あの夏の日へ⑥

 わたし達は、健二と勝也を探すために、廊下に出た。

 階段から、ゆっくりと階段を上がってくる男の足音が、響いている。

 悠人が廊下で立哨して、その間にわたしが部屋に入り健二と勝也を探す。

「この部屋にはいないみたい」

「ありがとう。次の部屋を見に行こう」

 四階は、次の部屋で最後だ。

 廊下に出て耳を澄ます。微かだが、下の階から物音が聞こえてくる。男は三階にいるようだ。

「すぐこの階にも来る。悠香ちゃん急ごう」

「うん」

 四階の最後の部屋に入ると、煙草の匂いが染み付いていた。革が破れているボロボロの黒いソファーと倒れたロッカーが乱雑に置いてある。壁にはダーツ板が掛かっていて、床には煙草の吸い殻と漫画雑誌が、無数に落ちていた。

「ここには隠れられそうな場所はないみたい。次の部屋に急ごう」

 廊下に出て伝えると、悠人は懸念の表情を浮かべていた。

「どうかした……?」

 悠人は、階段の方を見ながら話始めた。

「急に物音が聞こえなくなったんだ。もしかしたら、すぐ側まで来ているかも知れない。健二君と勝也君が見つかった様子もないし、二人はこの階より上にいることは間違いなさそうだね。五階へ行こう」

 わたしは、黙って頷いた。

 いつもと違って、頼りがいのある悠人を見て、少し胸が締め付けられる。

「どっちの階段から上に行こう」と悠人は小さく呟いた。今、あの男がどこにいるかもわからない。いつこの階に来てもおかしくはない状態だった。現状、五階へ行く為の階段が一番危険だった。

「迷っても仕方がない。急いで上へ行こう」

 また悠人は、わたしの手を引いてくれた。

 二人で静かに階段を一段づつ上がり、上階へ向かった。

 五階に着くと悠人は、廊下の方を覗き、耳を澄ませ、感覚を研ぎ澄ませる。そんな悠人の背中に、わたしは必死にしがみついていることしか出来なかった。

 その時、わたし達が意識を向けていなかった六階から階段を下る足音が聞こえてくる。

「見つけた」

 男の声がした。

 時間が止まった様な感覚に陥る。

 足音は、ゆっくり近づいて来てわたし達の後ろで立ち止まった。

「逃げるよ!」

 急に手をグッと引っ張られ、止まっていた思考が再び動き出す。

 一心不乱に廊下を走り、逆側の階段へ向かうが、男は後を追って来なかった。その事に疑問を感じて、わたしは走りながら横目で後ろを確認する。

 男は何かを待っているかのように、真っ直ぐこちらを見ていた。

 今なら逃げられる。

 最悪な状況の小さな希望に、期待をして走った。

 だが、前を走る悠人が何かに躓き、わたし達は派手に転倒した。

 その光景を見ていた男は、狂ったように笑い出し、ゆっくりと近づいてくる。

「いやー引っ掛かってくれて嬉しいわ」

 足首の高さに麻紐が張られていた。

「悠香ちゃん大丈夫……?」

「うん。平気……」

 わたしの返答を聞いた悠人は、いつもの笑顔を作って言った。

「じゃあ、悠香ちゃんは逃げて」

「え……どうして……」

「このままだと二人とも捕まっちゃうから」

「嫌だよ……」

「大丈夫。もうすぐゆりがお父さんを連れてきてくれるから。それに、なんだかゆりが側にいるような感じがするんだ」

「でも……」と言いかけた時、近づいてきた男に腹部を強く蹴られ、吹っ飛ばされた。

「悠香ちゃん……!」

「うぜーな。さっさと逃げろよ」

 男は、悠人のことも蹴り倒し、恐ろしい顔付きで、こちらを睨み付けてきている。

 わたしは、腹部を押さえながら嘔吐した。

「おえ、汚な」

 腹部の痛みと吐き気で、立つことが出来ない。悠人も男の足元で蹲っている。

 男は、ポケットから取り出した煙草を、一本咥えながら呟いた。

「簡単に捕まったらつまらねえだろうが」

 その光景を見ていることしか出来ないわたしは、絶望に沈んでいくような感覚の中、押し寄せる後悔に、心が潰れかけていた。

 わたしが、健二と勝也を探そうなんて言ったから。

 わたしが、秘密基地に行こ 男は、ポケットから取り出した煙草を、一本咥えながら呟いた。うなんて言ったから。

 わたしが、こんな場所を見つけたから。

 思考が反芻し、抜け出せない地獄を受け入れようとした時、悠人と目が合った。

「悠香ちゃん! 今だ! 逃げて!」

 悠人は、煙草の火をつけるタイミングに合わせて、男の足にしがみつき叫んだ。

「かっこいい、かっこいい」

「早く! 悠香ちゃん!」

「ダルいわお前」

 男は、悠人の頭を掴んで床に強く押し付けた。

 全員無事に逃げられる訳がない。悠人が逃げろと言うのなら仕方がない。

 わたし一人でも逃げよう。

 悠人を置いて逃げよう。

 わたしは、腹部の痛みを堪え、立ち上がった。

「逃げるのか? 逃がさねえよ」

 男が来る。走って逃げたとしても直ぐに追い付かれてしまう。

 そう思った時、突然男は転倒した。

「お返しだよ」

 似合わないしたり顔を作った悠人が立ち上がり言う。

 男の足元に目を遣ると、履いているシューズの靴紐に、麻紐が結ばれていた。

「クソガキが」

 憎悪に満ちた顔で、静かに悠人を睨み付ける。

「行って! 悠香ちゃん!」

 わたしの体は、悠人の声に反応して駆け出した。

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