第2話:モフモフと少女と出会い

 おそるおそるという風に目を開ける。


 と、ボンボンで視界が塞がっている事に気がつき、少しだけ触角を動かして、その隙間から前方を盗み見る。


 木の葉が雨のように舞い落ちる先、魔眼狼は居た。それも目の前に。


 大きな口を開けて、獰猛で鋭利な牙を覗かせながら、そこに居た。今にも振り下ろされようとしている鉤爪が、空中で太陽光を反射している。


 強風が吹いたわけでもないのに、大量の葉が舞っている。それも不思議だったが、それ以上に不可解なのは、変わり果てた魔眼狼の姿だった。


 ――氷像。


 魔眼狼は透明な氷に包まれて、氷像へと成り果てていた。すでに絶命したのか全く微動だにしない。至近距離ということもあり、冷気が伝わってきて、魔物はぶるっと体を震わせた。


 なぜ、突然氷像になってしまったのか、魔物にはわからなかった。魔眼狼が自ら凍り付く理由はないし、高い魔法耐性を貫通した上で、氷像に変えるなんて真似が本当に可能だろうか。


「むきゅう?」


 疑問系で鳴いてから、触角を操りポンポンと氷像を叩いて見る。


 冷たい。


 と、ふいに体がふわっと浮いた。突然、宙に浮き上がるぞわっとした感覚が襲ってきて、魔物はパニック寸前である。


「大丈夫……みたいだね。良かった」


 頭上から聴こえた声。見上げると、人間の少女が目元を潤ませながら魔物を抱きしめていた。


 少しだけ大人びた雰囲気の女の子だった。


 臙脂えんじ色のシャツの上、引っ掛けるように着崩した上着には、無数のポケットが付属している。年頃の娘にしては、お洒落よりも実用性を重視しているようで、男の冒険者のような格好である。


 首に巻かれたマフラーの両裾が腰の辺りまで垂れていて、風に吹かれるたびに揺れていた。服の上からでもわかる引き締まった腰周りには、ポーチや布袋が括り付けられており、左側面には刀を帯びている。


 魔物にその全体像は見えなかったけれど、人間に捕まったということだけは理解できた。本能が瞬時に判断を下し、人間は危険だと告げてきた。

 混乱した魔物は体をよじりねじり、上下左右に振って逃れようとする。しかし、暴れることまで想定していたのか、少女は両腕でしっかりと掴み離さなかった。


「むきゅううううう」


「わわっ! タイムタイム、落ち着いてよ。何もしないってば」


「むきゅうううううううううううううううう」


「お願い、お願い! 暴れないでってば! 何もしないから、ね?」


 魔物の絶叫に合わせて、少女も声を張り上げ懇願する。


 魔物は逃れようと暴れる。少女は逃がすまいと両腕でがっちりと魔物を抱える。その死闘はしばらく続いた。そして、先に音を上げたのは魔物の方だった。


 くたくたになり、少女の腕の中でぐったりする。逃げることを諦めた魔物は、開き直った気分になり、頬ずりしてくる少女をぼんやりと見上げた。そこに敵意の欠片は微塵もなく、向けられた好意だけが伝わってくる。


 冷静になってみれば、少女からは良い匂いがするし、胸に抱かれるのは悪い気分ではない。自分と同じぐらい柔らかい感触を背中に受けて、親近感が湧いた。


 触角を操り、少女の頬をぽふぽふと触ってみると、くすぐったそうに目を細めて笑った。


「私の名前は七海ななみっていうの。よろしくね」


 魔物は身動ぎして体を後ろに倒すと、七海と名乗った少女を見上げた。そして、まるでその名前を確認するかのように彼女の発音を真似て鳴いた。


「むむきゅ?」


「私の名前……呼んでくれたんだね。嬉しい……ありがとう」


 感動からか七海の体が小刻みに震えている。その振動が伝わってきて魔物はちょっぴり楽しい。彼女は目元を拭うと、続けて言った。


「君には名前があるのかな?」


 七海という名が、少女を指し示す名称だということを魔物は理解していた。しかし、魔物に名前は無い。どう返したらいいのかわからずに、魔物は丸い体をこてっと傾けた。


「むきゅう?」


「そうだよね。野生の魔物に名前なんてないよね。ならさ、私が付けてあげるね」


 そう言うと七海は神妙な顔つきで悩み始めた。眉間にしわを寄せて何度も唸りをあげている。


 どう反応していいのかわからず、魔物は沈黙。


 しばらくすると七海がぽつりと何かを呟いた。そして、決意の眼差しをこちらへ向けると力強く頷いて言った。


「……ムー太。そう、君の名前はムー太。むきゅうって鳴くから、そこから取ってムー太だよ。わかりやすいでしょ?」


 真っ直ぐに魔物を見つめて、七海が微笑を浮かべる。


 魔物はパチパチと瞬きをして一声だけ鳴いた。


「むきゅう」


「……いや?」


 嫌――では無かった。ムー太という名前を頭の中で反芻してみると、何だか温かい気持ちに包まれる。一人ぼっちだった魔物は、その瞬間、一人ではなくなった気がしたのだ。だから、触角を左右に振って、否定するように強く鳴いた。


