第三章 準備

 「隙間ができると、光が入ってくるからな。ダンボールを貼り付ける順番を間違えないように注意しろよ」


 大塚教諭の野太い声が、耳に響く。肘まで捲ったワイシャツの袖からは、プロレスラーのような太い腕が覗いている。


 今日は全校生徒、午後から設けられた文化祭の準備に勤しんでいた。窓の外に広がる中庭や、近くの教室からは、生徒たちの準備に追われる喧騒が聞こえてくる。


 二年一組の教室でも、プラネタリウム作成が着実に進められていた。


 机や椅子を全て片側に寄せ、そこからさらにいくつか積み重ねて確保した教室中央の広いスペースには、イグルーテントのような半球型の黒いドームが立っている。


 これは、投影機から発せられた光を映し出すためのドームだ。組立式であり、半球状に張り巡らされたワイヤーに、黒く塗ったダンボールのタイルが貼り付けてあった。


 ドームは、すでに三分の二以上完成している。現在は、残った剥き出しの骨組み部分に、最後のダンボールを貼り付ける作業の最中だった。予め決めた設計図の組み合わせ通りに貼らなければならず、大きめなパズルをやっているようで、中々骨が折れる作業である。


 部屋の隅には、地球儀を黒くして、小さくさせたような形のプラネタリウム投影機が置いてあった。理科の田端教諭から大塚教諭が拝借したもので、かなり高価なものらしい。


 当日はこれとスピーカーをドームの中に設置し、内側に星座を展開させつつ、ナレーションを流すという構想である。


 「そこ、ダンボールを貼る順番が違うぞ」


 大塚教諭の注意が飛ぶ。注意を受けた生徒は、慌ててダンボールを正しい場所へあてがった。そこへ、別の生徒が、表側からガムテープで貼り付ける。大事なのは内側で、外面がガムテープだらけの野暮ったい姿なのは、この際気にしないつもりらしい。


 大塚教諭主導のプラネタリウムは、順調に進み、午後の準備時間内には完成を迎えそうだった。


 「随分と大きくなったな」


 タクヤがそれまで動かしていた箒を止め、教室の半分以上を占拠しているドームを見つめる。


 「うん」


 チリトリを手にしていた僕は頷いた。


 僕とタクヤは、他数名のクラスメイトたちと一緒に、片付け作業に従事していた。


 僕とタクヤは、片付け班だった。最初の班分けの際、決められたことである。


 「これだけ広くて中が暗いと、いやらしいことする連中もいるかもな」


 タクヤは下品な想像を吐露する。僕は、ため息をついた。


 「変なこと言わない」


 すると、近くにいた同じ片付け班である山岡卓が、柔和な顔に卑猥な笑みを浮べ、口を挟んでくる。


 「お前らこそ、中でエッチなことするなよー」


 スグルの茶々に、タクヤは半分照れたような様子で反応する。


 「ばっかお前、俺とハヤトはプラトニックな関係なんだよ。そんな真似しねーよ」


 「本当かー? 別に隠すなよ。お前ら結構熱々カップルだから、もうすでに何度かやってるんだろ?」


 温厚そうな容貌に似合わず、スグルは下ネタを連発する下品な人物だった。それで『引く』人間も中にはいる。僕もその一人だった。


 「だからそんなことはしてないって。なあハヤト」


 話を振られ、僕は戸惑いながら首肯する。タクヤは冗談めかしてプラトニックな関係だと言い放ったが、実際、その通りである。しかし、それはタクヤにとって、少し不本意な結果であることはわかっているため、強く同意することは憚れた。


 タクヤは、掃除を再開し、箒を動かしつつも、なおもスグルと冗談半分のやりとりを行っている。僕は、タクヤの箒をチリトリで受けながら、教室の隅へ目を向けた。


 教室の隅では、ユカリと、ユカリと同じ投影機班である他メンバーが、プラネタリウム投影機の調整を行っていた。


 僕はユカリに釘付けになる。ユカリは雛菊のように可憐でありながら、天真爛漫な明るい輝きがあった。本当に可愛い。


 僕がユカリに見惚れていると、スグルとのやり取りを終えたタクヤが声をかけてくる。


 「どうした? 投影機が気になるのか?」


 「え? う、うん。あれ、いくらくらいかなって。高価だって聞いているけど」


 タクヤは箒を肩にかけ、腕を組んだ。


 「確か十万ほどって聞いたぞ」


 「十万? 結構するんだね」


 誤魔化すために発した質問だが、僕は素直に驚いた。そんなにするものなのか。


 「本格的なやつみたいだから、相場よりかなり高いらしいぞ。機能も色々ついているとか」


 「そうなんだ」


 それほど上等なプラネタリウムなら、相当綺麗な星空が映し出されるに違いない。


 美しい夜空とスピーカーから流れる澄んだナレーション。文化祭当日は、ドームの中がロマンティズムな雰囲気に包み込まれることだろう。まるで七夕の夜のように、カップルの恋心を燃え上がらせるには、充分なシュチエーションだ。


