8.エピローグ

8-1 その青に触れる

「――よし」


 自宅の玄関口、正午過ぎ。

 シャツの上からパーカーを羽織り、ポケットにキーホルダー付きの合鍵を突っ込むと、スニーカーを突っかける。


 鞄は肩掛けの小さなものを一つ。中身は端末と文庫本、由祈の一眼レフに入っていた記憶媒体が一枚。


 一つ、息を吸って、吐いて。

 最後に室内を振り返ってから、一度、頭を下げる。


「お世話になりました」


 答える声はない。姉さんは仕事に出ている。帰ってくるのは夕方だ。


 場合によってはもっと遅くなるかもしれない。料理下手の姉さんのことだ。一人で暮らしているなら、弁当を買うなり、外で食べてくるなりするだろう。自分のこととなると自堕落だから、友人と飲んで帰ってくる、食事は飲み屋のおつまみ、なんてことだってあり得る。

 ほどほどにしてほしいと思う。――幾らそう願ったとしても、ここを離れてしまう俺には、もう伝える手段はないのだけれど。


 扉を開けて、階下に降りる。

 外に出ると、黒衣を纏った悠乃が待っている。


 なんというか、変な組み合わせだ。平日の昼間に私服の俺と、年頃らしからぬ格好をした悠乃。あまり長く現実をうろついていると、職務質問に引っかかるだろう。


「……少ないのね」


 俺が身軽な格好なのを見て、悠乃が言う。


「ああ。色々考えたんだけど、結局これでいいことにした」


 識域では、必要なものは“願い”を通じて調達出来る。じゃあそれが難しいものは、と考えて、最終的に三つに絞った。


 端末は俺の日常を記録したものとして。文庫本は姉さんからの貰いもの。由祈の遺品は、クローゼット辺りを掘ればまあ幾らも出てくるだろうが、その辺りを数えるときりがないので、記録媒体だけを持っていくことに決めた。


「片付けもしなくていいなら、処分に困るものとかもそのままでいいしな」


 そうでなければ、少なくとも数日は動けなくなるところだ。荷物の山を前にして、ぺったりと座り込みべそべそ泣く姉さんの姿を想像する。片付けようとはするだろうが、事あるごとに感情が爆発して、きっと一向に進むまい。


 悠乃によれば、その辺りは現実が取る“整合性”の波に巻き込まれて消えるらしい。それなら心配は要らない。あまり広いスペースではないが、折角ローンを組んで確保した空間だ。空き部屋は有効活用してほしい。


「最後に確認するけれど。本当にいいの、佑」

「ん」


 頷く。


「ここに残っても、あれだけやり合った後だからな。今度は何が寄ってくるかわからないし、俺も姉さんを守り切れるかわからない。それなら無理して一緒にいるよりも、俺がいない生活に慣れてもらった方がいい」


 それは本心からの言葉だった。


 “現実を離れ、識域に行く”。

 ……それが、あの戦いを終えた後、自我を取り戻した俺が下した決断だった。


 由祈の残滓を“接ぎ火”したことで、俺は回復した。

 けれど、腹の底に巣くった虚無は依然として消えていない。


 一度それと向き合ってしまった以上、以前のように衝動を記憶の底に沈めて、それでよしとする訳にはいかない。せっかく由祈がくれた機会を捨てる道を、直衛佑は選びたくない。


 なら、どうするべきか?


 生き残った大切な人――姉さんを傷つけないで済む一番の方法を、と考えて思いついたのが、識域行きだった。


 識域には“願い”にまつわる多くの知識と実践の積み重ねが蓄積されている。俺の中にある“願い”――虚無の衝動を取り除く方法も、そこでなら見つかるかもしれない。


 悠乃の言葉では、俺は覚徒としては随分特殊な事例らしい。

 元々数が少ない存在の、更に希少事例となると、すぐには解決法は見つからないかもしれないが、それでも共に探すと、悠乃は約束してくれた。


 信頼出来る案内があるなら、旅立つのに不安もない。離れるなら“整合性”が取られる前がいいと勧められ、急ぎ荷造りをして、今に至る。


 マンションのエントランスを抜けて、燃えるような陽射しが差す外に出る。

 道路端に植えられた緑は光を反射し、強い風にあおられて木陰を揺らしている。


 この見慣れた風景も、当分は見納めだ。

 戻って来られる日はいつか――まだわからないけれど、きっと帰ってきたい。

 ここが俺の居場所だ。ここが、姉さんが、由祈が、そして悠乃たちが作ってくれた、直衛佑の日常の在処ありかだ。そう思うから。


 街を抜けて、駅に向かう。街灯の大型液晶には見知らぬ少女たちが映り、見る人をはげます笑顔で、精一杯の歌声で、舞台上でのパフォーマンスを披露している。

 今朝までは、由祈がその場所にいた。あいつが世界から消え去った今、その場所を占めるのは、別の誰か、現実に生きる、近しい位置を持つ誰かたちだ。


 俺の居た位置にも、きっと他の誰かが座るだろう。そうして、世界はこともなく回っていく。たくさんの人の日常を抱えた、現実は回っていく。


「……いや」


 違うか。俺はともかく、俺の幼馴染みはそんな風にはならない。


 端末に挿した記憶媒体の情報を読み出し、カメラロールを覗く。

 悠乃の応急処置で“整合性”の波及を免れたそれには、由祈がシャッターを切った全ての風景がそのまま保存されている。

 その内の一枚、見覚えのあるものを押下タップ。最大化して画面に表示する。


 俺と、由祈と、悠乃。学校の帰り、無理矢理に撮られた三人一緒の写真。

 迷惑そうな俺と、趣旨をよくわかっていない様子の悠乃と、笑顔の由祈。


 あいつのまぶしい精神こころの欠片、遺していった、星の銀色に輝く魂のの残滓は、俺の中にある。


 空を見上げる。からっぽだった俺のタマシイには、もう二度と忘れ得ない、きゅうと伸びる青がある。


「――綺麗だな、空」

「――そうね」


 虹の瞳が同じように彼方を見上げる。

 そこに、俺と同じように、あいつがのこしていった景色が映っていればいいと思った。


 次の瞬間、駅名の表示されていない電車が通り過ぎ、俺たちは消え去る。

 後ろに並んでいた人々が、やや怪訝けげんな顔をしながら空白を詰める。やがて自分がそうしたことすらも忘れていきながら。


 そんなふうにして少しの空隙が埋められていく様を、光の下、激しく鳴き続ける蝉たちだけが感覚していた。







 識域のホロウライト

「1.Hollow White, Starry Sky.」

 了

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