神の粋狂(一)
夢二はしばらく、しがみついて泣く私を抱きしめ撫でてくれた。
「落ち着いたか」
気まずいです。
落ち着いたとは思う。落ち着いた。かなり冷静になった。この状況に気まずさを感じる程度には。
ほぼ見ず知らずの男性にしがみついて号泣した、という事実を客観視できるぐらいには落ち着いた。
こういう場合、どういうタイミングで顔を上げるのが正解なんだろう。
すごく密着している。隙間がないぐらい。
他でもない私が夢二にしがみついてるせいだけど。
やばい、夢二の着物がぐっしょりと濡れている気がする。見えないけど、わかる。原因は涙とか鼻水とか、私から出た汁です。
変な汗が滲み始めた私の背に夢二の手がある。
背中のその手はそのままで、夢二の首に回していた私の左手に何かが触れた。
やんわりと解かれた左手、手首をひんやりと、夢二の冷たい指が撫でる。
「良い色だ」
何が、と思いながら、捕まれた手首を見る。
見えない。
何も見えない。でも、記憶の中にある自分の左手が見えた気がした。
あの白い組紐。トキヒト様が手首に巻いてくれた、あの組紐である。
白い糸をベースにして、藍色の糸と金糸が編み込まれている。
気付いた瞬間に、ぶわっと汗が噴き出た。
「実に、美しい色をしておる。そなたもそう思うであろう?」
咄嗟に距離を取ろうとした私の身体は、夢二にがっちりと抑え込まれていた。
抱き着いた状態の私の頬には、夢二の長い髪が触れている。絹のように光沢のある白い髪が。
記憶の中で鮮明な、最初に見た夢二の着物の色。
着崩した衿や袖から除く藍色、それを包む白い着物。
印象的な瞳は、明るい金の色をしていた。
美しい、そう、かもしれない。そうだったように思う。
「ソウ、デスネ」
急に、ものすごく恥ずかしい。
「そうかそうか。そんなにか」
誤解がある気がする。
なんだろう、なんでこんな浮かれた感じで、仕方ないなあ! みたいな雰囲気なんだろう。
なぜも何もない気がするけど、なぜって言っていたい。
「愛い!」
ウイ……?
「我が色を身に着けようなど本来であれば無礼千万と咎めるところではあるが、まあなんともいじらしい行いではないか。そうかそうか。愛い愛い」
困惑する私を置き去りにして、何かが展開していく。
その夢二の声が、僅かに低くなった。
「その愛い娘にこのような無体な真似をなあ……到底、捨ておけるものではないのう……」
なんか剣呑な、気配がする。物騒な感じがする。
「あ、あの、夢二」
呼びかけには応えることなく、夢二が立ち上がった。片腕に、私をのせて。
夢二の左腕に、私が腰かけている状態である。
ちなみに私は別にモデル体型とかではない。普通に重いと思う。
危うさはなぜか感じないけど、落とされたら、と思ってしまう。
思わずしがみつけば、それをまたふふ、と笑われた。
「落としたりはせぬが、まあそのまま掴まっておるがよい。その方が我のやる気も出る」
私には殆ど見えない暗闇の中、夢二は躊躇なく歩き出し、すぐに足を止めた。
暗闇に、みし、と軋むような音が響いた。
ぎいいいいいいい、と不吉な感じの音がして、何かが倒れるような轟音と、床の振動が伝わってくる。
私の頭を夢二がもう一方の手で守るように抱き寄せ肩に押し付けた。
その私の頭の中は疑問符でいっぱいである。
なにいまの。何が起こったの。え、そういう仕組み? 扉の開閉? そんな豪快な音がする開閉ある?
トキヒト様が出ていったときはほぼ無音だったよ?
なんかものすごいしっかりした造りの重量感あるものが倒れた感じがしましたよ。壊れた風な印象の。
肩に私の顔を押し付け抑えたまま、夢二が歩き出す。
少し行くと、今度は階段を上り始めた。
「まだ伏せておれ。屑が舞う」
なんの。
反射的に湧いた疑問は声に出さず、言われた通り、頭は伏せたままにした。
その直後、何かが破裂するような音がする。
「まったく。我を地下へなど行かせおって」
周囲の空気が、変わった。外の空気だ。
風が吹いている。遠くで虫が鳴いている。
顔を上げれば、夜空にはまるい月が浮いていた。
月明かりに照らされて、周囲に建物が見える。
たぶんここは御所の敷地内なのだろう。
暗闇に慣れた目に、月の光が眩しい。眩しすぎて痛い。
「さて」
眩しさから目を反らし視線を下にやると、夢二の足元には大量の木屑が散らばっていた。
疑問に思い視線を移動させると、夢二の背後には蔵のような建物が立っている。
たぶん、この中に閉じ込められていたのだろう。
夢二の言葉からすると、この建物の地下に。
扉はなく、入口らしき部分はぽっかりと四角い穴が開いたようになっている。
夢二の足元には大量の木屑。ちょうど、この蔵っぽい建物の扉にぴったりな量に見える。
まるで、何かがあって木製の扉が粉砕されたような。
「サラ」
名前を呼ばれて顔を上げると、ものすごい至近距離で夢二と目が合った。
夢二が私を見る。
その表情に鼓動が跳ねた。
瞳が不思議な金の色をしている。髪と同じ色の睫毛が長い。改めて見ても、ものすごい綺麗な顔だ。
「大丈夫だ。もう決して、そなたを危険な目には合わさぬ」
うっとりと微笑む、その表情は甘く、金の瞳は蜜のようにとろけている。
「夢二……」
ちょっと、待って欲しい。
いや、わかる。
なんか気分が盛り上がる雰囲気はあった気がする。
吊り橋効果的な、なんかそういうのが発動する条件は揃っていたような気がする。
でもそれは、私の方を向いて発動してなかっただろうか。
なぜ、助けた側の夢二がそんな顔するのだろう。
困惑を通り越し混乱する私の前で、ふいに夢二の表情がすっぽりと抜け落ちた。
夢二が私から視線を外す。
その無表情を向ける先には、見覚えのある姿があった。
暗い色の着物を着た男性が三人。
顔は見えない。
この世界に迷い込んだ私を、御所へ、トキヒト様の元へと連れて来た人たちだ。
三人が同じタイミングで、共に腰の刀に手を掛けた。
「無粋な。今良いところであったろうが」
呟く夢二に向けられたのは、月下に煌めく白刃である。
それは、暴力的な行いをするのためのもの。人を傷つけ、害する、損なうためのもの。
三振りの刀が、夢二と、夢二が抱えている私へと向けられた。
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