 タクヤの妄想は、あながち的外れではないかもしれない。


 「おーい、そこのカップル二人、仲良くお喋りしてないで、これ捨ててきてくれ」


 スグルが、満杯になったゴミ袋をこちらに突き出した。


 「なんで俺らが」


 「こっちは絵の具の片付けに入らないといけないんだよ」


 スグルは、床に散乱している絵の具が付いたパレットや筆を指差す。


 「だからお前らがゴミ捨てだ。燃えるゴミな」


 タクヤは、渋々といった感じでゴミ袋を受け取った。


 僕は、タクヤのほうへ手を伸ばし、こう伝える。


 「僕が捨てに行くよ。タクヤは教室でスグルたちを手伝ってて」


 「いや、お前にそんなことさせられないよ。俺が捨てにいくから」


 「いいから。気にしないで。このゴミも捨てないといけないし、袋をこっちに頂戴」


 僕は、チリトリに入れたままのゴミを指し示し、タクヤからゴミ袋を受け取る。そして、中にチリトリのゴミを入れると、袋の口を縛った。


 「いいのか? やっぱり俺が……」


 タクヤがそう言いかけるが、僕は手を振って、タクヤの言葉を制した。


 「大丈夫。さっさと行ってくるから」


 そして僕は、タクヤが返事をする前に、ゴミ袋を抱え、その場を離れた。


 正直言うと、一人で外の空気を吸いたくなったのだ。気を遣ってくれたタクヤには悪いが、ここは僕の意思を優先させてもらおう。


 ゴミ袋を抱えたまま教室を出ようとした時だった。後ろから誰かが僕を呼び止めた。女子の声だ。聞き覚えがあった。まさかこの声の主は……。


 僕が振り返ると、ユカリがそこにいた。僕の心臓は跳ね上がった。血圧が上昇したこともわかる。一体何だろう。なぜ僕を呼び止めたのか。


 僕がどぎまぎしていると、ユカリはこちらを見ながら、形の良い唇を動かした。


 「ごめん。望月君。今からゴミ捨て場に行くんでしょ? これも一緒に捨ててくれる?」


 ユカリは、小さなゴミ袋を手にしていた。中はダンボールの切れ端だ。おそらく、プラネタリウム投影機を補強するために使用した物の残骸だろう。


 「多分、その袋にまだ入ると思うんだけど……」


 ユカリは、僕が持っているゴミ袋を見つめながら言う。


 「う、うん。入ると思うよ。貸して」


 僕は高鳴る鼓動を抑えつつ、ゴミ袋を床に置いた。そして、縛ったばかりの袋の口を開ける。


 ユカリからゴミ袋を受け取った僕は、開いた袋の中に投入する。当初はユカリが言った通り簡単に入ると思っていたが、ユカリが持ってきた袋が大きかったため、予想に反して収めるのに難儀した。体重をかけて、無理矢理押し込める。それを何度か繰り返し、何とか袋の口を縛ることに成功した。


 「あ、入った」


 僕とユカリは、互いに笑い合う。ユカリの向日葵のような明るい笑顔が、僕に注がれたと思うと、天に昇るような幸せな気持ちになった。


 「それじゃあごめん、お願いするね。埋め合わせはするから」


 ユカリは両手を合わせ、拝む仕草でウィンクを行う。僕はさらに幸福な気分に包まれる。


 「いいよ。これくらい。お安い御用」


 僕は胸を張り、再度ユカリと微笑み合う。


 ユカリと別れ、玄関に向かっている最中、僕は強い高揚感に飲み込まれていた。好きな人と会話をして、笑い合うことがこれほど幸せを感じるとは。まるで宙を歩いているように、足元が浮ついていた。