 そして、その微妙なニュアンスはしっかりと七海に伝わったようだ。不安に曇らせていた表情を一変させて、彼女の顔がほころんだのがその証拠である。


 笑顔を向けられて、ムー太もなんだか嬉しい。喜びの気持ちを伝えようと思ったけれど、その前にムー太の体が横にぐるぐると回された。

 視界がゆっくりとターンする。そのまま百八十度回転すれば、七海と向き合う形となる。目が合うと、彼女はにこりとして言った。


「ねえ、私たち……きっと仲良くなれると思うの。だから、友達になろうよ」


 肩まで伸ばした黒髪が風に揺られてサラサラと靡いている。髪の毛と同じ黒い瞳はムー太をじっと凝視していて、爛々と輝く光沢が、期待の色を滲ませていた。


 自分の返事を待っているのだと思った。けれど、ムー太には『友達』の意味がわからない。だから、首を傾げるように体を傾け、疑問系で鳴いた。


 七海は僅かに苦笑すると、モフモフの毛並みを撫でながら空を見つめる。


「友達っていうのはね、んー……一言でまとめるのは難しいんだけど、お互いが一緒に居たいって思えるような間柄かな」


「むきゅう?」


「私とムー太は人間と魔物だけど、敵対しないで仲良くするってことだよ。一緒に遊んで笑ったり、困ったことがあったら助け合ったり……上下関係のない対等な関係なんだ」


 七海はそう言ってから屈むと、ムー太を地面に降ろした。そして、右手を差し出して言った。


「本音を言えば、私はもっと君を抱いていたい。けど、無理矢理捕まえてペットにするつもりはないの。だから、友達になって欲しい。私はムー太と仲良くしたいから」


 依然として、七海の主張する『友達』について、ムー太はよくわからなかった。理解できたのは、自分と仲良くしたいという主張だけ。


 差し出された手は、すぐ目の前にある。ムー太が頭を捻り、考えている間も下ろされることなく、何かを期待するように置かれている。


 触角を操り、ぽふぽふと触れてみる。すると、七海は嬉しそうに微笑み、ボンボンを優しく握った。


 それが肯定の意を表す『握手』という儀式であることを、ムー太は知らない。けれど、繋がった七海の手は温かくて、向けられた好意が流れ込んでくる気がした。それが何だか心地良くて、ムー太は嬉しそうに鳴いた。


「ありがとう」


 七海はそう言うと、ムー太の両脇を掴んで抱き寄せた。ぎゅうぎゅうに抱きしめられ、少し息苦しい。


「むきゅううう」


 くぐもった声で悲鳴を上げると、力がすっと緩んだ。頭上から申し訳なさそうな声が降ってくる。


「ごめんごめん、嬉しくて、つい……痛かった?」


「むきゅう」


 ムー太は体を左右に振った。弾力のある柔らかい体は、この程度ではダメージを受けないのだ。


「そうだ、友達になった記念にいいものあげるね」


 七海はそう言うと腰につけた布袋へと手を伸ばした。ベルトに留めてあった布袋を外し、口の部分に指を入れて上下に広げると、結び目が綺麗に開く。


 左腕でムー太を抱えたまま、右手だけで器用に取り出した中身は、丸くて薄い物体だった。彼女は指先で摘み、ムー太の口元に持ってきてから言った。


「美味しいよ。びっくりして飛び上がるかもね、ふふふ」


 スンスンと鼻をひくつかせて匂いを嗅いでみる。ふんわりと甘い香りが広がり、口全体に唾液が分泌された。


 興味を引かれたムー太は、体を少しだけ伸ばし、丸い物体をばりっとかじる。ばりんぼりんと噛み砕いてみると、濃厚でまろやかな甘みが口の中に広がった。


 予想を上回る美味しさに、ムー太は感激して鳴いた。


「どう? 美味しい?」


「むきゅう!」


 何度も頷き、触角の先端が前後に揺れる。


「そう、良かった。これはクッキーっていうの、手作りなんだからね!」


 得意げに語る七海はそっちのけで、ムー太はクッキーを貪る。


 ガリガリガリガリガリ。


 ばりんぼりんばりんぼりん。


 幸せそうに頬張る姿が可愛らしかったのか、七海は上機嫌となり、追加のクッキーを取り出してはムー太に与えてくれる。ムー太はクッキーを堪能していたし、七海は左手で柔らかな毛を撫でながら、もふもふした感触を堪能していた。


