第6話 夜空

あの一件から、1週間経った。

その間、俺は1度も外に出ていない。相変わらず外ではセミが鳴いていて、洗濯物を干すためにベランダに出ると、それだけでじんわりと汗をかくほどの暑さだった。

依頼されていた絵の締切が近く、自然と煙草を吸う回数が増えていた。今回の依頼者は何かとこだわりが強く、完成するまでに時間がかかる。亡くなったペットの絵を書いて欲しいという依頼内容で、キャンバスには中途半端に彩られた犬がこちらを向いてボールを咥えている。

1度筆を置き、煙草の入った箱を持って換気扇の方へ行く。昔、1度だけ煙草の火で絵を焦がしてしまったことがあり、それ以降は換気扇のところ以外では吸わないようにしていた。

換気扇をつけて箱の中を見ると、中には1本だけ煙草が入っている。ストックされていた煙草も無くなったのは昨日確認した為、これが最後だろう。

外に出たくはないが、煙草を吸えない状態で生きていけない。思ったよりも早く限界を迎えた煙草を、当てつけのように灰皿に強く押付けた。

時計の方を見ると、針は5時をさしている。カーテンは完全に閉めているため、外の様子を知らなかった。もう夕方なら、あと数時間待てば夜になり、今よりもう少し涼しくなるだろう。それまで少し休憩しようと、ソファーに置いてある色彩の本や空になった煙草の箱を退かして横になる。

スマホを開くと画面いっぱいに沢山の犬の写真が出てきて、必要無くなったものをまとめて消していく。依頼者から参考にと送られてきた犬の写真は、どれも同じように感じる。1枚1枚どういう状況で、こういった感情で、と説明されたが、人間が犬の気持ちなど分かるのだろうか。人間同士でさえ分からないというのに、まるでそうであってくれと願うように決めつけられた動物の感情を、どうやって絵に表わせというのか。

つくづく思う。人間は相手のことに対して過剰に自信を持ち過ぎだと。それは相手が動物でも関係ない。自分が思ったことが、絶対相手の気持ちだと信じて疑おうとしない。人間の仕草や癖、果ては犬の気持ちや猫の気持ちなど、まるでこれが正解とでも言いたげな本が多いが、よくも堂々と言えるなと思う。

俺のことを何一つ知らないのにくせに、決めつけて嘲笑っている奴らも同じだ。なぜその決めつけに自信をもてるのか。疑わずに影でコソコソと話す醜い姿を、なぜ客観視できないのか。

俺がひねくれているのではなく、他の奴が馬鹿すぎるだけだろう。

そんな事をぼんやりと考えていると、気付けば時計は8時過ぎをさしていた。過ぎる時間の速さを感じながらソファーから起き上がり、財布と鍵だけを持って外に出る。

夏の夜の闇は、重く蒸し暑い。それでも時折吹く風はどこか心地いい。

エレベーターで1階まで下がり、エントランスを出る。辺りは暗く、闇に包まれていた。浮かび上がる街頭は、まるで灯篭のように見える。

買いたいものが煙草だけな為、スーパーまで行く必要は無く、近くのコンビニで済む。家から1番近いコンビニはスーパーへの行き道にあるはずだ。

とっとと済ませようと歩いていると、いつからいたのか、足元に小さな犬がいた。首輪が着いていないため、野良犬だろう。人馴れしているのか、足に擦り寄ってくる犬が鬱陶しく、どっか行けと足を振る。それを遊んでもらっていると勘違いしたのか、犬は俺のズボンの袖を噛みだした。小さいと言っても噛む力は強く、なかなか離れようとしない犬に舌打ちをして、思い切り体ごと動かす。すると、ポケットに入っていた鍵が地面に落ちてしまった。