 多幸感を味わいながら、僕は玄関で靴に履き替え、校舎を出る。それから裏庭のほうへ足を進めた。ゴミ捨て場は、校舎裏にあるのだ。


 校舎裏に近付くにつれ、周囲は静寂に包まれ始める。校舎裏といっても、裏庭を挟んでいるため、棟とはかなり離れており、校舎内や中庭の喧騒は、ここまでほとんど届くことはなかった。人気も少なく、こうして歩いていると、表通りから裏路地へ入ったかのような寂しさに襲われる。


 程なくして、僕はゴミ捨て場へ辿り着く。スチール製のケージを開け、中を覗き見る。


 ケージの中は、相当な数のゴミ袋で埋まっていた。文化祭の準備で排出された残骸が、凄まじく多いことが見て取れる。何せ全校生徒でモノ作りをやっているも同然なのだ。普段よりもゴミが山積するのは、当たり前だろう。


 僕はその袋の山の中へ、手にしていたゴミ袋を放り投げた。そしてケージの扉を閉じる。


 なおもユカリとのやりとりにより、発生した高揚感に包まれたまま、僕はゴミ捨て場を後にした。


 やってきたルートを逆走するようにして、裏庭のほうへ向かう。これまで同様、ほとんど人とはすれ違うことはない。


 ちょうど、裏庭を突っ切り、東校舎の真横を通過しようとした時だった。校舎裏に設置されている非常階段のそばで、人影が見えた。少し怪しい動きだったので、何だろうと思い、そちらに目を向けてみる。


 僕ははっとした。そこには二人の女子生徒がいた。二人は、周囲からほとんど死角となる場所に腰掛け、口付けを交わしていたのだ。


 逢引きの現場である。おそらく、準備の乱雑さに紛れ、こっそりと教室を抜け出したのだろう。二人のクラスも、学年もわからないが、随分と豪胆なものだと思う。場所も上手く選んでいるらしく、周りからほぼ完璧に隠れられるポイントに陣取っていた。


 こうして僕が目撃できたのも、たまたま唯一の死角を突いた位置を通り、偶然彼女たちの姿を捉えたからだ。


 女子生徒二人は、僕の視線に気がつくことなく、夢中でキスを続けていた。二人共胸の前で手を握り合い、寸分も離れたくないとでもいうように、ぴったりと密着している。とても親密な関係を感じさせる姿だ。お互いが強く相手を求めている様が、伝わってくる。


 僕は二人から目を逸らし、そのまま足早にそこを通り過ぎた。カップルのキスシーンなど、滅多に見れるものではないため、胸がドキドキしている。ユカリと会話した時の高揚感とは、別種の高鳴りであった。顔も少し赤くなっていると思う。まるで初心な乙女のように。


 僕は、東校舎を抜け、西棟にある玄関を目指した。頭の中では、さきほど見た女子生徒たちのキスシーンが、映写機のように回っている。


 そして、以前妄想した時と同じように、その二人の姿が歪み、ユカリのものと入れ替わった。だが、今回は少し違っていた。もう一人は僕ではない。見知らぬ女子生徒。ユカリは、その女子とキスをしているのだ。同性同士でキスをする『普通』の光景。


 そうだ、と思う。僕は前にユカリが異性愛者だったらいいな、と希望的観測を抱いたが、その可能性は極めて低いのだ。性的マイノリティーは、少数派だからマイノリティーと呼ばれる。理屈で言えば、ユカリは、マジョリティーである同性愛者の可能性のほうが遥かに高いはずだ。


 それを考えると、僕の心はささくれ立った。僕がユカリと付き合えるという希望が、虚しく潰えることになる。それはあまり直視したくない現実だ。


 そればかりではない。もしかすると、僕が知らないだけで、現在付き合っている彼女がいる可能性もありうるのだ。今しがた妄想したように、その彼女とキスを交わしていることも考えられる。キスだけはなく、性交渉も経験済みなのかもしれない。思春期の高校生なのだ。不思議ではなかった。


