第3話 集一(6)
「集一くん……!」
トリーノに向かっているはずの、集一だった。それから、その後ろには、鞍木もいる。
彼は大理石の彫像のように感情の
彼は細い首筋に唇を寄せ、その瑞々しく甘い薫りを胸に充ちるまで吸いこみ、小さく囁く。
「やっと逢えた、結架」
「だ……」
彼女の顔を見ようと集一が身体を少し離した隙に、結架は飛びすさった。
「だめ! 私に触れないで。私を見ないで。もう、以前の私とは違うの!」
彼女は玄関に飛びだそうとしたが、扉の前に立ちはだかるラッファエッラに阻まれた。イタリア語で彼女は叫んだ。
「お願い、行かせて!」
悲しげな表情をしたラッファエッラは、しかし頭を振る。
「ユイカ。気持ちはわかるけれど、事実を隠しても、誰も幸せには なれないわ。彼に打ちあけて おあげなさい」
「できないわ!」
みどりをおびた茶色の瞳が、苦痛に潤んだ。
「知られたくない。こんな私は、いや。だめなの。もう、過去と一緒には いられないわ」
「結架くん……」
鞍木は、ひと月前の再現を、悪夢を見るかのような気持ちで見守った。
小さな声で、アレティーノが彼女の言葉を日本語にして集一に聞かせる。彼は、痛みに耐える表情で聞いた。
「結架。一箇月前にも、おなじような言葉を聞いた。でも僕は言ったはずだ。どんな きみでも、僕には必要なんだと。僕から、きみを奪わないでくれ」
結架は無意識に日本語を使う。
「だめ。だめなの。あのときは……あのときすら、
もう一度、彼女を抱きしめようとする集一の腕から、身をよじって結架は逃れた。
「結架」
「だめ」
逃げ道を探す結架の瞳に常軌を逸したものを感じたアレティーノは、集一の肩をつかんだ。
「待ってくれ、集一くん。追いつめては だめだ。あの子は、今は、ふつうじゃない」
「どういうことです?」
「やめて!」
悲鳴が迸った。
「お願い、もう放っておいて。私を忘れて」
その言葉に、集一は考える前に叫ぶ。
「無理だ、結架!」
「だって!」
彼女は涙にぬれ、集一を睨んだ。はじめて見る攻撃的な結架の表情。集一は絶句した。信じられない。結架が、こんなに荒んだ瞳で彼を見るとは。
ただ、それは一瞬のことだった。
すぐに彼女は顔を背け、絶望を押し殺そうと両目を閉じた。しかし、僅かな時間で意を決すると目を開く。
集一を見上げ、処刑台に立つ無実の罪人のように清らかな まなざしを向ける。覚悟を決めた彼女は誰よりも強く、けれど儚げに見えた。
墜落を受けいれた天使。
受胎した天使は聖母になれるのか?
その子が、罪の子であっても。
恐ろしい禁忌の子であっても。
「わたし、身ごもっているの。兄の子を」
短く、静かな口調。しかし、それは集一の全身を刺し貫いた。そして鞍木の心も。
彼は衝撃に、立ちつくす。
「だから、あなたまで穢したくないの。──ラッファエッラ」
結架はイタリア語で、同じ言葉を発した。
ラッファエッラが両手で自分の口を覆い、アレティーノは拳を握って
結架の兄が自殺したことはラッファエッラも聞かされていた。しかし、その裏に、これほど悲しい出来事があったとは。
鞍木が結架に近づく。
「待ってくれ、結架くん。堅人は遺書で、きみを穢していないと書き残していた。きみには意識がなかった。恐らく薬で眠らされていたんだろう。だったら、その子は」
「兄のベッドで目覚めてからのわたしは、集一と愛し合うことまで恐れるようになったの」
「だとしても、堅人では ないはずだ」
「ほかに、ありえない」
結架の声が闇に染まる。
「お願い。わかって。あなたと一緒にいられない。あなたを愛することも、もう許されないわ。あなたの記憶の中の私まで穢されたくなかった。だから黙って、姿を消したの。でも、もう……なにもかも終わり……でも、いいの。私、死なないわ。死ねないの。この子まで、まきぞえには出来ない。何も知らないのだもの」
集一は、さまざまな感情が渦巻いて全身をかけめぐるのを感じた。堅人への激しい憎悪、自分への呪わしいほどの後悔と非難。しかし、その中心にあるのは、変わらない。
「結架」
ただ、ただ彼女を求めている。
「その子は僕の子だ」
あえて、彼は英語をつかった。この場の全員に、内容を理解してほしくて。
「……え?」
結架の表情が かたまる。
「きみは勘違いしている。その子は、僕の子なんだよ」
「うそよ!」
結架も英語で応えた。
「だって、わたしたちは」
その言葉を遮り、集一が断固とした声で続ける。
「きみの屋敷に初めて泊まった日に。僕が日本に帰国した後だよ。思いだせなくても無理はない。あの後、すぐ、きみは お兄さんに……。だから、きっと心が耐えきれずに、連想させるようなことは総て思いだせなくなったに違いない。僕とのことも」
はっきりと淀みなく告げる、彼の声に、結架の目は揺れた。
「で……も……それが本当でも、もし」
「──結架くん、それは、ありえない。堅人は」
鞍木は一瞬で心を決めた。
「彼は生殖機能に障碍があったはずだ。いちどだけ聞いたことがある。仮に堅人が きみを辱めていたとしても子どもは できない。それに、彼と きみは異母兄妹だよ。瑠璃架さんは崇人さんの二人目の奥さんだ」
「いや、異母兄妹でもない」
それまで黙っていたアレティーノが口にした、断定的な発言が、さらに結架を混乱させる。
「結架は、わたしと瑠璃架の娘だ」
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