なんとかなってしまった。船が座礁し、陸地に乗り上げたことがわかる。少し沖ではキリさんが操縦しているのであろうクレーンを積載した大型の船が動員していた。巨大な投網には二階建てバスほどはあろうかという大きなタコのような形の生き物が捕らえられていた。
2人で顔を見合わせ、気が抜けてへらりと笑った、瞬間、船尾がごん、と何かにぶつかり、心臓が縮み上がる。
「なっ何だ!?」「あ!見てユウ、これ」
マコは船から降りると、ぱしゃぱしゃ小走りで船にぶつかった何かに近寄った。危ねえって、と思わず手を伸ばしかけたが、マコは丸っこくて羽の生えたそれを持ち上げてくるりと振り返った。
「ほら!探査用カメラだよこれ!さっき持ってかれたやつ!」
「…ほんとだ…」「あ!私の水筒も漂着してる!それになんか、金気のものいっぱい」
溶けて大分変形したカメラやスチールの破片などは、どうやらスライムがこれまでに食べたものの残骸らしかった。今度こそ気が抜けて、俺は大きなため息をついて空を仰いだ。
「もう船にはしばらく乗りたくねえ」
「そう言わないで!また乗ろうね!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます