エピローグ:少女に抱かれて行く異世界の旅

 東京の郊外に位置する合歓ねむ市は、面倒な乗り換えを挟まずに首都圏まで電車一本で上れる利便の良さと、賃貸物件の相場が首都圏の半値に近いという理由から、庶民のベッドタウンとして親しまれてきた。


 都心部に比べればゆっくりではあるが、着実に成長を続けており、大手量販店の参入や大型のショッピングモールの建設などにより、駅周辺の様子もここ十年程で大きく様変わりしてしまった。東西に走る線路を境界線として、商業が盛んな北側を北区、まだ多くの自然が残されている南側を南区と呼ぶ。


 北口の階段を下りて駅前のロータリーを抜け、大通り沿いに進んで行くと商業ビル群が立ち並び、その先のスクランブル交差点を渡ると、商店街へと行き当たる。北区の中でも最大規模の商店街で、平日の昼間ともなれば主婦層を主軸として多くの買い物客で賑わうことになる。


 残暑の残る九月の休日。平日以上の人混みでごった返す商店街を、周囲の注目を集めながら歩く少女がいた。薄手のTシャツ一枚に、ハーフパンツというラフな格好。セミショートの黒髪の下に覗くのは、強い意志を感じさせるぎらりと黒光りする瞳。目鼻立ちの整った可愛らしい少女ではあるが、道行く男性の視線を釘付けにしているというわけではない。


 注目を浴びる理由は、彼女の抱いている大きなぬいぐるみにあった。中学生ぐらいの少女が大事に抱えているその姿が微笑ましいのか、道行く人々は皆、彼女とぬいぐるみを交互に見比べながら通り過ぎて行く。

 サッカーボールよりも大きく、バスケットボールよりも小さい。丸くて白いぬいぐるみは、少女の胸の中にぴったり収まっている。ポメラニアン犬に近い外見ではあるが、手足らしきものは見当たらない。代わりに、二本の触角らしきものがあるだけだ。その先端には、丸い綿毛が付いている。


 ぬいぐるみを抱きしめるその腕には、人気洋菓子店の紙袋も一緒に下げられていた。鼻歌交じりに雑踏を進みながら、少女はぶらぶらと袋を揺らす。

 ひげ面の店主が声を張り上げる八百屋、古風なカフェを再利用することで洒落た雰囲気を出すことに成功した古本屋、老夫婦が営む少し寂れた文房具屋、全国展開されている大手ハンバーガーチェーン店、と商店街のアーケードを進んで行く。


 と、通りかかったゲームセンターの自動ドアが開かれ、騒音と呼ぶに相応しい耳障りな音がアーケードにまで流れ込んできた。音の発生源は店内に流れるBGMと、店内奥にあるビデオゲームの発する音である。

 様々な音がミックスされた騒音が届くと、少女は不快そうに眉をひそめながら足を止めてゲームセンターを一瞥した。ガラス越しにはUFOキャッチャーがいくつか並んでいる。高校生ぐらいのカップルがプレイ中で、クレーンの移動に合わせて軽快な音楽が鳴り響く。自動ドアが閉まると、騒音と一緒にその音楽も止んだ。


 吐息して少女が再び歩き出そうとすると、


「むきゅう」


 へんてこな声が少女の胸元から発せられた。雑踏を行き交う通行人が、ぎょっとしてその歩みを止める。ピンッと背筋を伸ばす形で固まってしまった彼女は、怪訝そうに振り返る通行人に「あははは……」と愛想笑いを振りまいた。少女の悪戯とでも思ったのか通行人たちはすぐに興味を失い、雑踏の流れに戻っていく。が、


「むきゅう! むきゅう!」


 へんてこな声が連続で放たれ、少女の顔色が蒼白となる。

 そして、再び衆目を集めてしまう前に脱兎の如く駆け出した。


 商店街を抜けてからも疾走を続け、スピードを緩めないまま公園へと入る。北区に住む子供たちの間では『みどり公園』と呼ばれ親しまれている公園で、その名の通り園内は緑に溢れている。

 広大な敷地の中を少女は息を切らせながら走っていき、人気のない芝の上までくると肩で息を継ぎ、唇を尖らせて一人ごちた。


「もう、ムー太ったら! 大人しくしてる約束だったでしょ」


 どうやら、胸に抱いたぬいぐるみに向けて文句を言っているようだ。すると、胸に収まったモフモフの白毛がもぞもぞと動き、ハムスターのような口を開くと、へんてこな声を出した。


「むきゅう……」


 ボンボンをすりすりと擦り合わせて、ごめんなさいのポーズが取られる。ぬいぐるみのフリをしていた愛くるしい生物からの懇願を受けて、少女がふっと目を細めて微笑を浮かべる。


「もう、仕方のない子ね。ま、興味を示すなっていうほうが無理な話だよね。なんせ、ムー太にとってここは異世界で、見るものすべてが珍しいんだから」


「むきゅう!」


 よしよし、と白毛を撫でながら少女は芝の上に腰を下ろした。ムー太と呼ばれた謎の生物をポンッと地面の上へ置き、手近にあった猫じゃらしを手に取ると、ピコピコと揺らし始める。その動きに興味を引かれたのか、ムー太のボンボンも同じようにピコピコし始めた。