 そうでなくとも、ユカリのような魅力溢れる女の子ならば、他に狙っている女子がいるのは当然の帰結だろう。いずれにしろ、僕が付け入る隙は微塵もないことになる。


 女子生徒二人のキスシーンから始まったネガティブな思考は、留まることを知らず。濁流のように脳内を駆け巡った。


 玄関へ辿り着く頃には、僕の中にあったハイテンションな気分は、風に飛ばされたかのごとく、どこかへと消え去っていた。





 その後、プラネタリウムは無事に完成し、分離して倉庫に保管されることになった。これで後は、本番である文化祭を迎えるだけである。


 放課後になり、僕は早々に学校を後にした。今日は部活がないため、残っていても無意味であるからだ。


 しかし、家に帰る前に、一つ用事があった。


 僕は南太田駅から家とは逆方向の、上り列車に乗り込む。そして、二駅先の日の出町駅で降りた。


 駅前から続く根岸道路を北上し、野毛坂の交差点手前で左折する。前方に伸びている緩い坂道を登ったところで、目の前に博物館を思わせる大きな茶色い建物が見えてきた。


 横浜市中央図書館である。市立図書館としては、日本で二番目となる蔵書量を誇る大型の図書館であった。


 僕は、コンサートホールのように豪華な玄関から、図書館内部のエントランスへ足を踏み入れた。そこからエレベーターへ乗り、五階へ上る。


 高校の図書室の何倍も広い図書コーナーを歩き、奥のエリアにある一角を目指す。図書館内は、まだ比較的早い時間帯であるためか、老人や子供が多かった。反面、学生の姿は少ない。


 僕は、目当ての一角へ辿り着いた。案内表示板には、『人権・環境』と記されており、その名の通りに、人権問題や環境問題を取り上げた書物が収納されている場所だった。数名先客がいて、本棚の前で本を見繕っている。


 僕はコーナーの中を何度か往復し、異性愛関連の本がまとめられている本棚を見つけ出す。


 これが今日図書館にきた目的だった。


 ずっと頭にこびり付いている、異性愛問題の解消の糸口を掴みたいとの思いがあったためだ。それに、昨日考えたように、異性愛者の割合も気になっていた。


 僕は異性愛関連の本棚の中から、適当な書物を選び出し、いくつか手に取る。そして、その場を離れようとした。その時、棚の上部に表紙を向けて配置されてある、一冊の本がが僕の目に留まった。


 『プライドパレードの歴史』というタイトルの書籍である。虹色の装飾が施されている少し目立つデザインだ。


 僕の頭に、昨夜見たプライドパレードのニュースの話が思い起こされた。そして、それに対する誹謗中傷の嵐も。


 僕はその本が気になり、手を伸ばす。その時だった。


 横から幽霊のように誰かの白い手がスッと伸びてきて、『プライドパレードの歴史』を取ろうとする。その手と僕の手が、一瞬だけ触れ合った。


 僕は反射的に手を引っ込める。相手も同じだった。それから僕は手の主に顔を向けた。


 相手を確認した僕は、驚く。そこにいたのは、金森美咲だった。昨日に引き続き、ミサキと同じ場所に居合わせるとは。


 ミサキも驚いているようだった。だが、僕とは違って、ミサキの場合は、単純に自分と同じ制服を着た男子生徒との邂逅に驚いているだけのようだ。


 異性同士ではあるが、安っぽい恋愛ドラマのような出会いの瞬間だ。だが、通常はただ単に、両者とも戸惑うだけのシュチエーションである。


 ミサキは驚いた顔から、一瞬だけ警戒を強める表情に変わった。形の良い眉根が寄る。しかし、僕が取ろうとしていた『プライドパレードの歴史』と、僕が脇に抱えている書物のタイトルを確認し、興味が惹かれたような顔になった。


 ミサキは口を開く。


 「どうぞ。私は今度でいいから」


 ミサキは、鈴の音のような凛とした声でそう言うと、『プライドパレードの歴史』を指し示す。


 断るのも変なので、僕はミサキの進言に従って、本を手に取った。


 少しの間、沈黙が流れる。図書館の中は、平穏が保たれているため、尚更静けさが強調された気がした。


 ミサキはなおも興味深げな表情で、僕の姿を眺めている。切れ長の綺麗な目が、僕の頭から足先までをなぞるようにして上下した。それから、再度、『プライドパレードの歴史』も含め、僕が持っている異性愛関連の本に視線を定める。


 僕は思わず、本を体の後ろに隠した。もう少し、周りを気にしたほうがよかったと後悔する。とても大きな図書館である上、学生の姿が少なく、まさかピンポイントで同じ高校の生徒に出くわすわけはないと高を括っていたのだ。これでは、僕が異性愛者だと知られてしまう。


