斜陽国の奇皇后~愛は国に、恋は皇太后様に、陛下は……まぁその次で~
かびなん
序章:奇なる皇后の誕生
1話:婚儀で初恋
その日、皇后としての第一歩を踏み出した
心地好い高揚感とともに頬に熱が集まる。
これは────間違いなく恋だ。
生まれて十九年。一度も体感したことはなかったが、なぜかそれだけは分かった。
大きな感動に打ち震えながら夢珠は玉座が置かれた壇上を一心に見つめる。
が、その瞳に映っていたのは夫となる男の姿ではなかった。
・・・・
「徐夢珠! 朕はそなたを皇后とは認めない!」
みとめなーい、みとめなーい、みとめなーい。
おそらく腹の底から思いきり吐き出されたであろうその声は、
だが婚儀という厳粛極まりないこの場所で、そのような音響効果が微塵も必要ないことは言うまでもない。というか、ここに居る全員が知ってる。
だというのに、朝廷の中枢で高らかに場違いな宣言をした大誉国皇帝・
はて、彼には見えていないのだろうか。
花嫁のための花道を囲む文武百官が、言葉を失い呆然と立ち尽くしていることに。
女官たちが中腰姿勢のまま彫刻のように固まっていることに。
いや、多分気づいていないだろう。
「陛下、僭越ながらどうかこの場での発言をお許しください」
「ん? うむ、特別に許そう」
平常を通りこして脳天気な雲寧が許可を出す。
「おそれながら、わたくしのどういった点が陛下のお怒りに触れたのでしょう」
「理由が知りたいのか? であれば教えてやろう。そなたは年増で美しくないし、朕の好みではない。ゆえに皇后として相応しくない。それだけだ」
答えが返された途端に呆然としていた百官たちが、今度は絶望の二文字を顔に貼りつけて天を仰いだ。
雲寧の隣に控える太監も、とうとう立ったまま気絶した。実に器用な現実逃避である。
その中、夢珠は表情を変えないまま考え込む。
──まぁ、陛下の言うことも、強ち間違ってないけどね。
確かに自分は彼より二つも年上で、深窓のお嬢様のような愛らしさもなければ、魅惑的な身体つきでもない。父は親の欲目から可愛いと何度も言ってくれるが、自分の女性としての価値ぐらいとうの昔に自覚している。
けれども今日は皇后の婚姻と冊封を同時に執り行うという、国儀の中でも皇帝即位式に並ぶほどに重要なもの。暦法を推算する欽天監が何十何百の記録と書物を読み漁り、文字どおり血を吐いてまで導き出した吉日でもある。
国としては何がなんでも今日の儀を成功させねばと、三月以上をかけて準備をしてきた。きっと多くの宦官、宮女が馬車馬のように走り回ってきたはずだ。そんな血と汗が染みこんだ大切な日に、しかも朝廷の重臣たちが勢揃いする場で、すべての苦労を水の泡にする発言。これがどれほど自分に悪影響を及ぼすか分かっているのか。
──いや、分かっていないわね。きっと。
今日のため、半年前から毎日慌ただしく過ごしていたせいですっかり忘れていたが、そういえば目の前で鼻の穴を膨らませながら踏ん反りかえっている若皇帝は、それはそれは大層ないわくつき物件だった。
──そうだった。この皇帝……おバカだった。
南北に広がる中華大陸を統一する大帝国の五代目皇帝・朱雲寧。御年十七歳。
まだ少年の面影を幾ばくか残してはいるが、一年前に崩御した先帝の逞しさと、傾国の美妃と謳われた母の美貌を受け継いだ容姿は一目見れば誰もが見惚れて言葉を失うと言われている。夢珠には「ちょっと綺麗ね」程度にしか見えないが。
ほかにもこの若皇帝は芸事に秀でていて、笛と
──でも、これは最初から知っていた話よ。
自分はすべてを承諾してうえで、この場に立っている。だからたとえ皇帝の言葉であっても、絶対にここで引くわけにはいかない。
──愛しいこの国を立て直すには、皇后の地位が必要だもの。
夢珠は雲寧との婚姻、そしてこの国の皇后となることを決意の時と同じ表情で雲寧を見遣る。そうして。
「陛下のお気持ちはよく分かりますが────」
「お待ちなさい」
どうにか雲寧を説得しようと口を開いたその時、夢珠の声に被せるように凜と芯のとおった女性の声が、正殿内に響いた。
瞬間、場にいたすべての者が一斉に声の方向へと視線を向ける。
そこに在ったのは壇上の袖から雲寧のいる玉座へと歩み寄る皇太后・
真珠の白肌に零れんばかりの大きな瞳、そして淡く薄い桃色の唇と艶やかな黒髪はすべてが瑞々しく美しくて、何も知らなければ彼女が現皇帝の妃嬪と言われてもきっと信じてしまうほどだ。
十七の子を持つ母だというのに少女の儚さを思わせる可憐さは、小柄な身体と相俟って思わず肩を抱き寄せて守りたくなる。
なのに彼女の凄いところは、それでも皇太后としての威厳が損なわれていないところ。凜とした佇まいで壇上に立つ皇太后の姿が、なんと麗しいことか。
