第1話 激震

 ──わたしを忘れて

 どれだけの痛みに耐えながら、そう文字を記したのか。書き始めこそ滲んで太いインクであっても全体的な線の細さは弱々しく、それでも揺るがぬ決意を乗せた筆致は一画一画すべてに迷いがなくて、美しい。

 一体どんな悲痛が?

 目覚めた朝にも、出かけるときにも疑わなかった幸せ。それが、気づかぬうちに予測しようもない脅威に晒されていたのか。やっとの思いで常日頃とすることができた、変わりない穏やかな一日の始まりだったというのに。

 だが、ふと思うのは、前夜に視た夢。

 懐かしい夢だった。

 彼女と初めて出逢った場所。ヴェネツィア音楽院。

 ともに過ごした短くも濃密な時間。

 響かせ合った妙なる調和の歌声と、そこに確かにあった救済。

 その記憶は、思い起こせば、今も鮮やかに甦る。

 それなのに。

 何故、忘れていたのだろう。

 肝心肝要なこと。

 あのときから、結架は不意に集一のもとから去ろうとしてしまう。前触れさえなく。

 でも、もう、そんなことは二度と ありえないと。

 そう思っていた。

 結架を外界から隔絶させてまで己だけの傍に縛ろうとした堅人は、死んだのだから。

 遺された呪いのような記憶も、それに伴う痛ましい悲哀や恐れも、消せはしなくとも薄れさせることなら出来ると考えていた。

 けれど。

 思い返せば最初から、彼女は、いつだって、自らを省みないほどに集一を守ろうとしていた。集一だけを。己の全てを粗略ぞんざいに扱って。

 耳もとで囁かれた愛らしくも清澄で深刻な言葉。

「安心して。絶対に、あなたを守るわ」

 ──なにから?

 微笑みと沈黙で返して、それを胸のうちに納めたまま、音楽院の天使は去った。記憶の共有者であるスカルパ教授も亡くなった。それでも。時間をかけて努力と忍耐を重ねた末に手に入れた幸福が。

 唯一にして最大の脅威であった堅人が永遠に結架のもとを離れても油断することなく、もう絶対に誰にも壊させないと決めた彼女との生活が。

 結架自身の手で失われるなど。

 信じられなかった。

 あの日々の結架の怯えを生じさせたのが堅人であったことは最早疑いようもない。

 結架を堅人から引き離す恐れのある人間を例外なく排除していた彼の罪までは知らなくとも、日々の威圧を脅威には感じていただろう。不運を避けられなくとも、苦難から遠ざけることは出来る。それが、守るということであったとしたら。蛇の前で瀕死の演技をする親鳥のように危険の目を引きつける言行に努め続けていたのだとしたら。

 そんな苦患くげんを、遠い過去に手放せていた。はずだった。

 今日という日の朝、彼女から離れて外出するときにも。

 明るく穏やかな未来を、現在と密接に確かに繋げられていた。

「じゃあ、行ってくるよ」

「行ってらっしゃい。どうか、気をつけて」

「ありがとう。夕方には帰るよ」

「日が落ちる前に?」

 寂寞せきばくを隠そうとする明朗な口調でも、瞳には、ありありと それが浮かんでいて。思わず笑んでしまった。

「そう、星が見えるより前にね」

 触れる指と唇が離れるのを惜しみつつ。

 そう言葉を交わして出かけたのに。

 帰宅した集一を迎えたのは、沈黙の闇に包まれた、今朝までの安息の家だった。

 知らぬうちに息絶えていた幸福?

 全身を氷の針が無数に襲う恐怖と痛み。

 失いかけた、あのときに感じたのと同じ魂の激しい揺れ。立っていられないほどの。

「わたしを忘れて」

 その書き置きを残して、集一の最愛である結架が消えた。

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