波の下の国(三)

 異界、と言われてもピンとこなかったわけだけど。


 ふと見上げた空に、白くてにょろっとしたものを見た。


 はるか上空にあるらしいその姿に、少し離れたところにいた通りすがりの着物姿のひとが、ぽつりと口にした言葉が聴こえてきてしまった。


「龍神様だ」


 そう呟いて手を合わせている。上空の何かを拝むその姿を見て、再び顔を上げ目を凝らす。


 言われてから見れば、それは確かに龍に見えた。

 鳥でも飛行機でもない。白く長い身体に、四肢が付いている気がする。


 優雅に空を泳ぐその姿は、現実ではあり得ない。


 景観指定区域というにはあまりにも時代がかっている景色の中で見た、龍の姿。

 舗装されていない道、連なる土壁。全てが平屋の木造の建物。着物を着た人たちが道行く私を物珍しそうに眺め、牛や馬を連れていた。


 ここは、龍がいる異界らしい。





 屋外と屋内の境界が曖昧な、いかにも日本建築な座敷に案内された。背後で雀が鳴いている。


 ここはみやこと呼ばれる場所なのだそうだ。

 眠る龍が見ている夢の世界、と教えられた。


 さっき空に龍がいるのを見た、と言えば「ああ、龍神様ですね」とさらっと言われた。

 龍神様とは、どうやらお馴染みの存在らしい。


 起きてたようですが、と思ったけどなんかもう突っ込む気力も湧かない。


 異界とか異世界とか、そう思って貰って構わないそうだ。私は構う。


 ちょっと全体的に何を言っているのかわからない。


 その夢の世界に、時折現実世界から紛れ込んでしまう人がいて、その迷子の人を『稀人まれびと』と呼ぶのだとか。


 都を治めるみかどは、ごく稀に外の世界からやってくる稀人を、毎回必ず保護しているらしい。


 都で、帝。

 実は先ほど町並みの中で五重塔らしき、一際高い建物を見ている。


 真実はいつもなんちゃらという気分で「本当は京都では?」と尋ねたが「違います」との回答を得た。


 そもそもの前提の話が理解できていないが、稀人のあたりについてはなんとなく分かった。

 迷い人を稀人と呼んでいて、その稀人を帝が保護する。うん、それは分かった。


 ちなみに私もその『稀人まれびと』らしい。


 眠る龍とか、龍が見ている夢とか、夢の世界とか、単語は分かる。単語以外はよく分からないけど。

 ただ、聞き直して再度説明されたところで理解できるとも思えなかった。


 壮大なドッキリ、という線もまだ捨てきれない。捨てたくない。


 そういうもの、ということにしておこう。


「……そうですか」


 諸々の説明をしてくれた人に、曖昧な営業スマイルで微笑んで見せる。

 畳の部屋で向かい合い説明してくれたその人も、そんな私に釣られるように笑みを深めた。


「お分かりいただけたようで何よりです」


 いえ、全然分かってないです。


 と、心の中で言ってみる。

 私の正面、部屋の上座に座るその人は、ただ穏やかそうな笑みを湛えている。

 その人、トキヒト様は。


 このトキヒト様こそが、都を治める帝なのだそうだ。


 帝、とはこんな至近距離でお話しする方なのか、随分と気安いような気がするけど。

 上座でこそあるものの、同じ高さの畳の上に座っている。

 私との間に遮るものはない。

 帝って言われたらなんとなく、平安貴族みたいに御簾の向こう側にいるイメージです。


 とはいえ、纏う雰囲気は明らかに只者ではなく、おっとりと微笑んではいるがその辺のお兄さんとは確実に何かが違う。


 たぶん年齢は同年代、じゃないかと思うのだけど、夢二ゆめじと同じく雰囲気が独特でよく分からない。

 男性。黒髪に烏帽子。平安貴族みたいな白い着物を着ている。


 夢二と似たような服装だが、下に着ている着物の色が違うし、何よりトキヒト様はまったく着崩してはいない。

 そして、人形か絵画のようだった夢二に比べればいくらか現実味がある。いくらかだけど。


 トキヒト様の存在に現実味はあるけど、現実ってなんだろう……。 


 夢の世界って、それって本当に現実でしょうか。

 いや、現実世界から迷い込むことがある夢の世界なんだっけ。

 現実から、ってことはここは現実ではなくて、これは夢で現実ではない……?