真逆の秀美を併せ持つ不思議な魅力を前に、目が離せなくなる。それは生まれて初めて抱く感覚だった。
夢珠はごくりと喉が鳴るほど息を呑み、そして呆ける。
「こ、皇太后様のおなーりー」
婚儀に突然現れた皇太后に驚き、魂を遠くに飛ばしていた太監が漸く我を取り戻し、声を上げる。と、矢を射る早さで文武百官が揃って平伏した。
夢珠も同様に床に額がつくほど頭を下げる。
「「「皇太后様にご挨拶申し上げます」」」
「楽になさい」
「「「感謝いたします」」」
皇太后の了承を得て、一同が顔を上げる。
「皆、今日は国の慶事のため集まってくれて感謝します。準備もさぞ大変だったことでしょう。徐家の令嬢……いえ、もう皇后ですね、貴女にもこたびの儀のために多大な足労をかけました。陛下に代わって礼をします」
「とんでもございません! 陛下と皇太后様のためなら、どんな苦労も喜びとなります」
頭を下げる皇太后の姿に、夢珠は声が裏返りそうになるぐらい慌てた。雲寧に皇后と認めない宣言をされた時も度肝を抜かれたが、今はそれ以上だ。
「その言葉に安心しました。……さて。先ほどの陛下のお言葉ですが──」
一呼吸置いて皇太后が雲寧の発言について切り出す。と、場内はあの宣言をどう判断するのかに注目が集まり、一気に静まり返った。
夢珠も固唾を呑んで続きの説明を待つ。
「あれは皇后の緊張を解すための、陛下なりの気遣い。他意はないゆえ、寛容に受け止めて欲しい」
桃色の唇から春の吐息のごとく吹かれた言葉を、夢珠は夢心地に聞きながらも即座に真意を理解する。
──なるほど、本来なら皇帝と皇后が並んだのちに正殿へと入場する予定だった皇太后が順番を変えてまで出てきたのは、陛下の醜行を止めるためだったのね。
つまり皇太后は混乱を治めるため、あれは冗談だったということにしたいらしい。
ならば、その意向に従うだけ。
「陛下の広量なお心遣いに感謝申し上げます」
夢珠は笑みを浮かべながら拱手し、雲寧に礼を告げる。これで参列者が納得したか否かはどうあれ、記録上は皇帝が皇后を和ませ、温かく迎え入れたことになるので問題にはならない。一件落着だ────と言いたいところだったが。
「お待ちください。母上、朕はっ……」
御バカ皇帝だけは空気を読めなかった。
自分は国で一番偉い人間。自分が望めば蟻ですら象に勝てるのだと勘違いしている暗君は、夢珠と皇太后の会話の間で固まったままでいればいいものを、これは納得できないと異を唱えようとする。
「陛下」
「うっ……はい」
しかしまだ生まれたばかりで震え足の残る子鹿の攻撃は、絶対零度の眼差しで呆気なくいなされた。その間、一呼吸。
たった一言名を呼ばれただけでこれとは。夢珠は朱の
「では儀の再開を」
皇太后の言葉を受け、安堵を浮かべた太監が婚儀の始まりを宣言をした。
夢珠は不満顔の雲寧の隣に立ち、儀を進めながらも心に皇太后の顔を浮かべて幸福に浸る。
心は大分落ち着いてきたが、今もなお全身が心地好い高揚感に包まれている。そういえば徐の家の侍女から聞いたことがあるが、人は恋をすると目に見える景色すべてが輝いて見えるらしい。
──確かに正殿に足を踏み入れた時は、朱と金で豪勢に飾られた壁の装飾も祭具も、ただの景色の一つでしかなかったけど、今は眩しいぐらいキラキラして見える。
つまりそういうこと。
これが、恋だ。
相手は自分と同じ女性で、夫となる男の母親。当然戸惑いは大きいけれど、それよりも数多あるどの学芸の書物からも得られなかった感情に気づけた喜びのほうが勝っている。それに。
──ずっと心が重かった。国のためとはいえ望まない婚姻に対する不安に、皇后という重責に対する恐怖。でも。
手にした交杯酒の杯を口元に近づけグイっと飲み干すと、夢珠は再び扇で隠した口元に心からの笑みを浮かべた。
でももう大丈夫。隣にいる愚君がどうであれ本来の目的を達成させるための勇気と覚悟と原動力を手に入れることができた。
──私は愛して止まないこの国と、皇太后様のためにこの国を立て直して見せるわ!
太極殿の外では国の慶事を祝福する鐘の音が鳴り響いている。きっとその音は都中にも渡っていることだろう。今日は国から民に酒や饅頭などが配られ、至る所で宴や祭りが開かれる予定になっている。
民たちは今頃、久方ぶりの祝い酒に浸りながら楽しく唄い、踊り、語り合っているはずだ。
ずっと悲しい話題ばかりだったこの国に少しでも笑顔が戻れば、それだけで皇后になった甲斐があるというもの。
でも、これはまだほんの一歩に過ぎない。
勝負は明日から。
祝鐘に重なるように高鳴る鼓動を密かに愛でながら夢珠はしっかりと前を見据え、頷くのだった。
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