2008年7月くらいだったと思う。
三好ハルユキ
2008年7月くらいだったと思う。
人っ子ひとり居ない校舎を想像していたけれど、案外そこかしこから足音や話し声がするものだと思った。
考えてみれば僕以外のだいたいの生徒が部活に入っているのだから、そりゃあ下校時刻の一時間前になったって誰かしらは居るだろう。
向かいの棟の音楽室から聴こえてくる楽器の音は途切れてばかりで少し間が抜けている。音合わせとかそういうのなのかな。びっくりするくらい下手っていう線もあるけど。うちの吹奏楽部は地元では少し有名で、あちこちいろんなイベントに呼ばれている。らしい。そんな話を母から聞いた覚えがある。よう知らんけど。
なんにしても、ひとけのない校舎をおっかなびっくり歩き回るはめになるんじゃないかという僕の想像は全くの杞憂で、ホラー展開とは無縁のまま濁った緑色の床を進んで指定の教室に着いた。
自分のクラスじゃないとこに入るの、なんかちょっと、やだな。
緊張感というより、背徳行為からくる嫌悪感に近い。立ち入り禁止の看板が立てられているわけじゃなくても入っていいかどうかくらいは判断出来て当たり前で、それを分かっていて、勝手な事情のために破るのだ。
これでテンションを上げられる人間が心霊スポットに遊び半分で突撃するんだろうな、なんて思った。さっきから思考がそっち寄りなのは、夏だからかな。
それともここに呼ばれた用件を、僕が恐怖と認識しているからか。
教室後方の引き戸を開けると、カーテンが派手に揺れるのが見えた。一拍遅れて、ぬるい風が全身に襲い掛かってくる。半袖のシャツから露出した腕と首の周りに透明な膜が貼られたみたいな感触がして気持ち悪い。この学校、なんでエアコン無いんだ。同じ学区の小学校にはあったのに。さんざん空調に慣れさせておいて取り上げるなんて拷問のやり口じゃないか。
「いつまでそこでしかめっ面をしているの」
「いやぁ、かける言葉が見つからなくて」
窓際の席に座って待ち構えていたクラスメイトは僕がふざけていると判断したようで、目を細めて抗議の視線を投げかけてくる。されても困る、そんな顔。
半分は本心で、もう半分は虚勢だった。
「別に始末の極意とか期待して呼んだわけじゃないから」
「なんて?」
「……なんでもない」
ばつが悪そうな顔をそっと背けるクラスメイトの後ろの席に座る。
「じゅげむなら空で唱えられるんだけど」
「え、分かってて言っ、えっ、殴っていい?」
「お前の拳法では死なん」
「いや今からソレやるの私だから」
そういえばそうだった。
メールをもらったときは何をトチ狂ったんだろうと首を傾げたけれど、案外、冷静そうなのでとりあえず一安心だ。していいのか、安心。
「じゃあ、前から飛ぶの?」
「後ろ向きだと頭から落ちるのが難しいでしょ。背中から着地したら助かっちゃう可能性もあるし」
「そんなに心配ならもっと高い所からいけばいいのに」
「自分の教室から飛びたかったの」
「なんかのメッセージ的な?」
「通学路を歩いてるとき、急に曲がって知らない道に入っていきたいと思ったことってない? そういうのよ」
「……この辺りを歩き過ぎて知らない道が無い」
「地元民に聞いた私が馬鹿だったわ」
頭が良い奴は自殺なんかしないだろ。
そう言いかけて、飲み込んだ。どうあれ故人を冒涜するのはよくない。
「気分の問題よ。学校に行きたくないんじゃなくて、寄り道がしたいの」
「その寄り道もしかして一方通行だったりしない?」
「大丈夫、今日のは寄り道じゃなくて近道だから」
「ああ」
なるほどコイツは一本取られたぜ。
「メッセージと言えば、自殺者は必ず遺書を残すらしいわ」
「あー」
聞いたことある。刑事ドラマで。夕方に再放送してるやつで。
「私は遺書を用意してないから、これは他殺になるのかしら」
「どんな理論だよ」
「あぁでもあなたに出したメールがあったわね。あれって遺書?」
