第7話

個室トイレを出てヘルメットを被り1階からエレベーターに乗った。

5階行きの行き先ボタンをゲーム機のコントローラーボタンを扱うように素早く強く連打する。

数えたことはないから正確には分からないけれど7回くらいボタンを押していたと思う。

ここの会社の故障した自動ドアと違い、エレベーターは問題なく反応する。

ボタンは1回押すだけで充分であるのは理解しているが、いつしかここで働きだしてから連打するようになってしまった。

精神的ストレスからくるものだと自覚している。

そしてそのストレスの原因は高橋のせいだと言い切っていい。

俺にとってエレベーターはまさにスリルだった。いつ何時、誰と乗り合わせるか分からないからだ。

ドアが完全に閉まり動き出した事が分かると自分以外、誰も乗っていないエレベーター内で小さく息を吐いた。




こないだのことだった。

5階に上がる為、1階でエレベーターを待っていると、「カッチャ、カッチャ」と安全靴の音がした。

誰かがエレベーターを待つ俺の方へ向かって歩いて来ている。

俺は歩いて来る者には目をやらずエレベーターのドアに備え付けられているインジケーターを見た。

エレベーターは5階から降りてきて4階を通過していた。


招かれざる者は歩行を止め、立ち止まると「ダン!ダン!ダン!」と床を虐待しているらしく踏みつける音が3回した。まるでプロレスラーが強烈なストンピングをしているような激しい音がこちらまで鳴り響く。


音がする方へ反射的に目をやりそうになったが俺はインジケーターだけを見てエレベーターが1階に辿り着くのをひたすら待った。

エレベーターは3階を通過したばかりだった。乗り降りをする者はおらず、そのまま2階に下降しようとしている。


この時点で床を虐待している犯人は高橋だろうと俺は確信していた。

高橋は怒りを感じると床を踏みつけたり壁や柱を蹴ったりする。

挨拶をしただけで、烈火の如く怒鳴りつけられた事もあった。

さすがに殴られた事はないが座った細い目を見ると殴打される事以上に、いつか職場で殺傷事件を起こすのではないかと本気で不安になるくらいだ。


俺の不安とイライラは高橋の足音が近づいてくるたびに高まっていく。

その行き場のない感情をエレベーターへと矛先を向けた。

俺は歯を食いしばりながら心の中で早くしてくれ、欠陥エレベーター。

クソエレベーター。

チンタラしたらぶっ壊してやるぞ。とエレベーターに罵詈雑言を吐きかけていた。


2階で止まる事を恐れている俺はインジケーターを見る目に力が入りエレベーターのスピードを2倍速、4倍速にしてやろうとサイコキネシスの使い手のように全身全霊、集中して目から力を送った。

