39th Mov. ミニ発表会と僕

 冬というには程遠い。かすかに不快な暑さが残る日差し。

 着慣れたはずの制服が重たく、手に持つコートが邪魔くさい。


 かえでホール。

 半年ぶりにここに来た。

 まさか、自分が演奏するためにまた訪れるなんて。

 半年前の僕には想像もつかなかったことだろう。


 今でも彼女の演奏を思い出すと胸が熱くなる。


 少しは彼女の演奏に近づけただろうか。

 少しは彼女と同じ側の人間に成れているだろうか。


 何も持たない僕と輝かしい光を放つ彼女。

 暗い観客席から、眩い舞台に立つ彼女を見つめていた半年前。

 少なくとも、同じ舞台に立つことが出来るようになったということだけは確かだ。


 ※


「プログラムナンバー15番――――」


 演奏者は、自分の演奏の出番が近づくまで観客席で待つ。むろん、予定時間前に来ればよいので、そんなことはしないでも良いのだが、早く来すぎた僕はそこで待つしかなかった。


 自分の番の3人くらい前になると舞台袖に移動して出番を待つことになる。

 そこまでいったら、逃げることは出来ない。


「プログラムナンバー16番――――」


 望んでいないカウントダウン。

 着実に出番が近づく。

 永遠に来ないで欲しいという気持ちと早く来て楽にしてくれという気持ち。

 相反する気持ちが僕の心をぐちゃぐちゃにする。

 今、舞台にいる演奏者の音など耳に入って来なかった。


「プログラムナンバー17番――――」


 17番が始まったら舞台袖に行く。

 そのキーワードだけを自分にインプットしていた。


 ※


「プログラムナンバー20番 野田拓人さん。演奏はブルグミュラー作曲 25の練習曲 2番 アラベスク」


 暗示のように思いこんでいたおかげで、遅れることなく移動できたらしい。

 僕は舞台袖の席に座っていた。

 ただ、移動した記憶はない。


 そして、いつの間にか僕の出番のようだ。


 ――――えっ? 僕の番? いつの間に? いけない、早く移動しないと。


 舞台袖の薄暗いスペースは他の演奏者も待機している。

 その合間を縫って明かりが漏れる舞台袖まで歩けば、そこからの景色は彼女の世界が広がっていた。

 そこは僕には程遠い世界のはずで、近寄らないようにしていた世界。

 何を血迷ったか自分から飛び込んでしまった世界。

 ここは主役がいるべき場所なのに。


 もう逃げられない。腹をくくって進まないと。

 小さな子ですら、緊張を押し殺して演奏しているのだから。


 だから僕も大丈夫。緊張するのが普通なんだから大丈夫。

 高校生の僕が怖気づくなんて情けないことは出来ない。


 覚束ない足取りで舞台を進む。

 普段どうやって歩いていたのかと考えてしまうほどに、足が動かない。


 中央に鎮座するコンサートピアノ。

 うさぎピアノ教室のグランドピアノよりも大きく、重厚感がある。

 これを弾けるだけでも贅沢な時間になるだろうな。僕の電子ピアノとは大違いだ。

 

 現実逃避するように、そんなことを思ってしまった。


 何とか転ばずに辿り着いた舞台中央。


 艶やかなピアノに魅入られるように鍵盤を触りそうになって、ふと手を止める。

 何度も見てきた発表会の作法を思い出し、観客席に向き直って頭を下げる。

 それまで弱まっていた拍手が、僕の挨拶で再び沸き立つ。

 僕なんかの演奏のためにこれだけの人が注目している。


 眩しくてに見えにくいけど、一番手前の席には彼女たちがいた。

 みんな心配そうな顔をしているように見えた。多分僕はもっとひどい顔をしていることだろう。今も夢を見ているような、僕であって僕でないような。そんな感じでフワフワしている。


 一ページだけの楽譜を譜面台に置き、椅子に浅く腰かける。

 何度も弾いてきた曲だ。今では楽譜を見なくたって弾ける。

 ミスだってしない。二分もかからず終わる曲。大丈夫、すぐ終わる。


 そう思い込んで僕は鍵盤を叩き始めた。

 軽快なリズムと駆け足のようなメロディー。


 右手は空回りしそうなくらいに調子が良い。

 調子が良いからって、一人で先走らないように左手とペースを合わせないと。


 ――――だめだ。どんどんペースが上がってきている気がする。


 速いペースに追い付かず、左手がもつれ始めて苦しくなってきた。

 どうする……。ゆっくりペースダウンするか、このまま駆け抜けるか……。


 ――――あっ! ペダルの掛かりが悪かった。


 考えていたより音が響かない。

 どうしよう。どうやって建て直せば良いんだ……。


 色々な選択肢が浮かんでくるが演奏は続く。

 演奏が続けば、曲は終わりに近づき、取れる選択肢も少なくなっていく。

 思い付くものは、時すでに遅く、次善の策を選ぶ時間をも失わせる。


 ダメだ。分かんない。このままいくしかない。


 安定しないベースライン。

 粒のばらけた16分音符につながらない音。

 これなら1か月前の演奏の方がマシに思える。


 あまりにズタボロの演奏で、僕は途中で止めて席を立ちたかった。

 褒められる部分があるとするならば、そうする勇気すら湧かず、最後まで弾ききったことくらいだ。


 早く終わってくれと祈ることで頭がいっぱいの僕には、少しでも良い演奏をしようと努力することを放棄していた。



 その後のことはあまり覚えていない。

 紬や中野たちが「お疲れ様」みたいな言葉をかけてくれたと思うけど、うわの空で返事をして帰ってきてしまったのだから。

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