第9話 マルガリータ(3)

「マルガリータ、私……」

 そろそろ寝台で休みましょうかと言った彼女の肩に額を傾けた結架が、掠れた声で ぽつりぽつりと打ち明け始めた過去の辛い体験を聞き進めていけばいくほどに。純真で無垢な結架の身に起きたとは信じたくないような出来事に怒りと哀しみが胸に渦巻く。どうしようもなかったでは片づけられない。今となっては、よくぞ生きていてくれたと誉めるほかない。しかし、結架は緩やかに首を横に振った。

「とても身勝手なの。現実が悪夢と思うほど酷い記憶でも、もう終わったことだと思わせてくれる集一が、私を必要としてくれる限り、生きるのに幸せを感じられたわ。そうしたら、そのあいだは、彼を幸せにするためだけでなく、私も幸せを望んでいいと許されていた。

 でも、兄の子が存在するなら、私は永遠に我が身の穢らわしさを見ないよう目を閉じてはいられない。この悍ましい身の上にあって集一の隣で生きていくだなんて耐えられっこない。母親として子どもを守りながらなんて、無理だわ。出来なかった。でも、だからといって、殺すなんて。罪は兄と私にあるのに。子どもにだけ負わせて厄介払いしたとして、それは私の穢れを一層に濃くするだけ。あのときの私に、選択肢なんて無かったわ」

 自らを責めるときは淀みなく言葉を発するさまが、いじらしくも腹立たしくもある。けれど、そんな彼女が愛おしい。

 マルガリータの手が優しく結架の髪を撫でる。

「それで姿を消したのね」

「どうするつもりだったか、具体的な考えが有ったわけではないの。でも、集一に、彼にだけは知られたくなかった。それだけは無理だったの」

 彼に知られることから逃げるには、彼そのものから逃げ出すしかなかった。そして。

「あなた、行き倒れるなら、それはそれで好都合だと思っていたでしょう」

 一瞬よりも短い間、結架が息を止めた。

 それから吐息を放ち、

「マルガリータには何ひとつ隠せないわね」

 誤魔化しなど通用しないと全身から発している彼女の佇まいに、怒りよりも嘆きを感じとる。

「客死なら諦めもつくだろうとでも?」

 囁く声に感情は窺えない。

 けれど、瞳を見たら。

 そこに浮かぶものに怯むだろう。判っていて結架は目を伏せる。

「不幸な事故死。あるいは不運な犠牲者。そうなれる確率の高い方向に行けるなら、却って望ましかったの。殺せなくとも、殺されることなら。集一には何も関係なく。避けようもなく仕方のない結末であれば、天の配剤として」

 態と狙われようとしているかのように、寂れた裏道を歩き回ったり、排他的な空気を纏う店舗に入ってみたりもした。だが、幸か不幸か。そこに結架を害する存在は見いだせなかった。

「蛮勇が過ぎるのよ、貴女は。そんなふうに平然と自分を粗末に扱うのは赦せようもないわ」

 その声には感情がこもっていたが、叱責ではなく哀願が満ちていた。愛情深い思いやりが。

「あなたがたの親愛に すがりついてしまいそうな自分が、ひどく厚顔に思えるのよ」

「ユイカ」

 マルガリータの両手が結架の頬を挟み、目を合わせさせる。インクルージョンの閃光が煌めいて、その深みに吸い込まれそうに思えた結架は魅入られた。なんて美しい貴石エメラルド。左手の指の先だけが少し固いヴァイオリニストの手が、愛器を捧げ持つように、優しく触れる。

「もっと厚顔であればいいわ。わたしたちも、そう望むと知って頂戴。誰に どれほど陵辱されたからといって、貴女自身の尊さは変わらないのよ、わたしの可愛いユイカ。貴女を愛する、わたしやシューイチの心も、尊重してくれないかしら?」

「マルガリータ……」

 美貌が歪み、稀有な色の瞳が涙に溺れる。

「貴女なら出来るでしょう? わたしたちの愛するユイカを大切に尊んで。わたしたちは貴女のもとに幸せが集まることを知っているわ。そうしたいと望んでもいる。これからも、ずっと、いつだって、わたしたちは貴女とともに在るの。たとえ離れた場所に暮らしていても」

 そっと抱きしめると、震える吐息が重荷を下ろしていくのが聞こえた。

「……ありがとう。あなたは私の、祝福の天使ね」

 思わずマルガリータは小さく笑う。

「わたしを天使と評価してくれるのは、ユイカ、貴女だけよ。だって、わたしは、好きだと思った相手にしか、優しくなんて出来ないもの。実はね、レーシェンのほうが、余程、他人ひとに対して寛容で慈悲深いのよ。嫌いな相手にも、そうと悟らせないほどにね。凄いわよね、ほんと。見習いたいとは思わないし、思っても出来っこないけど!」

 くすくす笑う声につられて、結架も微かに笑った。

「おまけにカルミレッリなんかは、わたしを魔女シュトリーガと呼んで憚らないのよ。失礼極まりないったらないわ」

 あの輝かしい日々が、目蓋の内に甦る。

「ユイカ。貴女が望むなら。いつだって、わたしたちは手を貸さずには居られないのよ。貴女の幸せのためにね」

「マルガリータ……」

「心が痛んで希望を失いそうなときにも、わたしたちのことだけは忘れないで。貴女を独りにはしないわ。そんなことは許さない。孤独は夢想のためにだけ使って。そうでないときは、わたしたちを頼って頂戴」

 懐かしい日々に与えられたものと変わらないマルガリータの温もりが、結架の心に刻まれた深い傷を包み、冷たい空気から遮断して、少しでも癒えるようにと振動を伝えてくる。愛と呼ばうる生命力エネルギー。それは、譬え遠く離れていようと、鮮明に思い出すだけで、何度でも相手を救うほどの力を持ち得ていた。世界までも支えられるほどに。

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