第8話 鞍木(3)

 戸惑う集一に、鞍木は微笑みを絶やさない。

「正確には、結架くんの救い主になろうとしている男がいると、知っていた。そう、結架くんがスカルパ教授のもとから帰国してきたときから」

 しかし、鞍木は集一が昔から結架を知っていると語ったとき、驚いていたはずだ。

 集一は返す言葉を思いつかない。

「じつはね、堅人に、スカルパ教授を結架くんの師として紹介したのは、おれの母なんだよ」

 鞍木の母、詩甫しほは、結架の母と同じ音楽学校の出身で、若いころにスカルパ教授にも短期間ながら師事したことがあった。そうしたことから教授が引退していることも耳に入れていた彼女は、堅人に彼のことを教えたのだ。

「まあ、崇人さんの知人でもあったんだが。スカルパ教授のことを母から聞いて、堅人は彼に決めたのだと言っていた。教授にとっては、崇人さんの名前のほうが響いたらしいが」

 幸いなことに、スカルパ教授は詩甫のことを憶えていた。そして、留学中の兄妹の様子を見に来たとき、教授と話す機会があった彼女は、シューという少年の話を知らされたのだ。

「母は、シオンと教授に呼ばれていたけどね」

 思わず、集一の唇に笑みが浮かんだ。

 やはりスカルパ教授は、日本人の名前は本名に近い響きで覚えるようだった。

 結架のことを案じている詩甫の話しぶりから、そして、弟子だったころの彼女の人柄に対する信頼から、二人を助けるようにと願ったのだろう。スカルパ教授は、詩甫に、結架にとってシューがどういった存在なのか、またシューにとって結架がどういった存在なのか、彼が知る、ほぼすべてを語ったのだという。

「二人が恋愛関係になるのか、友人関係になるのか、それは分からない。でも、得がたい絆となるだろう。二人には響きあうものがある。堅人では望めないものがある。そう教授は言ったそうだ。だから、母は教授が倒れられたのを知ったとき、結架くんを閉じこめていた堅人を説得して、彼女をヴェネツィアに連れて行った。うまくすれば、きみとの再会が望めるかもしれない。それで父が堅人の仕事をうまく調整して、結架くんを、母と二人で行かせた」

「……そうだったのですか」

 集一は教授が亡くなって、しばらくは、その事実を知らなかった。だから、当時は結架には会えなかったのだが。

「そのとき、母はラウラ先生にも話をしたと言っていた。いつか結架くんが自立することが出来たら、必ず、ラウラ先生に連絡をする約束をしたそうだ。きみと逢わせるために」

「えっ……」

「それから、もうひとつ。ミスター・カッラッチだ」

 思いがけない名前に、集一は声も出ない。

「彼は瑠璃架さんと知己でね。たぶん、アレティーノさんを彼女に紹介したのも、彼ではないかと思う。

 そして、ずっと結架くんを心配していてくれた。まあ、どこまでの事情を彼が知っているのかは、おれには分からないが。昔から、彼は、おれたち家族に結架くんの現況を尋ねる連絡をしてきていた。きみの要請は彼にとって最高の好機であり、天啓にも思えただろう」

「カッラッチさんが……」

 鞍木が頷く。

「そう。そんなふうにね、昔から、結架くんを大切に思う人間は、みんな、きみという人物を、たとえ詳しくは知らなくても、待ち望んでいたんだよ。おれだけじゃない。だから、ありがとう、集一くん。結架くんと再会してくれて」

 集一は両手のひらを鞍木に向けた。とても、受けとるだけでは済まない言葉の数々だった。

「こちらこそ、ありがとうございます。僕のことを、そんなに信じてくださっていたなんて……驚きました」

 声を立てて鞍木は笑った。

「きみを前にした結架くんを見たら、誰だって、きみを信じるだろう。あの、他人を寄せつけなかった結架くんが、きみには近づいていった。きみだけはたすけたいと願った。ピアノを取り戻したのも、きみのおかげだ」

 穏やかで柔らかな微笑を鞍木は浮かべた。

「抑圧されて歪んでいた彼女が、まっすぐに戻った。きみが、そうしてくれた。自信を持ってくれ、集一くん。あの子には、最初から、きみしかいない」

「鞍木さん……」

「これからも、彼女のそばで、彼女のことを支えてくれるね」

「はい。勿論です」

 穏やかな表情をした鞍木に、集一は力強く頷いて見せた。

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