 体の後ろに本を隠す僕の仕草を見て、ミサキはたしなめるような口調で言った。


 「隠す必要はないよ。異性愛の本を借りることは、恥ずかしいことじゃないから」


 その言葉に、どう返答しようか僕が困惑していると、ミサキは訊いてくる。


 「異性愛問題に興味があるんだ?」


 僕はとっさに手を振り、否定した。


 「い、いや、そんなわけじゃあ……」


 異性愛関連の書物を手にしておきながら、これは苦しい言い逃れだと思う。しかし、異性愛者であることを知られたくないために、否定するしかなかった。


 ミサキは、そんな僕の言動を訝しむことなく、落ち着いた様子で話す。


 「さっきも言ったけど、隠すようなことじゃないと思うけどね。異性愛問題に興味があったり、仮にあなたが異性愛者であっても、別におかしいことではないから」


 ミサキの意見は、まさに僕自身が抱えている悩みに対する励ましそのものだったが、それでも僕は肯定はしなかった。


 黙ったままの僕へ、ミサキはおもむろに頭を下げた。シルクのように綺麗なストレートロングの髪が、艶やかな黒色を放つ。


 「ごめんなさい。別に詮索するつもりはないの。それに、個人のセクシャリティに関わる憶測の言葉はよくなかったわ。許して」


 殊勝な態度に、僕は戸惑う。ミサキが言ったように、詮索と憶測自体は確かに迷惑だったが、こうやって真摯に謝罪を受けると、逆に悪い気がした。


 それほど僕は困った表情をしていたのだろうか。それとも、ミサキが異性愛について、センシティブな感覚を抱いている証なのか。


 顔を上げたミサキは、クールな微笑をたたえる。


 「約束するわ。このことについて誰にも口外しないって。変に詮索して本当にごめんなさい」


 ミサキはそう言うと、もう一度頭を下げた。


 「それじゃあ私はこれで」


 ミサキは背を向け、歩き出そうする。


 「待って!」


 気がつくと、僕はミサキを呼び止めていた。自分でも、理由がわからない。何かに操られたかのように、口が勝手に動いたのだ。


 ミサキは、不思議そうな表情で、こちらに振り返った。





 「望月君のクラスはプラネタリウムをやるんだね。私のクラスは再現系の出し物。スカイツリーの大きな模型を展示するんだ」


 「そうなんだ」


 図書館を出た僕とミサキは、近くの喫茶店に立ち寄っていた。借りた本は、通学鞄へ収めている。


 「それで、話ってなに?」


 ミサキは、オレンジジュースを飲みながら、そう訊いてくる。ミサキはクールな大和撫子というイメージだが、飲み物は意外と可愛らしものを注文していた。嗜好は案外、子供っぽいのかもしれない。


 僕は、アイスティーを一口飲むと、しばし悩んだ。ミサキを呼び止めたのは、僕の中にある異性愛指向への悩みが原因だろう。異性愛者であるに違いないミサキへ、そのことを相談したいとの無意識の行動が発露したものだ。


 だが、いざその時が訪れると、どうしても言葉として出てこなかった。


 沈黙する僕に、ミサキは優しく微笑む。


 「言いたくなった時でいいよ。私待つから」


 ミサキは、僕の心情を慮ってか、気遣うように言う。


 「う、うん。ありがとう」


 僕は礼を口にし、それからミサキと会った時から気になっていたことを思い出す。本題とは関係ないが、僕はまずはそれを質問することにした。


 「そういえば、金森さん、部活は?」


 「今日は体育館が使えないから、お休み。それで時間があったから図書館にきたの」


 そこで、たまたま図書館に訪れた僕との邂逅を果たしたということか。恋愛ドラマのエンゲージシーンよろしく。何という偶然だろう。


 「……」


 再び僕は押し黙る。どう切り出そうかと深く考える。


 ミサキは僕を見守るように見つめた後、穏やかに言う。


 「訊きたいことがあったら、遠慮せず何でも訊いてね」


 僕は、さきほど図書館内でミサキが発した言葉を思い出した。「個人のセクシャリティに関する言葉は失礼」そう言っていた。


 昨日目撃したシーンも含め、ミサキが異性愛者かバイセクシャルなのは間違いないだろう。だが、そのことを軽々に質問するのは憚れた。いくら異性とデートをしているシーンを目撃したからとはいえ、個人の性的指向に踏み込んだ質問は、ミサキの言うように失礼に当たるからだ。