「ふふ、捕まえることができるかな?」


 手首のスナップを利かせて、猫じゃらしを波打たせる。ひらひらと動く猫じゃらしに触れようと、ムー太がボンボンを伸ばす。が、寸でのところで猫じゃらしは逃げるようにして空に舞い上がる。それを追って、白毛の球体がぴょんとジャンプ。けれど、ボンボンの間をすり抜けるようにして猫じゃらしが緊急回避。今度は地面を這うようにして逃げて行く。

 右へ左へ、指揮棒のように猫じゃらしが振られる。それを一生懸命に飛び跳ねながら白毛の生物が追いかける。時にはコロコロと転がりを挟んでスピードアップ。あの手この手で果敢に攻めるが、少女の操る猫じゃらしには追いつけない。


 その様子が可笑しかったのか、くすくすと少女が笑っている。


 逆さに転がった状態のムー太はちょっぴり不満そう。ころりんと体を起こし、動きを止めて仕切り直し。真剣な眼差しで猫じゃらしを凝視する。そして、閃いたという風にボンボンを叩き合わせた。


「むきゅう!」


「て、ちょ――」


 不意に、少女がバランスを崩して前のめりに体を倒した。右手に摘んだ猫じゃらしも一緒にガクンと高度を落とし、その隙を突いて綿毛のようにふわふわのボンボンが猫じゃらしを捉える。ピタリとくっ付いた猫じゃらしを掲げたその顔は、どこか誇らしげであるのと同時にすごく嬉しそう。

 反対に少女は口を尖らせて、


「もう、それは反則!」


「むきゅう?」


 どうして? と、言いたげに白いモコモコが傾く。


 つぶらな黒目に見つめられて、少女は苦笑。「でも、負けは負けだからね」と言いながら、手持ちの紙袋の中をガサガサと漁り、中から包装された箱を取り出す。可愛らしく設えられたリボンを解き、蓋を外しながら元気よく言った。


「じゃーん! ご褒美のバームクーヘンでーす!」


「むきゅう!」


 蓋が取り除かれ、年輪を刻むドーナツ状の洋菓子の封印が解かれると、甘い匂いが周囲に立ち込めた。付属のペーパーナイフで八等分に切り分けると、


「さ、おやつにしよう。こっちにおいで」


 少女が手招きすると、弾丸の如きスピードでムー太が跳ねた。その突進を難なく受け止めると、切り分けたバームクーヘンを手に取り「はい、あーん」と言いながら、小さな口へ持っていく。

 ほっぺをパンパンに膨らませ、もぐもぐと噛み砕く様はまるでリスのようである。三切れをぺろっと完食したところで、ぽふぽふと少女の頬が叩かれた。


「どうしたの、ムー太。おかわりが欲しいのかな?」


「むむきゅ、むきゅ」


 先程までとは異なる発音だった。一音一音をはっきりと区切るように発音し、最後に、にこりと満面の笑みを咲かせて締め括る。やっと伝えることができた――そんな声が聞こえてきそうな程に、その顔は満足げに輝いていた。

 ニコニコ笑顔を向けられた少女は、あごに手をやり首を傾げると少し冗談めかして言った。


「なあに? 私のこと、好き……って言ってくれたのなら嬉しいな」


「むきゅう!」


 即答らしきものが返ると、大きなショックを受けたのか少女の全身が硬直した。潤んだ目元を人差し指で拭い、白の球体を抱きしめて持ち上げる。鼻先にまで持ってくると、チュっとキスをしてそのまま顔を綿毛の中に埋めた。


「私も、大好きだよ。ずっと一緒に居ようね、ムー太」


「むきゅう!」


 愛情表現なのか、少女は埋めた鼻先から大きく息を吸って深呼吸を挟み、白毛をぐりぐりと撫で始める。その愛撫は次第に勢いを増していき、柔らかな体は潰れたり伸びたりと忙しそう。

 傍目から見れば堪らないと言った印象だが、当の本人は笑顔を崩さないまま熱烈な抱擁に身を任せているのだから、きっとその指摘は的外れなのだろう。


 テンションが上がったのか少女の頬が紅潮している。頬ずりしながら、


「うーん、この感触、この肌触り! ムー太の――」


「むきゅむきゅ」


「そう! ムー太のモフモフは世界一だね!」


 抱擁を終えると、残ったバームクーヘンの処理に戻る。四切れ食べ終えたところでお腹がいっぱいになったらしく、ムー太はそれ以上食べようとしなかった。

 風のよく通る芝の上でゴロゴロと一人遊びを始めたムー太を眺めながら、少女がバームクーヘンを頬張る。ゆっくりと時間は流れ、日が傾いていく。すべてを食べ終え、後片付けを終える頃には夕焼け空に変わっていた。


 ふと気が付けば、芝の上に転がったムー太が寝息を立てて眠っている。慈母の形に唇を緩め、目を細めた少女が白毛を優しく撫でた。起こさないようにそっと包み込むようにして抱き上げると、彼女は緩慢な動きで立ち上がる。


「さてさて、次は何をしようかな。ムー太が喜んでくれるなら何でも良いんだけど。うーん、やっぱり冒険とか? でも、日本だと冒険というよりは旅って感じだよね。観光地を案内するのもいいし、グルメツアーなんていうのも面白そう。ムー太は食いしん坊だからね、ふふふ」


 悪巧みをする悪代官のような笑みを浮かべ、薄暗くなった園内へと少女は消えて行った。その胸に抱かれているムー太は、幸せそうな表情でぐっすり眠っていた。まるで少女の胸の中に居れば何の心配もいらない、と言いたげに。

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