 っていうか龍、起きてたし。いや、他にも龍がいるんだろうか。

 え、あんなのがほいほいいるの……?


 そもそも夢の世界ってなんだろう。

 夢って、寝てる時に見ているやつで合ってるのだろうか。それとも「夢」の定義が違うんだろうか……。


 混乱を鎮める意味も込めて、袖の下で手の甲を抓ってみる。

 ……うん、普通に痛い。痛い気がするだけとか、気のせいとかでなければ、現実のように思える。

 いや、この夢の世界が現実……?


 ぐるぐるし始めた私を見て、トキヒト様はくすりと笑った。


「焦らずゆっくりと参りましょう。追々理解なさいませ」


 追々理解できる気もまったくしませんが、とりあえず神妙に頷いておいた。


 今、私は都にある御所ごしょというところにいる。

 鳥居のない神社のような雰囲気、と言えばよいのだろうか。


 御所は、先ほど歩いた町並に比べてとても綺麗だ。手入れが行き届き、厳かな雰囲気があり、人気ひとけがない。

 営業先でいきなり社長室に通されたぐらいの緊張感を煽ってくる雰囲気。


 濡れた服に代わり着替えで用意された着物は、肌触りがすごくいい。とても高価そうだ。

 白い着物と、赤い袴。その上に華やかな柄の着物を着せてもらった。若草色の着物はとても綺麗だ。ずっと見てられる気がする。


 着付けをしてくれた女性二人は、揃って足の先が出てない長袴に、見るからに重そうな十二単だと思われるものを着ていた。

 もし私が着せてもらったのもそれだったら、その場から一歩も動けなくなってたと思う。


 私が着せてもらった袴は足首までだし、上に着る着物はそこまで多くない。

 これならむしろ、綺麗な着物が着られてちょっとだけ嬉しい気持ち、と思えないこともない。


 ただ……うん。いや、わかる。この世界観で下着という概念がないのはなんとなくわかる。でも、現代人としては、とても心許ない気持ちです。


 異世界で、なんかすごい綺麗で豪華な着物を着せてもらって、一番偉い人を前にして、パンツのこと考えてるのもどうかと思うけど、差し迫った問題としてノーパンはわりと気になる。


 ……いや、うん。本当は気付いてるけど。

 この思考は現実逃避だと思う。

 たぶん私が本当に気にしていることは、パンツでもこの状況でもない。いや、パンツは気になるけど。


 もし、この夢の世界が現実なら。

 もし、これが壮大なドッキリではなく、本当に異世界なら。


「戻られるまでの短い間ではございましょうが、どうかごゆるりと過ごされますよう。何か不具合がございますれば、何なりとお申し付けくださいませ」


 トキヒト様のその言葉に、半ば呆然とその微笑む顔を見返した。


「………………も」


「ええ」


「もど、れる?」


「ええ」


 力が、抜けた。

 偉い人の前だというのに、畳の上に、べっちょりと崩れた。


 それこそ、パンツよりも気になっていて、怖くて聞けなかったことです。


「もどれるんだ……!?」


「望まれるのであれば、もちろん」


「よかっ……たぁ……」


 私が吐いた深い溜息に合わせるように、背後から現れた女性が畳の上に茶碗を置いた。

 無言のまま置かれた真っ白な陶器の茶碗。中身はたぶんお茶だと思う。


 長袴を履き十二単を引きずっているのにほとんど音を立てずに近付いてきたその女性は、着付けをしてくれた二人のうちの一人だと思う。

 白い無地の布で隠しているため、顔は見えない。


「ありがとう、ございます」


 戸惑いつつも、頭を下げるが無反応。

 いや、顔を隠しているので無反応かどうかも分からないけど。布と顔の隙間から見える顔の表面はミリも動かなかったと思う。


 まあいいよ。ちょっと怖いかもってさっきまで思ってたけど、元の世界に戻れるんだし。

 ここがどこでもいい。

 あくまで一時的な滞在。戻れる。大丈夫。


 それに、トキヒト様は優しそうだし。話が分かる人っぽいし。


「短い間ですが、お世話になります」


 下げた頭に、トキヒト様が頷いた。


「ここにおられる間は、この者ともう一人、女房にょうぼうである二人がお世話致します。なるだけご不便がないよう計らいますゆえ、ご遠慮などなさいませぬよう」


 トキヒト様が、穏やかに微笑んだ。


「さ、お茶をどうぞ」

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