 しかし、それでも確認は必要だった。僕の相談は、相手が異性愛者であることが前提なのだから。


 そのミサキが許可した以上、質問してもいいのかもしれない。どこかミサキは、内容を察している様子もあった。


 僕は、思い切って尋ねる。


 「失礼かもしれないけど、金森さんはもしかして異性愛者?」


 「ええ。そうよ」


 ミサキは驚くほど、あっさりと肯定した。


 「簡単に答えるんだ」


 「そうね。異性愛者であることを隠す必要はないもの。悪いことではないから。まあ、わざわざ言い触らすことはしないけどね」


 「そう」


 ミサキは図書館で会った時から「異性愛は悪いことではない」と繰り返していた。確かにその通りだと思う。人を好きになるのに、性別で善悪が付けられるわけがないからだ。


 僕は再びアイスティーを一口飲み、ミサキの顔に目を向けた。色白で、女優のように整ったミサキの容貌は、至誠な色を帯びている。


 ミサキには打ち明けていいかもしれない。彼女が纏う雰囲気は、そう思わせるものがあった。


 僕は決心し、口を開く。


 「金森さん。話っていうのは、ちょっと相談したくなったことがあって……」


 僕は口ごもりながら、続けた。


 「その相談の内容は、僕の性的指向に関することなんだ」


 『性的指向』という単語を出しても、ミサキの表情は変わらなかった。真剣な顔付きのまま、ミサキは頷く。


 僕は、言い放った。


 「僕も金森さんと同じように、異性愛者なんだ」


 言ってしまったと思う。誰かに自身の性的指向をカミングアウトしたのは、初めてであった。僕の心拍数は上昇し、顔も微かに赤くなっているに違いない。


 だが、ミサキはさほど大きな反応を見せなかった。友達から好きな食べ物を伝えられた時のように、あくまでクールに応じる。


 「そうなんだね」


 ミサキは静かに首肯し、続きを待つ姿勢を取る。


 若干話しやすく感じ、僕は続きを言う。


 「それで、クラスに気になっている女子がいて、告白しようかどうか悩んでいるんだ。相手は同性愛者である可能性が高いから、上手く行かないんじゃないかって、不安に思って」


 それに、と僕はタクヤのことも伝える。


 「僕は異性愛者だけど、今、付き合っている彼氏がいるんだ。そっちのほうもこのままでいいのか悩んでて……」


 そこまで伝えると、僕は口を閉じる。一応、相談したい内容は全部言った。


 ミサキは真剣な表情のまま、何度か頷く。


 「望月君の悩みはわかったわ。そうね……」


 ミサキは深く考え込むように、腕を組んだ。形の良い大きな胸が、制服越しに強調される。


 「私だったら、躊躇わずその好きな女の子に告白するわ」


 ミサキの答えは、積極的だった。


 「そう。勇気があるんだ」


 ミサキは首を振った。


 「勇気の問題じゃないわ。何度も言っているように、異性愛者であることは悪いことではないから。告白しても咎められる理由にはならないはずよ。それに、好きっていう気持ちを殺したままでは、辛いでしょう?」


 僕は、静かに首肯する。その辛さは身に染みてわかっていた。ミサキの主張も正しいと思う。だが、それでも、踏ん切りがつかない。その理由があるのだ。


 「告白した結果、異性愛だということがばれて、差別されるようになったら?」


 僕は、ミサキに一番不安に思っていることを伝える。


 ミサキは手を前に出し、講義をする教師のような口調で言う。


 「それでも私は気にしないわ。こっちは悪いことをしたわけではないもの。異性愛者だろうと、同性愛者だろうと、告白に違いはない。それで悪だというなら、誰かへの告白自体が、悪いことになってしまうわ」


 僕は俯き、喫茶店のテーブルを見つめる。


 ミサキは自身が異性愛者であることに、確固たる信念を持っている。だからこそ出る言葉なのだろう。ミサキそのものが強い人間であることも確かだ。


 だが、僕はそうではない。異性愛者であることが知られ、後ろ指を差される状況に耐えられる自信がなかった。


 押し黙った僕へ、ミサキは優しく声をかける。


 「かえって悩ませたみたいでごめんなさい。これはあくまで私の意見だから。それに、望月君の不安がる気持ちも痛いほどよくわかるわ。告白をした相手に気持ち悪いって思われたらどうしよう、異性愛者であることが広まったらどうしよう、そんな気持ちが」


 ミサキは、椅子に深く腰掛け、居住まいを正すと、続けて言う。


 「だから、最終的には望月君の気持ち次第だと思うわ。差別にあっても、好きだという気持ちを伝えたいのなら、告白して、それが嫌だったら、胸に閉じておく。その考えでもいいと思うわ」


