第11話⭐︎ 人でなしの独白(中)

 兄貴は青ざめた顔で家に帰って、そのまま部屋から出て来なくなった。すぐにでも処理しようと思っていたけれど、その時はそんな気分じゃなかったので何もしなかった。無駄に騒ぎ立てたりしない限りは、放置することにした。

 反対に俺はといえば、学校帰りの寄り道が増えた。人気がない廃墟で。人が周りにいると邪魔をされてしまうので、カブトムシの一件以来、俺はこの建物で趣味に耽っていた。今までは、立ち寄っても週に一回だとか、月に2回だとかだったのに。火事の日以来俺は、ほぼ毎日足を運んでは、ひたすらに虫を潰したり小動物を捻ったりしていた。

 何かに夢中になっていないと、あの日のことを思い出してしまうから。そしてその度に、胃がムカムカして、泥が食道を迫り上がってくるような感覚に苛まれる。

 何分あまり抱かない類の物であったので、その感覚を持て余していて。内側からやってくる慢性的な不快感に、俺は滅法耐性がなかったらしい。


「……………」


 8日目。

 薄暗い建物の中で、自分の瞳孔が広がるのが分かった。幾分か鮮烈になった視界に、頭から真っ二つになった蛇が映る。

……あ、家に帰ろう。

 視線をそれに釘付けにしながら、俺は脈絡もなくそんなことを考えていた。

 


「兄貴」

 気付けば俺は、バールを片手に兄の部屋の前に立っていた。

「ねえ、兄貴。起きてるんでしょ?」

 本当ならば、問答無用でこの扉をこじ開けたかった。呼びかけるだけ理性的だったのは、両親が夜勤に出かけたばかりだったからだ。時間はたっぷりある。

 少しだけ考えて、俺は目を細めた。

「───ごめん」

 目前の手間と、後になっての手間を天秤にかけ、前者を選んだ。こじ開けるよりも、勝手に開いてくれるに越したことはない。

 怯えたように息を呑んだ兄は、俺の心にもない謝罪に、素っ頓狂な声を上げる。

「俺があんな無茶したから、ショック受けちゃったんだよね?

 適当な言葉を並べながら、俺は脳内でカウントダウンを始めていた。5数えるうちに兄が出て来なかったら、やっぱり無理やり扉をこじ開けようと思った。

何故そんな気分になったのかは、自分でもよく分からない。時間はたっぷりあるのに。


「それ以前に、野次馬気分で火事なんか見に行くんじゃなかった」


3。

 兎にも角にも、兄はこの扉のすぐ近くにいる。こじ開けたらすぐに、頭に一発入れて、死なない程度に弱らせよう。

 

「本当、ごめん。取り返しつかない事した。俺の顔見るのも嫌かもしれないけどさ」


2。

 もしそれまでに距離を取られていたのなら、適当に警戒心を解いてから、死なない程度に無力化しよう。その時の口実は、『返事がなかったから、心配でこじ開けちゃった』と言う感じで良いだろう。それなら、道具を取りに戻るポーズくらいはするべきだったか。不自然だ。いやでも、その間に逃げられてしまっては元も子もないし。


「一回で良いから、直接謝らせて欲しいんだ」

 

1。

 まあ、良いか。今となっては。

 ドアフレームと扉の隙間に、バールの先端を滑り込ませて。

 

「……あっ、」

 

 力を入れる前に、扉は1人でに開いた。

 ドアの隙間から、覗いた、兄の双眸。縋るような光を湛えた青漆が、一瞬で絶望に翳っていく。

 扉を閉じようとする兄の顔面を掴み、そのまま床に押し倒す。


「……っ、な、にを────」

 悲鳴を上げかけた兄の口を、馬乗りになりながら右手で塞いだ。

 つい先刻まではバールで殴るつもりだったのに、なんでそうしなかったんだっけ。分からないことだらけだけど、ここから形勢が逆転することはないので不要な疑問だろう。

 相貌を近付けて、笑みの形に歪める。

「入れてくれてありがとう。扉がダメにならなくて良かった」

 取り敢えずで吐いた世辞に、兄の双眸に怯え以外の感情が宿るのが分かった。恐怖で碌に口も利けないんじゃないのか、だなんて思っていたけど、大丈夫そう。兄は案外元気だ。

「俺の質問に正直に答えてね」

 だから、単刀直入に行く。

「ひとつめ。兄貴は、俺を嘘吐きだと思ってる?……あ、ごめん。口塞いだままじゃ喋れないよね」

「……っ、まえ、なぁ!何のつもりだ」

 開口一番に叫んだ兄は、どう見ても冷静な様子ではなかった。

 丁度良いと思ったので、適当な言い訳を並べて兄を煽る。普段の兄貴なら、ちょっと引き攣った顔で、「そ、そうなの?ありがとう、心配してくれて?」と引き下がるような言葉だ。


