三章 極彩色ハイファイゴースト

三章一話 スカルプチュアみたいに


 雨がひどく降りしきる中、彼方おちかた閑流しずるは灰色の空を仰ぐ。

 大海を落とし込んだ青い瞳に天の雫が落ちてきて、瞼が反射的にぴくりと跳ねた。

 コンクリートに囲まれた空間は狭くじめじめしている。水気を吸った服が重くなるのを感じながら、閑流は視線を上から前に戻した。


「……なんだよ」


 鬼気迫る表情で、クラスメイトの白藤しらふじ太輝たいきが睨んでいる。眼光には怒りと憂いと、制御の効かなくなった怨嗟が秘められている。

 肩をつかんでくる彼の手には、それらを隠し切れないほどの力が込められていた。背中には冷たい壁の感触。逃げ道はない。


「ひどいね、雨」


 求められている言葉とは絶対に違うとわかっていながらも、そうとしか答えられない。感情は頭にも心にもなくて、太陽を隠した空模様みたいに胸の内が鬱々と曇っていた。

 脳裏に浮かぶのはかつて追いかけようとして、追いかけられなかった背中。あの時の後悔があったから、彼方閑流の時間は止まったままなのだ。


「……話、逸らすなよ。どうするかって聞いてんだろ」

「そーだね、どうしよっか……本当に」


 クラスメイトとはいえ、異性に迫られて逃げられない状況。逃げる力も意思もなく、余裕綽々の返答をするにはあまりにも窮地に陥りすぎている。

 それでも閑流は、天をもう一度仰ぐ。尊ぶべき時間に思いを馳せて、音もなく溜め息を吐いた。


「――うん」


 自分に言い聞かせるようにゆっくりと頷く。ここから先の選択は大きな分かれ道だ。何かを失うことになる、それだけは直感が教えてくれている。

 誘惑と憔悴、孤独と欲望。それらにもまれて閑流は思考を放棄した。過去の栄光に縋るその瞳には、光はどこにも灯っていない。


 彼方閑流は、静かに、言葉を吐き出した。




 ◇◇◇




 アスファルトが湿っている。いつもより深い色をした通学路、負けじと黒く染まる空。太陽はどこにいってしまったのかなと雲の隙間を探してみるけれど、そんなものはどこにもなかった。


「なんか飛んでる?」


 上を向いていたことが気になったのか、隣から可愛らしい声で問われる。閑流は息を小さく吐いて、ゆっくりと首を横に振った。


「なんにも。なかったよ」

「なかったってどーいうこと?」

「んー……どういうことだろ。分かんない」


 眠たげな半眼で傍らを歩く少女を捉え、ゆらゆらと倦怠感を撒き散らして通学路を歩む。覇気の欠片もない挙動に、友人である琳愛乃りあのがくすくすと笑った。紅色のメッシュが施されたツインシニヨンの黒髪に、まん丸のぱっちりと開かれた紅い瞳が彼女のチャームポイントだ。


「やる気なさすぎっしょ、おシズ」

「ねむ〜くて。ユーウツだよね、朝って」

「分かり〜天気悪いと余計にダルいよな」


 6月に入ってから気が落ちるほど天気の悪い日が続くようになった。まとわりついた雨の匂いと湿度に狂わされた空気が日々の感覚に寄り添ってくる、そんな毎日が続いている。

 数日に渡って、空には青が無い。このまま世界が終わってしまいそうな曇天が蓋をして、朝も夜も分からないくらい淀んだ景色が続いている。


「雨、嫌いじゃなけどさー……たまには晴れてほしーよねー」

「あと二週間は雨か曇りらしーよ。りあの、湿度高いの嫌すぎて吐きそうなんだけど」

「レジ袋どうなさいますか?」

「ぁは、流石に耐えるっての。コンビニ店員かよ」


 何にもならないやり取りを交わしながら歩く通学路には人がほとんどいない。それもそのはず、閑流と琳愛乃が二人で登校するのは基本的に、全校生徒の中で最も遅いギリギリの時間だからだ。提出物やイベントなどよほどのことがない限り、朝にありえないほど弱い彼方閑流が早起きすることは無い。