 僕は顔を上げ、ミサキの顔を見た。ミサキは真摯な目をこちらに向けている。僕は頷いた。ミサキのアドバイスはありがたかった。熟考しようと思う。


 ミサキは、仕切り直しするように、身を乗り出して、次の話題へ移る。


 「それから、望月君のもう一つの悩みのことなんだけど……」


 ミサキは、僕がタクヤと付き合っている相談に言及した。


 「望月君は、その彼氏のことは好きなの?」


 僕は少し考えた後、率直な気持ちを伝える。


 「好き、だとは思う。いい人だし、一緒にいて楽しいから。でも、それが恋愛感情による好きなのかって言われれば、違うと思う」


 「そもそも、どうして付き合うようになったの?」


 僕の脳裏に、タクヤから告白された時の光景が蘇った。体育館裏の新緑のモチの木。今はさらに栄えていることだろう。


 「突然、告白を受けて……。素直に嬉しかったし、僕のことを好きという気持ちが伝わってきて、了解したんだ」


 僕は続ける。


 「だけど、恋愛感情がないまま、しかも異性愛者だということを隠しながら付き合っていることが、彼氏に対する裏切りに思えてならなくて……」


 僕の訴えに対し、ミサキは納得したように、細い顎に手を当てて言う。

 「彼氏の気持ちに応えようとしたんだね」


 「そうかもしれない」


 ミサキは、オレンジジュースを一口飲み、話す。


 「もしも、そうやって彼氏と付き合うのが苦痛なら、別れることも考えたほうがいいかもしれないわ。だって、そのままじゃあ望月君にとっても、彼氏にとっても良いことではないから。その内、二人共不幸になるかもしれない」


 僕は、口を噤む。やはり、そのほうがいいのだろうか。


 続いて、ミサキは警告するように言う。


 「それと、もしも好きな女の子に告白する場合、その前に彼氏とは別れるべきね。誰かと付き合ったまま告白するのは、双方に対して誠実ではないから」


 「そうだね。そうするよ」


 僕は頷いた。いずれにしろ、タクヤとの交際について、本気で向き合ったほうが良いのかもしれない。


 僕は、気になったことを質問する。


 「もしも、彼氏と別れる場合、僕が異性愛者であることをカミングアウトするべきなのかな?」


 ミサキは天井を見上げる仕草をし、少し思案する。何だか、過去を思い出しているような風情だった。


 ミサキは答える。


 「必ずしもカミングアウトする必要はないと思うわ。世の恋人も別れる理由に、真実を話すとは限らないし、下手をすると相手を傷付けたり、トラブルになる恐れがあるから。この場合、カミングアウトが絶対に正しいとは言えないはずよ。ただ、真実を伝えたほうが誠実なのは確かだけどね」


 僕はどうしようかと悩む。僕が異性愛者だから別れると言った場合、タクヤはどのような反応を見せるのだろうか。異性愛に嫌悪感を抱いているタクヤなのだ。波乱を呼び込む恐れはあった。


 思考に沈む僕を見つめていたミサキが、静かな口調で、ゆっくりと口を開く。


 「私の経験談を話してあげる」


 「経験談?」


 「うん。実は私も以前、同性と付き合っていたことがあったの」


 僕は驚いたが、ミサキは男の僕から見ても、魅力的な女の子だ。他の女子から恋慕の情を寄せられるのは、不思議ではないのだと思い直す。


 ミサキは、過去の話を始める。


 「少し前、私が中学三年生の時の話よ。当時、クラスメイトだった女子生徒から告白を受けたわ。私は少し驚いたけれど、彼女の真摯な気持ちと言葉が嬉しくて、了承したの」


 ミサキの経験は、偶然にも現在の僕の状況と一致していた。


 「彼女との交際は楽しかったわ。でもいつしか――いいえ、多分最初からだと思うわ。違和感を覚えるようになったの」


 「違和感ってもしかして」


 僕がそう呟くと、ミサキは柔らかい微笑を浮かべた。


 「異性愛者である自分が、同性と付き合ってていいのかという想いよ。そして、同時に、私には好きな男の子がいた。クラスメイトの男子生徒」


 「それって……」


 ミサキは頷く。


 「そう。今のあなたと同じような状況ね。ただ、私には相談できる相手はいなかったけど……。そして、私は男子生徒に告白することを決意したわ。もちろん、付き合っている彼女には別れを告げて」


