月の巫女と嵐の獣〜戦乙女の少女は悪鬼と呼ばれた少年に恋をする〜

朝倉

第一章

氷と雪と冬の国で

 この国はね、太陽に嫌われているんだよ。

 だって、そうだろう? みんなが大事にして崇めているのは、一ヶ月も姿を見せない太陽よりも、夜の闇でもあたたかく見守ってくれる月なのだから。



 

 太陽がわたしたちを嫌っているんじゃなくて、わたしたちが太陽を好きになれないだけだ。

 十三歳のアストリッドは言いつけを守らずに、家を飛び出して吹雪のなかを彷徨っている。こんな日に太陽なんて見えっこない。あともう数時間もすれば、かわりに姿を見せてくれるのはあたたかな光を放つ月だ。


 わたしたちがあいしているのは、月。

 罪悪を感じることもなければ太陽を敬う必要だってない。月の巫女シグ・ルーナはどんなときだってここに暮らす人たちを守り、そうして導いてくれるのだ。


 アストリッドはカンテラを持ってこなかったが、それもほとんど必要なかった。

 なにしろ、この吹雪だ。いまが昼なのかそれとも夜なのかわからない闇の世界。灰色の雪原をアストリッドはただひたすらに進んでいく。風が強くて前なんて見えず、それでも足を止めることなど叶わずに。


 たしかに、約束の時間に養父が帰って来なかったので、アストリッドは腹を立てていた。

 ライ麦やオーツ麦をたっぷり使った穀物のパンを朝からせっせとこしらえた。じゃがいもと人参がごろごろ入ったシチューは、昨日の晩から用意している。アストリッドの好物であるサーモンのムニエルは下ごしらえもばっちりだ。シナモンが香るキャロットケーキは、小一時間前に焼きあがった。


 十三歳のアストリッドは良い子にして待っていた。

 けれども鎧戸をたたきつける風は強くなるばかりだし、養父は昨晩から帰って来なかった。この吹雪である。月の巫女シグ・ルーナの傍を離れられないことなんて、わかりきっていた。


 聞き分けの良い子どもを演じる自分は嫌いではなかったのに、この日はどうしても我慢がならなかった。

 コートを羽織りブーツを履いて、耳までしっかり帽子を被る。手袋を嵌めて玄関のドアを押し開けたとき、吹き付ける風の強さにアストリッドは一瞬だけ後悔した。


 吹雪の日には、けっして外へと出てはいけない。

 この国の人々は長い長い冬をじっと耐えて忍ぶ強い人たちだ。月の巫女シグ・ルーナはみんなを守ってくれるけれど、万能ではないからこんな寒い日には魂を持って行かれる。

 

 ほら、そこにも見える。風の精と雪の精が仲良く舞っている。魅了されたら最後、魂は身体から引っ剥がされてしまう。黄泉の国ヘルヘイムへと連れて行かれることを、この国の人たちは何よりも恐れている。


 アストリッドも凍死はこわい。凍り付いた死体は雪や氷の下にそのまま埋められてしまう。そうすると間違いなく黄泉の国ヘルヘイム行きだ。


 足を止めさえしなければ、やがて輝ける月の宮殿グリトニルにたどり着けるとアストリッドは信じていた。月の巫女シグ・ルーナは宮殿の奥で祈りを捧げている。アストリッドの養父だってそこにいるはずだ。


 目印なんてあっても意味のない灰色の雪原だった。十三歳のアストリッドはまだまだ子どもで、後でたっぷり叱られてもそれでもいいと、そんなことしか考えていなかった。


 この日の話を養父たちはいまも笑い話として語るのは、十三歳のアストリッドが吹雪のなかでも生き延びたからだ。強い子だと、みんなはそう言った。でもそうじゃなかった。

 

 十三歳のアストリッドはこの日、この吹雪のなかで見つけたのだ。


 半分雪に埋まったその身体を、アストリッドはどうにかこうにか引っ張り出した。生きているのか死んでいるのかわからない少年をおぶさって、数歩も進まないうちにアストリッドも雪に埋まった。番人ヘーニルたちが見つけてくれなかったら、アストリッドはとっくに黄泉の国ヘルヘイムに行っていただろう。


 そうして、十三歳のアストリッドは彼を救ったのだ。

 偶然だとか運命だとか、そんな言葉は後付けに過ぎない。その一年後、十四歳のアストリッドは彼の手を取らなかった。だから、今度こそは。


 十七歳のアストリッドは、自分から手を差し伸べる。

 この日もあのときみたいな吹雪だった。いつだってこの国は夜と雪と寒さで震えている。それでもアストリッドはこの国が好きだ。変わる必要も壊す必要もないのに、どうして彼はそれを選んだのだろう。


 待ってて、もうすぐ行くから。

 十七歳のアストリッドの声はきっと彼には届かない。それでも、何度だってアストリッドは彼へと手を伸ばす。 

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