少なくとも俺はこの時、自分の能力を信じたかった。


エレベーターよ、お願いだから2階で止まるな。

寄り道なんかせず俺が待つ1階に降りてきてくれ。

頑張れ、エレベーター。お前は優秀なエレベーターだ。

いつしか罵詈雑言から俺はエレベーターの応援を始めた。

自分でもアホだと思うがエレベーターのご機嫌を損ねるより応援にまわった方がエレベーターは気を良くして早く降りてきてくれるかもしれないと考えた。


俺はエレベーターという閉ざされた空間で高橋と同乗したくない。

ただでさえ、ご機嫌良く床を気狂いのようにストンピングしているのだから。


祈るような気持ちでインジケーターを見ていた。緊張感から動悸がして苦しくなる。

甲子園の応援団の気持ちがよく分かった。


まさに手に汗握る心境とはこの事だ。

逆転に次ぐ逆転があり、それでも最後に試合を制して勝てばこのスリルは喜びとなって返ってくるが逆に負ければしばらくの間、意識不明になる。

接戦であればあるほど負けた側の喪失感は計り知れない。


インジケーターを見ると、俺の応援虚しくエレベーターは2階で止まった。

この最悪な結果を知り俺は衝動的に、どこか一箇所に力を込めたくてヘルメットのツバを人差し指と親指を使い強く挟んだ。

今の力ならリンゴに穴を開ける事くらいは出来たかもしれない。


誰かが乗り降りしている。


2階から1階に降りるだけでエレベーターを利用する奴はいったいどれだけ怠け者なんだと思った。

嘆かわしい事に、この怠け者のせいで俺は接戦を制する事は出来ず意識不明の道を辿るハメになってしまった。

やはり初めにエレベーターをボロクソこき下ろしたのがよくなかったのか。


これで高橋が心臓発作を起こして倒れない限り俺はエレベーターで約数分間、ゴロツキと呼んで相応しい男と同乗しなければならなくなった。

それは長い、長い数分間だ。

人気のあるラーメン屋は行列になる。

俺はラーメンを食べる為に並んだ事はないが恐らくその行列の最後尾で、いつラーメンにありつけるか分からない客の気持ちが少し分かった。

いや、この想像は的外れだ。

ラーメン屋で待つ客の方が俺より数倍マシだ。

アリのように長い行列に並ぶ立場であろうとも熱々の美味いラーメンを食すことが出来るのだから、待つ甲斐があるだろう。

それに比べて高橋のサンドバッグになる俺には苦痛でしかない。

辛い思いをしても、それに見合ったご褒美を貰えるわけではないのだから。


横目で足音がする方向を奴に気づかれないよう細心の注意を払いながら見た。

悪態をついたような足音の犯人は、やはり高橋だった。

高橋はポケットに手を突っ込みガニ股で歩いている。

足音を周囲に聞かせるのが俺の仕事なんだといわんばかりにカチャカチャと、くたびれた安物の安全靴で踵を鳴らしていた。


怠け者が止めたエレベーターはようやく動き出し、間もなく俺が待つ1階に降りようとしている。


高橋は俺の横に並び両手をポケットに突っ込んでいる。

俺は高橋を意識的に見ないようにしていたが、奴は何かを言いたげにこちらをチラチラ見ているのが視界に入る。

八つ当たりしたいようで、俺を攻撃する材料を探しているようだった。


今更ながらエレベーターがようやく1階に降りてきた。

もうエレベーターなんてどうでもよかった。

ドアがゆっくり開くと黒いスーツを着た50代後半の男性と若い東南アジア系の男性2人がエレベーターから降りてきた。


俺は3人にお疲れ様ですと挨拶をすると彼らは俺の顔を見て元気よく返事をしてくれた。

高橋は3人を避けながら無言のままポケットに手を突っ込み、エレベーターに乗ろうとした。


黒いスーツの男性が低い声で高橋を指差し注意した。

「おい、構内ではポケットに手を突っ込んだままで歩くのは禁止されているぞ。」

高橋は驚いた顔をしながら「あ、はい。すみません。」とポケットから手を素早く取り出し、左手を薄汚れた白いヘルメットに乗せた。


黒いスーツの男性は「2人ともいいですか?あれは禁止ですよ、あの人はダメな人なんです。真似をしてはいけませんよ。」

高橋の態度の悪さを東南アジア系の男性2人に優しく伝えた。

東南アジア系の男性は2人同時に「はい。」と凛々しい表情で返事をしていた。


黒いスーツを着た男性は高橋の作業服の着こなし方にも黙っていなかった。

「作業服の襟が立ってるぞ…あっ!お前、煙草吸うのか?作業服に穴がいくつも空いているじゃないか!」

高橋は焦りだしてペコペコしながら謝っている。

東南アジア系の男性2人は高橋に対して呆れた顔を浮かべていた。

母国語で何やら会話もしている。恐らく会話の中身は高橋の事だと俺は思った。


黒いスーツを着た男性は高橋の薄汚れた白いヘルメットを凝視しながら「八木君の会社か。お前の所属先の会社に報告するから。」

高橋が深刻な声で謝っている最中、3人は殆ど高橋の謝罪を聞きもせず、すぐこちらに背を向けて歩き出した。

黒いスーツを着た男性は首を傾げて、2人に謝っていた。


俺はエレベーターに乗ろうとした直前に消沈しているであろう高橋をチラッと見た。さすがに今回の件で、少しの間はーーーー

少なくともエレベーターに乗っている間は平和だろうと思っていた。


しかしエレベーターが閉まった直後に高橋はけたたましく唸り声をあげ、俺の顔に指をさして食ってかかってきた。


「ちくしょう!俺が怒られていた時、笑っていただろう?俺はなぁ、お前より後に入社したがお前より歳上なんだぞ!なめるなよ!俺は沢山の資格を持ってんだ!すごいんだぞ!早く謝れよ!」


少しはおとなしくなるかと思いきや、この有様だった。

ゴロツキは俺を恫喝するだけでなく怒り狂いエレベーターの壁を何度も蹴っ飛ばして大暴れしている。

明らかに理性的な会話など出来るはずもない。


新薬の開発に使われる逃げ場のない実験動物になったような気持ちで俺はエレベーターに乗っていた。

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