 やはり、ほとんど僕と同じような状況だ。偶然というよりも、異性愛者などのマイノリティが辿りやすい道筋なのだろう。


 僕は訊く。


 「自分が異性愛者だって、カミングアウトはしたの?」


 ミサキは首肯した。


 「したわ。そのほうが誠実だと思って」


 「彼女の反応はどうだったの?」


 僕の質問に、ミサキは眉宇に、悲しげな皺を刻む。チクリとした痛みが、かすかに走ったように見えた。


 「彼女は私を『説得』しようとしたわ」


 「説得? 考え直してくれって?」


 ミサキは首を横に振った。


 「いいえ。彼女は、私を異性愛者に『戻そう』としたの。はっきりと、異性愛は間違っていると言って。彼女にとって、私が異性愛者なのは、受け入れがたい現実だったみたい」


  「……」


 僕は無言で返す。


 「それから、彼女は執拗に『説得』を試みたわ。ストーカーのように、驚くほど色々な方法で。私は嫌気が差して、彼女を強く拒否するようになった。それでも彼女は止まらず、最後には、女の良さを教えてあげるって、レイプ紛いの行為もされかけた」


 ミサキは声を落としながら、そう言う。


 ミサキは続きを話す。表情が、失墜したように暗くなっていた。


 「そして、何をやっても私が『説得』に応じないと知ると、彼女は非情な行動に出たわ」


 僕は察しがついた。


 「もしかしてその彼女は……」


 ミサキは頷く。


 「そう。彼女は、私が異性愛者だということを広めたの。いわゆるアウンティングと呼ばれる行為ね。ご丁寧に、LINEやSNSでの私たちのやりとりを証拠にまで出して、学校中に知らしめた」


 「ひどい……」


 僕は自身が同じような目に合ったかのように、胸が痛くなった。これは、他人事ではないと思ったからだ。


 「それからというもの、私へのいじめと差別が始まったわ。不登校寸前に追い詰められるくらいまで。幸い、そうなる前に卒業を迎えたから、それっきりだったけど……」


 「……そんな辛いことがあったんだ」


 僕は、悄然と呟く。月並みな慰めの言葉すら出ず、僕は自分を恥じる。


 ミサキは朗らかな笑みを浮かべた。それは、悲惨な過去を振りほどき、立ち上がった者が見せる表情だった。


 「まあね。本当に辛かったわ。結局告白した男子にも振られるし、散々。今にして思えば、付き合っていた彼女は、本当に私のことが好きじゃなかったかもしれない。本当に好きだったら、あんな真似しなかったはずだもん」


 そう言うと、ミサキは、氷が溶けきったオレンジジュースを飲んだ。僕のアイスティーも、同じように氷が溶けきり、グラスの表面に水滴が大量に付着していた。


 オレンジジュースを飲み終えたミサキは、自信を持った声で言う。


 「だけど、私はカミングアウトを後悔していないわ。異性愛者は日陰者なんかじゃない。それだけで、非難や差別を受ける筋合いはないもの」


 僕は水滴まみれになったグラスを見つめたまま、考える。僕はどうするべきか。様々な思案が頭を駆け巡るが、答えは出なかった。


 そんな僕を見て、ミサキは沈痛な口調で声をかけてくる。


 「ごめんなさい。不安にさせたみたいで。決して、あなたの彼氏がそうするとは言ってないわ。ただ、これは以前、現実にあった話だと知って欲しいだけなの」


 僕は顔を上げ、ミサキへ視線を戻す。ミサキは、誠実な面持ちをしていた。


 「だから、望月君は、自分にとって何がベストなのか考えるべきだと思うの。後悔しないようにじっくりと。いつでも相談に乗るから、それを忘れないでね」


 ミサキは、優しくそう告げる。


 「うん。わかった。ありがとう。よく考えるよ」


 僕はそう答えると、すっかりぬるくなってしまったアイスティーを飲み干した。




 ミサキとの邂逅を果たした日から数日間、僕は思い悩んだ。それなりに深刻な様子だったらしく、両親やカナ、ひいては、タクヤにまで心配される始末だった。


 内容が内容なだけに、おいそれとは吐露できず、僕は一人で考えを巡らせていた。ミサキとは連絡先を交換していたものの、相談をするようなことはしなかった。


 やがて、文化祭を翌日に控えた日曜の晩、僕は結論を出した。やはり自分の気持ちを裏切り続けることはできない。僕は、明日の文化祭で、タクヤへ別れを告げようと決心した。

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