俺が鍵を拾うよりも先に、犬は俺のズボンの裾を噛むのをやめて、鍵を咥えてはしりだす。黙って見送る訳にもいかず、犬を追うために俺も走り出した。

久しぶりに走ったことにより、すぐに息切れしてしまうが、犬から視線は逸らさなかった。犬が角を曲がったのを見届け、絶対に逃がすかと足を速める。

犬が曲がった方へ体を向けると、想定していたよりも近くに犬がいた。何故か夢野と一緒に。

犬は先程まで俺にやっていたように夢野の足へ擦り寄っている。そんな犬を愛おしそうに撫でる夢野の手には、俺の家の鍵があった。

鍵が無事なのを確認し、息を整えてから夢野と犬へ近付く。近付く俺に気付いたのか、夢野が顔をあげた為、目が合った。


「あれ、渡海さん?久しぶりですね!どうしたんですか?・・・あ、もしかしてこの子、渡海さんのペットですか?」


「違うわ。その犬に俺の家の鍵取られたんだよ」


「鍵・・・?あ、これですね」


そう言って夢野は立ち上がり、持っていた鍵を俺に渡した。

その時気付いた。夢野の身体が微かに透けている。出された手は、ほんのりと地面が見えていた。

口に出すつもりはなかったが、気付いたら「透けてる」と、声に出していた。

その発言が聞こえたのか、夢野は俺に差し出していた手をすぐに引っ込める。その衝動に、また鍵が地面に落ちた。すぐさま犬が鍵を咥えたが、走り出す事はなく、まるで持ち主に返す様に夢野の足元に鍵をそっと置いた。

返す相手は俺だぞ。と心の中でツッコミ、置かれた鍵を取る。それに納得できなかったのか、犬が俺のズボンに噛み付いた。


「あ、の・・・」


「あ?なに?ちょっと待ってくんない。この犬全然離れないんだけど」


犬を追い払うように足を前後左右に振っていると、夢野はそっと犬を抱えるように少し持ち上げた。抱えられた犬は俺のズボンの袖から口を離し、まるで甘えるような声で鳴く。その声を無視するように、俺から少し離れた距離に犬を置くと、また噛みつきに来ることはなく、犬はこちらを見ずに何処かへ走っていった。


「怪我とかしてませんか?」


「あぁ。・・・で、なに?」


「あっ、えっと・・・」


「透けてること?それだったら別に何とも思わないから」


少し突き放しすぎかと思ったが、本心だ。わざわざ優しく言い換える必要もないだろう。

そんな俺を見て、夢野は驚いたような、それでもどこか重荷を下ろしたような清々しい顔をした。


「渡海さんらしいですね」


「どういう意味だよ。・・・じゃあ、俺忙しいから」


「忙しそうには見えませんけど・・・」


「殺すぞ。納期迫ってんだよ」


「絵ですか?見たいです!」


「見せねぇって言ってんだろ」


口をとがらす夢野は、「鍵拾ってあげたじゃないですかー」と言って拗ねた。あれは拾ったって言わないだろ。

ちょっとだけでいいんですよ?と俺の前に手を出す夢野の手は相変わらず透けている。

その透けた手にはもう絆創膏は貼っていなくて、切り傷は小さな痕になっていた。

無視するようにコンビニに向かって歩き出すと、当然のように夢野は隣を歩き出す。

このまま家までついてくる気だろうか。どうせ俺が何言っても聞かないであろ、隣で子供のようにニコニコした顔を睨みつけながらため息をつく。


「はぁぁ・・・絵を見たら、すぐ帰れよ」


「はい!もちろんです」


「チッ、めんどくせぇ・・・。煙草買ってからな」


ワクワクを隠す素振りもない夢野にイライラしたままコンビニへ向かう。

一方的に話す夢野に返事もしないまま右から左へ聞き流していると、いつの間にかコンビニに着く。煙草を買う時に、カートンで4つ買う俺に若干引いているのを目の端で捉えた。

持ちますよ!と言う夢野の言葉に甘え、1箱だけ取り出してそれ以外を持たせる。

煙草を吸いながら家に向い、エントランスで俺を見てぎょっとした顔の、遊び帰りであろう学生を無視してエレベーターに乗った。


「さっきの子、どうしたんですかね」


「俺の横にお前が居たからだろ」


「なんでそれで驚くんですか?」


「馬鹿なお前には言っても分からねぇーよ」


腑に落ちないといった表情で首を傾げる夢野を放って、自分の階に着いたエレベーターから出て鍵を取り出し、家の鍵を開けて扉を開いた。

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