第37話 邂逅(前編)

 中野通りに停めたSUVの助手席から降りた真行寺鈴音は、携えていた朱鞘の日本刀を左の腰に差すと、スーツの内ポケットから数枚の白い紙片を取り出した。


「かの地に近寄ること能わず……散らせ、急急如律令!」


 デフォルトした人間の形に切り出され墨で紋様の描かれた紙片は、風に吹かれたようにヒラヒラと鈴音の手の平から舞い上がると、空気に溶けるように消えていった。

 人払いの術……鈴音は陰陽師の血を引く一族だ。


 鈴音の撒いた形代は、黒帽子のアジトと思われる家がある一角の四つ角に立ち、近付いて来る人を追い払う役目を果たす。

 壁にぶつかって進めなくなるような強力な拒絶ではなく、なんとなく普段とは違う道を選びたくなるような緩やかな拒否だ。


 殆どの者は形代に違う道を選ばされてしまうが、強く強く目的の地を目指す者には効き目が薄い。


「行くぞ……」


 鈴音の後を善杖、蘭虎、そして細長い包みを背負った松永の順でついていく。

 心なしか蘭虎は形代の影響を受けているようにも見えるが、エリアの中に入ってしまえば術の影響からは解放される。


「あー……ダルっ、遊んでないで、さっさと終わらせなさいよね」

「ん? 俺に言ってるのか?」

「あんた以外に誰が居るっつーの!」


 現場に踏み込む前に、蘭虎が善杖に噛み付くのは毎度のことだ。

 それが形代の影響によるものなのか、デフォルトなのかは術者の鈴音にも分かりかねるようだ。


 鈴音は浜村家へと続く路地の入口に立ち、松永からの連絡を待った。

 途中で鈴音たちと離れた松永は、東隣の家の庭から、浜村家の庭に侵入する予定だ。


「なんだか薄暗いな……」


 善杖が暗いと思うのも当然で、建売らしい二階建ての浜村家は、全ての窓の雨戸を閉め切っていた。

 カーテンならば内部の明かりが外にも漏れてくるが、雨戸では殆ど明かりは漏れない。


 それに、周囲を隣家に囲まれた旗竿地には、元々街灯の光が届きにくい。

 というよりも、そもそも浜村家の内部に明かりが灯っているかどうかも怪しい。

 少なくとも、玄関前の明かりは消えたままだ。


「行くぞ……」


 胸ポケットに仕舞ったスマートフォンが鳴動した瞬間、鈴音は表情を引き締めて歩み出しながら、内ポケットから今度は金の絵の具で文様が書かれた赤い紙片を取り出した。


「この地より出ること能わず……閉ざせ、急急如律令!」


 先程の白い形代は外への緩やかな拒絶であったが、今度の赤い形代は内への強力な拒絶だ。

 黒帽子が魔族であるかもしれず、転移魔法を使う可能性が高くとも、鈴音たちが落ち着いていた理由がこの結界術だ。


 この結界術で縛れないような化け物ならば逃げられても仕方なしだが、封じられる相手ならば捕らえる事も可能だろう。

 形代が配置について、地上から屋根の上までを封じる結界が出来あがる。


 実力ある者ならば、結界が完成する前に阻害しようとするか、完成直後に破壊を試みるだろう。

 だが、鈴音の結界が完成しても、浜村家は静まり返ったままだった。


「なんでぇ、魔族かもしれない……なんて言いやがるから期待してたのに、この分じゃまた雑魚……」


 善杖が不満を口にした直後、封印内部の空気が変わった。

 自分の体重が二倍になったかと思うほど、強烈なプレッシャーが降り注いで来たのだ。


 追い詰められた凶悪な魔物が肌に感じる程の殺意を向けてくる事はあるが、姿すら見せていない相手から、これほどの圧を感じさせられたのは特務課のメンバーにとっても初めての経験だ。


「上等だ……行くぜ!」

「待て、善杖!」


 歯を剥き出しにして肉食獣のごとき笑みを浮かべ、玄関に突進しようとする善杖を鋭い声で鈴音が引き止めた。


「んだよ? 逃げるとか抜かすなよ!」

「逃げる? これだけの歓迎を受けて黙っていられるか!」

「なら止めてんじゃねぇ!」

「逸るな善杖。歓迎してくれるというならば、堂々と我々のスタイルを貫けば良い」


 鈴音は形代を取り出したのとは反対の内ポケットから令状を取り出し、玄関チャイムのボタンを押した。

 時代を感じさせるビーっというブザーが鳴り、玄関ドアの向こうからパタパタと足音が聞こえてきた。


 玄関の上の蛍光灯が点灯し、そこだけ闇が取り払われて、やけに明るく感じられる。

 明かりが点いてから、一拍間があった後で、ドアが細く開かれて四十代ぐらいの女性が顔を覗かせた。


「どちら様でしょうか?」


 ドアの隙間から覗く女性の目はガラス玉のように感情が感じられず、話し声も合成音声のように、どことなく抑揚がおかしく感じられる。


「警視庁特務課の真行寺と申します。浜村雄造さんは御在宅でしょうか?」


 鈴音が令状と警察手帳を見せながら問い掛けても、ドアの隙間から見える女性の表情はピクリとも動かない。


「旦那様は外出中です」

「あなたは?」

「家政婦の島田です」

「島田さん、本当は貴女が浜村さん……いいや、黒帽子なんでしょう」


 鈴音の言葉を聞いた家政婦の島田は、ほんの僅かだが微笑んだようにみえた。


「言ってる意味が良く分かりませんが……」

「魔族にとっては姿形を変える程度は簡単なのでしょう?」


 魔族という単語を聞いた途端、島田の口許がニィっと三日月のような笑みへと変わった。


「くっくっくっ……七年八ヶ月と二十二日、チュートリアルを終わらせるのに随分とかかったものだ」


 貼り付けたような笑みを浮かべながら島田が紡ぐ言葉は、これまでの女性の声色から、皺枯れた男性のものへと変わっている。


「何の話だ!」

「決まっておろう、ワシがそなた達が魔薬と呼んでいる錠剤を撒き始めてからの年月じゃよ。まぁ、それまで遭遇したことの無い相手に辿り付くには、この程度の時間は必要なんじゃろうな」


 喋っている間に島田の姿は歪み、粘土細工を作り直すように地味なワンピースは時代遅れのダークスーツへと変わり、結い上げられた黒髪は古びた黒い中折れ帽へと変わった。


「黒帽子……署まで同行してもらうぞ」

「断る。捕らえられるものなら、捕らえてみよ」

「押し通る……絶ち斬れ、急急如律令!」


 鈴音の左腰の朱鞘から銀の光芒が放たれ、玄関ドアのチェーンを切り払った。

 すかさず善杖が、玄関のドアを引き千切るように開きながら鈴音の前に出る。


 黒帽子の姿は、いつの間にか薄暗い廊下の奥へと移動していた。


「大人しくしなくてもいいぜ、丁寧に叩きのめして運んでやるからよ」


 善杖が両手の拳同士を打ち付けると、全ての指に嵌められた太い金の指輪が火花を散らした。


「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ……勿論断る」


 黒帽子は後ろ手に引き戸を開くと、真っ暗な台所へと姿を溶け込ませた。

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