 琳愛乃も「遅刻しないんならおシズに合わせる〜」と待ち合わせしてくれる。学校では女子複数人のグループで行動しているが、朝の時間だけは二人きりだ。


「なんかコンビニって言ったら寄りたくなってきちゃったぁ〜、行かない?」


 琳愛乃が自前のキラキラしたネイルを見つめながら言う。

 モデル顔負けレベルですらりと伸びた肢体に、曇天の中に煌めくピアス、ゆるく着こなした制服のカーディガン。身長が平均より高いのも相まって、彼女は外見のインパクトがあまりにも大きい。


「……行くか。コンビニでおやつ買って、ダッシュだ」


 しかしその隣に立つ閑流もまた、人目を引き付ける美貌の持ち主であった。透き通るような白い髪に海を落とし込んだ青の瞳と、病的なまでに白い処女雪のような肌。ほとんど変化しない薄い表情が、それら全てを優美なものとしてまとめあげている。

 明るく溌剌とした黒と、和やかでミステリアスな白。二人は学校内でもかなり注目を集めている存在だった。


「お昼のおやつ、何買っちゃおっかな〜。バースの新作おいしーらしーから気になってんだよな」

「チョコか、いいね。彼方は肉まんにするぜ」

「ぁはっ、肉まんしか食べねーじゃん。そば清みたいになっちゃうぞ〜」


 通学路をやや外れてコンビニに向かう道中、水溜まりを避けながら閑流が首を傾げた。


「りあのちゃん。何、そば清って」

「そば食べすぎて全身そばになる落語のやーつ」

「おー。なるぎんまる」


 寄り道込みでかなりギリギリを攻める通学時間、二人以外に生徒の姿は見当たらない。されど遅刻や買い食いの悪さとか、そんなことは些細な問題であった。

 なぜなら二人は今を生きる華の女子高生で、我が世の春を謳歌する人生最高潮の真っ只中。艱難辛苦なんのその、全て若さと元気で打ち消せる。


「行こっ、おシズ」


 琳愛乃に手を引かれて小さく頷き、閑流はぱたぱたと小走りしてコンビニの入り口に向かった。朝露が滴る外装が、雨雲に覆われた景色に佇んでいる。


 曇りで青くは無いけれど、今日も青い。灰色の空から降り始めた雫に気付かず、閑流は雨の届かないところへ足を踏み入れた。

 今日も楽しい一日が始まる。際限なく溢れ出す、無意味で有意義な時間が始まる。閑流は静かに微笑んで、それをただ受け入れるのだった。




 ◇◇◇




「閑流せんぱーいっ! いますかーっ!?」

「──お」


 少しざわついた2年4組の教室を、その場のどんな音よりも大きな声が打ち消した。一瞬だけ静まり返って声がした方を皆が見るが、「ああ」と納得して各々の会話を再開する。

 下級生である朱島伊吹は、いつもこうして二年の教室に入ってくるのだ。何度目かも分からない登場に、クラス全体もさすがに慣れたといった様子だった。


「おっはー……じゃないか。こんにちは、だね」

「最初の挨拶はおはようでいいんじゃないですか?」

「そっか。じゃ、おはようだ」


 眠たげな半眼を持ち上げ、自分の席に座ったまま閑流は伊吹を迎える。

 昼休みや放課後など、伊吹はよく一人で閑流のところへやってきていた。当たり前のように閑流たちのグループに混ざって雑談したり、可愛がられてお菓子をもらったりと、もはや後輩であることを皆が忘れそうなくらい馴染んでいる。

 閑流はゆったりと微笑んで脚を組み、頬杖をついて余裕に溢れるポージングをとった。


「いつものでいいかい」

「バーのお姉さんみたい……! お願いします!」

「いつものって何だよ」

「どっちかっていうとオッチーも貰う側じゃん」


 二人の会話に、周囲にいた女子生徒たちが茶々を入れてくる。閑流は自身を含めた四人グループで過ごすことが多く、他の二人も伊吹とはよく話す仲になっていた。

 当然、隣の席でチョコを頬張る琳愛乃も同じだ。


「よ、イブちゃん。一個わけたげる」

「え、いいんですか? ありがとうございます。また今度お菓子作ってきますね」

「はいきた言質、りあの次はホールケーキがいい!」


 馴染みすぎて少し怖いくらいだ。もうほとんど同学年の友達感覚である。

 いつもならそのまま伊吹も席についてお菓子パーティが始まるのだが、今日はどうやら違うらしい。伊吹は閑流に向き直って咳払いを一つしてから、姿勢を正した。大きな赤い瞳か煌めいている。


