第7話 堅人(3)
「結架」
目を見開いて、声のしたほうを見た。
看護師や、医師。
おおぜいの母親。母親。母親たち。
廊下にも、階段にも、たくさんいる。
けれど、たったひとり。
長い階段の上に、そのひとは立っていた。
黒い髪。瞳。青白い、こけた頬。
その両眼に憐れみと、怒りと、愛情が、混然としている。
「お に い さ ま──?」
時間が、いつもの数倍も遅れて流れるようだった。
感情を抑えた視線をそらし、彼は階段の上に姿を消す。
「まって……っ」
考えるよりも前に、結架は立ち上がっていた。
生きているはずがない。
それでも、あとを追った。
幻覚であるなら、それを確かめたかった。二度と現れることのないように。探して、見つからなければ、ただの幻。結架にだけ見える幽霊。それは、怖れる必要などない。
もしも、実体だとしたら?
決着をつけなければ。
「待って、お兄さま!」
手すりを右手で掴み、結架は階段をのぼる。
しかし、降りてこようとする妊婦がいたので、ぶつからないよう避けるために手すりから離れた。その瞬間。
「あっ」
小さな、喉が鳴るような悲鳴。
結架が避けた妊婦が、前のめりになった。
「だめ!」
反射的に、結架は両手を差しのべていた。しかし、届かない。その女性は必死に両手で手すりを掴む。その肩が、大きく揺れて、結架の伸ばした腕をはらいのけるかのようにぶつかる。
「え──?」
天井が視界いっぱいに広がり、結架は宙に浮いた。
「ああっ!」
誰かの叫び声。
手すりの向こうに兄の顔が見えた。こちらを見下ろし、悲痛に歪んだ、潤んだ瞳。はじめて見る、絶望の表情。
「おにいさま……?」
──何故、そんなに悲しい顔をなさるの?
一度も、そんなふうに結架を見つめたことはなかったというのに。
背中に激痛がはしり、漸く結架は何が起きているのかを理解した。階段を転げ落ちている。肩に、頭に、肘に、腿に、膝に、踵に。次々と全身に衝撃が襲う。
「結架!」
集一の声。
悲鳴。医師の叫ぶ声。看護師の駆け寄ってくる足音。
全身を、ひどい痛みが貫いている。下腹部は破れそうなほどに痛み、熱いほどだ。視界が暗くなる中、結架は声を絞った。
「いや……いや……! 助けて。だめ、お願いっ」
恐怖の海に投げこまれたような、圧倒的な孤立感。ただ、沈みゆくしかない、すべての望みも絶えたという感覚。
「いや、集一……!」
両頬を涙が濡らしていく。
「結架!」
駆けつけた集一は絶句した。
結架の足元は血だまりが出来ていた。
「どいてください! すぐに処置室、いや、手術室に!」
あっという間に看護師が結架を囲み、集一を引き離して、彼女をストレッチャーに乗せた。
乱れた呼吸と、必死に息をしようとする喘ぎが、苦痛を訴えている。
まさか、まさか、という言葉だけしか、声にならなかった。
集一は階段の上を見上げる。しゃがみこんだ、蒼白で、呆然としている女性。彼女の肩を抱いている男性。
その向こうに、何人かの妊婦と、彼女らの夫たち。
集一は階段を駆け上がった。その上は母親教室を開催している、広い部屋しかない。そこに飛び込む。だが、探す人物は見つからなかった。
上がってきた階段のほかに、集一の目を避けて姿を消せる道はない。彼は大きく息を吐いた。
やはり、ありえないことだ。
堅人は亡くなったのだから。
そこに看護師がやってきた。
「ムッシュー、こちらに。奥様の状況を、お話しします。詳しくは医師から説明しますから」
「わかりました」
集一は頷き、彼女について歩き出す。階段の途中にいた女性は、もう、そこにいない。しかし、いまの集一には、気にならなかった。
ほんの数分前。フランスでの医療保険の申請に関する書類についての説明を受け、いくつかに署名をして戻ると、結架の姿が見当たらなかった。胸騒ぎがして、あたりを見回した、まさにそのとき。悲鳴が聞こえた。そして、階段を転がり落ちる結架を見たのだ。
「どうして」
結架は動かないと約束した。彼女は簡単に集一との決め事を破ることなどしない。よほどのことがないかぎり。
堅人の幻を見たと言っていた、結架。
それを、また見たのだろうか。
集一は唇をかむ。
やはり、離れるのではなかった。
せめてこの不吉な予感が消えるまで。
看護師は別棟に集一を案内し、個室に招いて待つようにと告げた。じりじりとした思いで待っていると、二時間ほどして、扉が開いた。
「ムッシュー」
厳しい顔をした医師の後ろから、意識のない結架が運ばれてくる。
「麻酔が効いていて、あと一時間ほどは目を覚まさないでしょう。そのあいだに、ご説明しましょう」
「はい」
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