第7話 堅人(6)
「結架くん。きみの言うことが総て正しいとしても、それは人間として当然の感情だ。悪魔なんかじゃない。悪魔なら集一くんの苦痛を喜んだだろう。でも、きみは違う。悪魔なら今のきみのように悩まない。きみは人間なんだ」
結架は黙って、それを聞いた。
鞍木は残酷だと思いながらも続ける。
「それから、もしも、きみの言うように、集一くんが嘘をついていたのなら。きっと、今のきみと同じ気持ちでいるだろう。きみは、そんな彼を責めるかい?」
結架が目を見開いた。
「いいえ。まさか」
「それなら、もう忘れるんだ。堅人のことは忘れてしまえばいい」
少しでも、その心に のしかかっている
「そう できたなら、どんなにいいか。でも、無理よ」
「なぜ」
吐息と ともに彼女は答える。
「私は未だに囚われているのよ。私の魂は兄の手のなか。どうしたって、逃げられない」
「そんなことはない」
「見たの」
結架は天井を見上げ、両目を閉じ、鞍木に打ち明けた。
「階段から落ちる前に兄の声を聴いたわ。そして、姿も、はっきりと見たの」
「ばかな」
「本当よ」
青ざめた鞍木に、結架は続ける。
「あの子を身籠ったときから、何度も夢に見たの。あのとき……兄のベッドで目を覚ましたときのこと……。だから思い知ってしまった。兄を一生、忘れられないわ。そして今日、それを証明されてしまったのだわ」
「集一くんには?」
「話したわ。私、おかしくなってしまったのかもしれない。そう言ったの。彼、もしも また兄を見たら、すぐに自分を呼べばいいって。生きていようと死んでいようと、兄とは自分が話すからって」
安堵の ため息が結架の耳を揺らす。
「集一くんの言うとおりだ。彼に任せればいい。いずれ時間がたてば落ちつくよ。きっと少しずつ薄らいでいく。だから、集一くんから離れるんじゃない」
「本気で、そう思っていらっしゃるの?」
結架が目を開き、鞍木に視線を戻した。
潤んだ瞳には、鞍木ではなく恐怖が映っている。いつ、また堅人を見てしまうのかと、彼女は怯えていた。
「結架くん。おれは、これでも、子どものころから堅人の親友のつもりだ。ずっと傍で見てきた。堅人が願うのは、きみの幸せだ。だから、あいつは きみへの利己的なまでの愛情を、音楽堂とともに焼き尽くすことを選んだ。あいつは これまで一度も、選んだあとで、悩んだり迷ったりしたことはない。それだけは信じられる。
今日、きみが声を聴き、姿を見たのが間違いなく堅人であるなら、結架くん。彼は、これからさき、きみが苦しみつづけることになる原因となる者を連れて行くためにこそ、現れたんじゃないだろうか」
「え──?」
「今度こそ、きみを解放し、集一くんのもとに送りだすために、あの子を迎えに来て、連れて行った。きみたちも、あの子も、これ以上は苦しめないように」
そんなことは思いもよらなかった。
結架は、ずっと堅人が自分を恨んでいると思っていたのだ。
『結架。俺が傍にいることが、おまえの不幸であるなら、俺は生きてはいられない。生きているかぎり、俺は、おまえを求めてしまう。どうしても欲さずにはいられない。俺ではない者が、おまえに触れるなどと、考えるだけで耐えられない。いつか、その者を殺してしまうだろう』
そう書きのこした堅人のことを拒絶した自分を、きっと恨んでいると思った。それほどの愛を拒み、集一を愛した自分を。
結架は声もなく泣き出した。みどりをおびた茶色の瞳が溺れそうなほどの、涙。
それは、さっきまでとは違う涙だ。
生きているあいだに妹以外の喜びを見つけられなかった堅人が、気の毒でならなかった。彼にも、結架にとっての集一のような出逢いがあれば、孤独に落ちずに すんだであろうに。
「結架くん。堅人は、もう二度と、きみのことを集一くんから引き離そうとはしないよ。そうでなければ、この数か月のあいだ今日まで姿を見せなかったはずがない。辛いかもしれないが、もう許してやれ」
「鞍木さん……」
まだ瞳には恐怖がある。
鞍木は、ずっと以前の結架に言うべきであったと思っていることを ぶつけることにした。
「きみは集一くんの幸せを願うだろう?」
結架は間髪入れずに答える。
「ええ、もちろん願うわ。いつでも、誰よりも、幸せであるように」
「だったら、そろそろ覚悟を決めるんだ。これからさき、集一くんと一緒に幸せになるために、自分であろうと誰であろうと、闘うことも辞さない、というくらいの強い心で」
はっと息をのみ、結架は大きな瞳で鞍木を見つめた。
数秒間、呼吸も忘れ、なにが決して譲れないものであるのかを改めて思い起こしているのが、手にとるように解る。
やがて迎えた、そのとき。鞍木が結架と出会ってから今日まで、ずっと彼女の全身を覆っていた、弱々しげで儚げな空気が、変化した。消え去ったわけではない。しかし、そこに どれほど湾曲しようとも切断されることはないという
結架は沈黙の中にも、ゆっくりと頷いた。そして、兄のために尽きるまで流しつづけた。今度こそ本当に
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