「えっと、閑流先輩。今度のお休みって空いてますか?」

「土日か。空いてるとも、帰宅部を舐めるなよ」


 ふんぞり返ってみせると「お前なんでちょっと突っかかり気味なん?」と突っ込みを受けた。「ちょっと大事な話してるから」と手を払うと、友人たちはやれやれといった様子で別の会話を始めた。

 閑流の返答に、伊吹はぱあっと顔を明るくして両手を合わせる。


「よかったぁ……! じゃあ土曜日なんですけど、みんなで集まりたいなと思って! ごはん行きませんか?」

「ふむ、いいよ。みんなっていうのは……」


 聞き返しながら、「みんな」に該当するメンバーをぼんやりとイメージする。以前遊びに行った際は閑流と伊吹、彼女のクラスメイトである乾茉莉花と御手洗慎之介だった。おそらくそのことだろう。


「はい、茉莉花ちゃんと御手洗くんと……あと、沙凪ちゃんです!」

「…………、…………。……さな……誰?」


 名前を覚えるのが苦手な閑流だが、その上で聞き覚えのない名前が出てきた。伊吹は目を丸くした後、「あ、そっか」と手を叩く。


「えーっと……みんなで初めて会った時にいた子なんですけど……覚えてますか? ほら、緑色の髪の……」

「…………」


 あの時の出会いは閑流の中でもかなり印象深い出来事として記憶されている。


“その出会いを無碍にせず、縁を生涯大切にしなさい。そうすればあなたの願いが、夢が叶う”


 あのとき全員に届いた謎の文面。当然閑流にも同じものが届いており、各自の持つ「願い」を叶えるために何をすべきなのかも分かっている。

 伊吹がこうして2年の教室に入ってくるのもそれが理由だ。


 簡単に噛み砕くなら、出会った全員と仲良くしろという話。協調性のなさは出会った時点で皆分かっているが、伊吹はそれを纏めようと東奔西走していたらしい。


「……さなぎちゃんっていうんだ、名前」


 中でも最初に帰った緑髪の少女──沙凪は、唯一他校の生徒である上にまともに相手にして貰えない、と伊吹が言っていた。まだ時間は掛かるだろうと思っていたのだ。

 あの出会いから、4月21日から一ヶ月半と少し。

 沙凪が来るということは、つまりその期間で、伊吹は。


「閑流先輩?」

「あー、あー……おなかいたくなってきちゃったかも」

「えっ?」


 あまりにもわざとらしすぎる棒読みに伊吹が素っ頓狂な声を上げた。閑流は目を逸らしつつ、席から立ち上がってふらりと教室の外へ向かい始める。


「ど、どうしたんですか? 大丈夫……ですか?」

「うん、全然よゆー。気にしないで。……あー、ただ……さ」


 入り口の扉に手を掛け、心配そうに見つめてくる伊吹を横目で見返す。赤く真っ直ぐな瞳が純粋に揺らいでいて、少しばかり罪悪感に心が痛んだ。

 けれどこうする他ないと、感情を押し潰してひらひらと手を振った。


「わたしのこと、ちょっとほっといてほしーんだ。まだ……心の準備ができてなくて」

「心の準備って……でも、閑流先輩──」

「ちゃんと考えて、結論出したら言いに行くよ。だからそれまではごめん」


“わたしにも、願いがある。イブちゃんたちにも叶えたい願いがある。合ってるよね”


“叶えるためには、仲良くすればいい。多分。だけど焦らなくてもいい……と思う”


“一気に皆集める必要、ないよ。ゆっくりやってこーぜ”


 いつか伊吹に投げ掛けた言葉が記憶の淵から呼び起こされる。目的のために宥める優しさの塊のような言葉だが、あれは決して──断じて、伊吹に向けた優しさなどではない。


「それまでは、わたしに関わらないでね」


 あれは、言い訳で、釘を刺しただけで、自分の心に余裕を与えただけ。

 願いなんて叶えたくない、臆病な自分を赦すための執行猶予。そんなつもりでしかなかったのだ。


 現実から目を背けるように教室をあとにする。取り残された少女の顔を見る勇気は無い。彼方閑流は、一ヶ月以上経った今も臆病なままだった。




―――――――――――――――――――――――――――


前章の最終話から一か月空きましたが更新再開します。

三章は彼方先輩のお話です。これまでと少し毛色の異なる青春ストーリーになりますが、お付き合いいただけますと幸いです。


一日一話、21時更新で三章のラストまでいきます。

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