「マジでお前、無理があるだろ!?そんなとぼ──、」


 案の定、食いついた兄に、自然に口角が釣り上がる。自分が軽んじられ、侮られるのに耐えられない。わかりにくくプライドが高い人間は、この精神状態なら必ずボロを出す。

「『とぼけたって無駄だ。適当な嘘吐くな』って?」

 言いたくて言いたくて、堪らない言葉だったんだろう。今も、火事の時も、ともすればそれ以前から。

「……俺がお前を嘘吐き呼ばわりするなんてあり得ないだろ?」

 目に見えて動揺する兄は、俺のダメ推しにとうとう口を噤んだ。

────やはり兄は、忘れてなんかいなかった。

 その確信に、妙な熱の伴った昂りが胸を焦がしていく。

……今更になって兄を訪ねたのは、確かめるためだった。

 誓って一度だって、他人に誠実に接したことなんてない。惰性とも呼べる無関心さで、時に間接的に、時に直接的にたくさんの人を傷つけた。ともすれば好奇心のまま、兄を殺そうとした。

 それに兄は気付いているのか、いないのか。

 気付いていないのなら、この場で兄を処理するつもりだった。この距離感で、この先もあんな妨害をされるのは耐え難い。無邪気に、無自覚に、能天気に。本当に、耐え難い。

 反対に、気付いていたのなら。

────気付いていたのなら?

 目を見開く。

 衝動を押し殺して、代わりに兄の小ぶりな相貌を包み込んで。


「何で俺の邪魔をしたの?」

 それは、俺の心からの疑問だった。実に八日間、俺の中に支え続けていた問題だ。

 俺は殆ど予行練習をするつもりで、兄の耳朶を擦った。蝶々の羽みたいに、簡単に毟れはしないか。

「ずっと怖かったんでしょう?嘘吐きで危ないヤツと、兄弟ってだけで一つ屋根の下で共同生活。ひたすら怯えながら顔色伺って?本当にカワイソウ」

 兄は全部知ったうえで、俺とこれまで生活をしてきたのだろうか。いつまた襲われるのかと怯えながら。なのに逃げずに、執拗に世話を焼いて、構ってきたのだろうか。

「何であの時、俺を見殺しにしなかったの?」

 あの時の見て見ぬふりをすれば、俺は物理的、若しくは社会的に死んでいた。兄は恐怖から解放される筈だった。なのに、そうしなかった。

 それってすごく異常なんじゃないか?

 やっぱり俺は予行練習のつもりで、無防備に仰け反った喉をなぞる。生白い喉仏が上下して、兄が唾を嚥下したのがわかった。


「………………お前が大切だったんだって」


 その言葉を聞くのは、初めてではない。


「二度も言わせんなよ」


 本当に。

 兄は心の底から、そう言っているのだと分かった。なんて愚かなんだろう。

 ほとんど初めて人間に抱く類の感情に、思わず乾いた笑みが込み上げる。

 自分でも今、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。

「そっかぁ、兄貴は俺が大事なんだ」

 口から転がり出てきた言葉は、奇妙に震えていた。

 実感が伴ってくる度に、胸が張り裂けそうなくらいに鼓動が速くなっていく。ドクドク、ドクドクと心臓の音が耳の奥に響いて、沸騰する血が、身体中を駆け巡って。

 何だかんだ俺は、この言葉が欲しくて兄を訪ねたのだと気付いた。

 顔を覆うその所作が気に障ったので、兄の相貌を無理やり上向かせる。

 涙目でこちらを見上げてくる兄に、バールを握る手に力が籠る。その柔らかそうな頭に、無性に振り下ろしてみたくなった。


「当たり前だよね、家族だもんね。死んだ方が良いようなクズって知ってても、弟を見殺しにするなんてできないよね」

 そんな衝動を、どうにか言葉で発散する。

 改めて口に出してみると、本当に愚かだ。


「兄貴は昔から優しかったもんね」


 昔から、底抜けに愚かなのだ。

 世間も俺も望まない、致命的な過ちを犯した。全てを理解していながら、自分の手で破滅を選んだ。

 そう、破滅だ。

 邪魔をした時点で、兄は俺に殺される以外の道を奪われた。あれはそう云う選択だ。

 ただ俺のことが、好きで好きで堪らないという一心で、そう云う選択をした。


「俺も大事にするからね、兄貴」


 それもまた、心の底からの言葉だった。

 その選択を、俺は大事にしたいと思ったのだ。俺に全てを委ねるなんて真似をした、兄の愚かしさを。

 震えながら差し出された首を、ただ抱き込むような。初めて何かを手に入れた充足感に、自然に顔が綻んだ。

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