「ムー太はどこへ行こうとしてたのかな?」


「むきゅう」


 魔眼狼が飛び出して来た方向を触角で指すと、七海は眉をひそめた。


「あっちは行かない方がいいよ。すごく危険だから」


「むきゅう」


 けれど、ムー太はいやいやと体を振った。七海の表情はますます曇る。


「本当に危ないんだよ。死んじゃうかもしれない……」


「むきゅう!」


 眉毛のような三本線を吊り上げ、ムー太は決意を込めて鳴く。その熱意が伝わったのかは不明だが、七海は頭を何度も撫でてくれた。


 凍り付いた魔眼狼を一瞥して、彼女は言う。


「こいつも結構危険なやつだけど、あっちにいるのはもっと危ない奴等なんだ。危険な目に会って震えていたのに、もっと恐ろしい場所へ行こうというの?」


「むきゅう!」


「……そう言うと思った。臆病でありながら前進する勇気だけはあるなんて本当に不思議。一体なにを探しているのか知らないけど、どうしても行くなら私も付き合うよ」


 危険な場所だと言いながら、付き合うとはどういうことだろうか。不思議そうにムー太は頭をひねる。


 愛くるしい疑問の視線を飛ばしていると、七海が得意げに鼻を鳴らした。


「友達が困っていたら助けるのは当然だよ。それに大丈夫、そこの狼をやったのも私なんだからね。ムー太より、ずっと強いんだから」


 彼女は余裕の表情で立ち上がり、ムー太を抱えたまま魔眼狼に歩み寄る。


 氷像をなぞるように指を滑らすと、軽い感じでトンと叩いた。その瞬間、魔眼狼を覆っていた氷は粉々に砕け、粉末となり飛び散った。


 太陽光を反射して、キラキラと輝く飛沫にムー太の目は釘付けとなった。生まれて初めて見る幻想的で美しい光景に、思わず息を呑んでしまう。


 ――と、氷が舞う中、動く影がある。呪縛から解放された影は後ろへ飛ぶと、前傾姿勢で威嚇を始めた。


「グルルルルルル……」


 夢の世界に浸かっていたムー太は、聞き覚えのある威嚇を聴いて我が耳を疑った。全身に寒気が走り、混乱しそうになった。


「大丈夫だから、落ち着いて」


 パニックになりかけたムー太を鎮めるように、七海は頭を撫でてくれる。抱かれることによって感じられる体温が、彼女の温もりが、寒気を和らげてくれた。


 いくらか落ち着きを取り戻し、魔眼狼の方を見ると、先程と様子が違うことに気がついた。それは、取って食おうという殺気立った威嚇ではなく、恐怖や怯えからくる威嚇であった。


 その証拠に、七海が一歩前へ出ると、魔眼狼は一歩後ろへ下がる。これ以上近づかないでくれという、悲痛な叫びのようだった。


「この子は大切な友達なの。次もまた襲うというのなら、二度目は決して許さない。私と敵対するか否か、今すぐに決めなさい」


 ムー太に対するものとは真逆の、感情の篭らない冷たい冷たい声だった。射抜くような鋭い眼光からは、無数の氷柱で全身を貫かれる――そんな錯覚を抱かせるほどの迫力を感じる。


 警告を受けて、魔眼狼の後退がピタリと止まる。


 ムー太には理解できた。極限まで高まった恐怖で動けなくなる、それは先程経験したことだから。


 灰銀の毛並みは小刻みに震え、鋭かった目尻は垂れ下がり、圧倒的だったプレッシャーは感じられない。しかし、魔眼狼は逃げ出さない――否、逃げ出せない。


「むきゅう」


 柔らかなボンボンの先端を使って、ぽふぽふと七海の頬を叩く。

 彼に戦う意志はないのだと伝えたかったから。


「わかってるよ。ムー太は優しいね」


 けれど、七海は歩みを止めなかった。ぐいぐいと進んで行って、魔眼狼の鼻先へと立つが、飛び掛ってくる気配は無い。物理的にではなく精神的に凍りついて動けない、それ程までに恐れを抱かせたということだ。


 自分を襲った相手だということも忘れて、ムー太は可哀想だと思った。再び、七海の頬を叩いてみる。


 ぽふぽふ。


 ムー太の顔をちらりと覗き、目元が少しだけ緩んだものの動こうとはしない。冷たい視線を眼下へ向けて、ただただ睨みを利かせる。


 変化が起きたのはその時であった。


「クォーン……」


 魔眼狼は地に寝そべるように平伏すと、許しを請うような鳴声を上げたのだ。


 七海は膝をつき腰を低くすると、灰銀の毛並みを撫でた。


「ムー太も同じぐらい怖かったんだ、少しは気持ちがわかったかな?」


「クォーン……」


 力なく頭を垂れる姿を見て、七海は満足したように頷く。


「獣系の魔物は一度痛い目を見れば、二度と同じ行動はしない。もうこいつは、ムー太に手を出さないから安心していいよ」


 尚も、ムー太は七海の頬をぽふぽふと叩き続ける。それが訝しかったのか、彼女は顔を曇らせて、もう一度辺りを見回した。


 顎に手をやり、考え込むこと数秒――


「怪我をしているから助けてやれって言いたいのかな、ムー太?」


「むきゅう!」


 意図を読み取ってもらえたことに喜び笑顔になると、ムー太はボンボンを揺らした。

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