「あーれーは、どっちかっていうと犯行予告」
「それだわ」
「人を指差すな」
「え、人差し指なのに」
「蜻蛉切はトンボを切るためにあるわけじゃないだろ」
「そ、う……ね?」
「納得出来てないなら無理すんなって。ドンマイドンマイ」
「多分こっちのセリフなんだわ」
こいつ、なんで僕を呼び出したんだろう。
人生最後のやり取りがこんなんでいいのか。
良いと言われるのも嫌だと言われるのも嫌だから、訊かないけれど。
「じゃあそろそろ飛ぶから、廊下に出ててもらえるかしら」
「ここで見届けるんじゃないんだ」
「は? 嫌よ、あんまり近いとパンツ見えそうだし」
そら出てった出てった、と手のひらで退室を促される。
気にするところおかしくないか、と問おうとして、別におかしくはないな、と思い直す。僕だってただのクラスメイトに下着を見られるのは嫌だ。
「スカート気にして失敗しないようにな、背中丸めてたら助かる確率上がるぞ」
「お優しいこと。やっぱりあなたを呼んで正解だったわ」
「……もし見えちゃったら墓参りで報告した方がいい?」
「その前にお葬式があるでしょう」
「いやクラスのみんなの前ではちょっと」
「私より恥ずかしがんのやめろ」
だいぶ渋い顔をされた。
「じゃあ、またそのときにってことで」
「ええ」
優しい人間だったら。
他人の願いと意思を無視してでも、命の価値を説いて止めようとしただろうか。
正しい人間だったら。
そんなものは気の迷いだと否定すれば、僕を嫌う代わりに思い留まるだろうか。
考えている間にも足は止まらなくて。
僕にとっては足を止めるほどの考え事でもないのかな、と冷静と薄情を自覚した。
教室の扉を開けるとき、ふと、これが事件扱いになったらこの指紋で僕が容疑者に……とか一瞬だけ考えたけど、やめた。そもそもここまでコソコソなんてしてないし、ここに居た証拠なんて他にいくらでも残っている。
そしてどんな証拠を搔き集めたところで、何も変わらない。
どうしたって、僕が殺したことにはならない。
誰かが自分で死ぬことを選んだ事実も変わらない。
廊下の窓からは校門が見える。
廊下には、どこかの教室から漏れた話し声が響いている。
三つ隣の教室から生徒が数人出てきて、その中の一人がちらりと僕を見て、何も言わずに反対の方へと歩き出す。連れ立った他の何人かも、それについていった。廊下で男子がぽつんとたそがれてたら、そりゃあ避ける。僕だって避ける。
窓枠にもたれかかると、開けっ放しにした扉を境界線のように挟んだ向こう側の、ちょうど向かいになる教室の窓枠にクラスメイトが同じように寄りかかっていた。
開いた窓から吹き込む風がレモン色のカーテンと黒い髪の毛を揺らしている。
出入口を額縁に見立てれば、ひとつの絵画のようだ。
もちろん。
そのようであるだけで、絵のように止まったりはしないけれど。
小さく手を振ってきた。
軽く手を挙げて応える。
引いた椅子を踏み台にして窓枠に膝を乗せる。
大股でも乗り越えられそうだが。向かいの部室棟からのパンチラも気にしているのだとしたら徹底的だ。ならスカート穿かなきゃいいのにな。
髪の毛と裾を風に晒して。
そのまま一度も振り返らずに、クラスメイトの姿は窓枠の外へするりと消えた。
教室の扉をどうするかだけ少し悩んで、結局、そのままにして踵を返す。
三階分の階段を降りる途中に金属を切るような悲鳴がいくつか聞こえて、昇降口を出る頃には職員室に駆け込む生徒と飛び出す教師で一階がバタついていたけれど、野次馬に混じって中庭に行く気にはなれなかった。方向、校門と逆だし。
落ちた姿勢によっては見られたくないだろうからなぁ、僕に。パンツとか。
クラスメイトいわく、お優しいので。
最後までその意図に沿うべく、真っ直ぐ家に帰るのでした。
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