02 七瀬
初めてやってきたショットバーのカウンター席で。僕は勇気を振り絞り、七瀬さんに話しかけてみた。
「お住まいはこの辺なんですか?」
「うん。歩いて帰れるよ」
「僕もです。一人暮らししてるんです」
「俺も一人暮らし。社会人になってからだから、十年は経ったかな」
こういう、お客さん同士での会話も、僕の憧れの一つだった。初対面の者同士が、同じ席に着き、酒を飲みながら言葉を交わす。その初めての相手に、七瀬さんのような男性と出会えて良かったと僕は思った。亜矢子さんが言った。
「七瀬さんが来られるようになったのは一年くらい前でしたかね。それから二週に一回くらいのペースで」
「そうだね。他のバーも色々行くけど、やっぱり亜矢子さんのところが一番だから」
亜矢子さんははにかむと、僕のグラスを見た。ビールはもうすぐ尽きようとしていた。
「何にいたしましょう?」
「亜矢子さんなら何でも作れるよ」
「え、えっと……」
僕はボトルを眺めた。なんとなくだが、ウイスキーが多いような気がした。ここは七瀬さんみたいに、ウイスキーをソーダ割で頼むか。それとも当初決めていたジントニックか。亜矢子さんにお願いして、カクテルをみつくろってもらうのもいいかもしれない。僕は相当難しい顔をしていたのか、七瀬さんが笑った。
「お困りみたいだね。俺が決めてもいい?」
「七瀬さんが? いいですよ」
「亜矢子さん、ドライ・マティーニ」
すると、亜矢子さんは顔をしかめて言った。
「度数、高いですよ? まだ二十歳になった方にすすめるものではありませんね」
「チェイサーあったら大丈夫でしょ。俺も頼むよ。それ二つで」
「葵さん、いいですか?」
「あっ、はい……」
承諾してしまった。マティーニなら名前だけは知っていた。どんなカクテルだろう。亜矢子さんは、小瓶から丸いものを取り出してピックに刺した。それから、カクテルグラスを二つ出して、細かい氷を入れた。これは飲むためではなく、グラスを冷やすためなのだろう。七瀬さんが言った。
「俺、ここでカクテル飲むの久しぶりかも。いつもウイスキーだからね」
「そうですか。僕は正直、ウイスキーってよくわからないんですよね」
「この店は他では置いていない色んなウイスキーがあるんだ。俺もまだ全部は飲んじゃいない。高いのもあるしね」
亜矢子さんは少し大きなグラスにも氷を入れた。あれは確か、ミキシンググラスというやつだ。ここでステア……混ぜてから、カクテルグラスに注ぐはず。見ていると、彼女は僕の思っていた通りの動きをした。そして、丸いものが刺さったピックをカクテルグラスに入れた。
「ドライ・マティーニです。冷たい内に飲んで頂くカクテルなのですが、ご無理なさらず、ゆっくりとお召し上がり下さい」
僕はドライ・マティーニを一口含んだ。辛い。確かにけっこうな度数がありそうだ。近くで見ると、丸いものがオリーブだとわかった。これはどうすればいいんだろう。亜矢子さんは小さいお皿も僕と七瀬さんの前に出して言った。
「オリーブの種用のお皿です。少しかじってから、お酒にひたすと、それもまたいいですよ」
亜矢子さんの言う通りにしてみた。オリーブは正直得意では無かったのだが、不思議と美味しく感じられた。噛んだところからお酒が染み込み、また、オリーブがお酒に染み出し、味わい深くなるのだろう。二杯目でこんな経験ができるなんて思ってもみなかった。
「どう? 葵くん、美味しい?」
七瀬さんが聞いてきた。僕はゆっくりと頷いた。それから、チェイサーと呼ばれるぬるめの水をきちんと飲んでおいた。これは少量でも回るやつだ。僕は自分のお酒の強さをわかっていない。ここで潰れてしまっては恰好がつかない。僕は七瀬さんに聞いた。
「お酒、強いんですか?」
「それなりにはね。大学生の頃は、やりすぎて吐きまくってたけど。もう、そんな無理な飲み方はしないようになったよ」
「お仕事は何をされているんですか?」
「普通の会社員」
何か含みのようなものがあると僕は感じた。けれど、その違和感を口にできないまま、七瀬さんが亜矢子さんに言った。
「俺、これ飲んだらもう出るわ。二杯目、って言ったけど、一杯目も俺につけといて」
「かしこまりました」
「えっ、いいんですか?」
まさか、人生初めてのショットバーで財布を出さなくても良くなるとは。チェック、って言ってみたかったんだけどな。でも、三杯目を飲んでしまえばどうなるかわからないし、僕は七瀬さんと一緒に店を出ることにした。並んでみると、七瀬さんは僕より背が低かった。
「七瀬さん。ごちそうさまでした」
「いいって。家、どっちの方向?」
「西側です」
「あ、俺もそっち」
分かれ道まで、七瀬さんと一緒に歩くことにした。しかし、行けども行けども、帰る方向は一緒だった。
「えっと……俺、そこのマンションなんだけど」
「あの、僕もです」
僕と七瀬さんは顔を見合わせた。
「マジで? 俺、六〇三号室」
「僕は六〇二号室です……」
「隣!?」
こんな偶然があるなんて。僕たちは、ちょっぴり気まずい雰囲気のまま、エレベーターに乗った。
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