波の下にてまどろむ龍の 夢の国
ヨシコ
波の下の国(一)
水面にのぼっていく泡を見た。
キラキラと光る陽の光。水面の向こう側で白く輝く太陽が眩しい。
深い海の青に満たされる。
水が音を吸い込んで、無音となった世界に沈んでいく。
曖昧になっていく感覚の中で、海の底からこちらを見る、何かの視線を感じたような気がした。
◇
視界いっぱいに広がる空が青い。
たぶん寝ていたんだと思う。
覚醒し開いた目に映ったのは、海の青よりも薄く、晴れ渡り澄んだ空の色だ。
顔の横では雑草みたいな草がそよそよと揺れ、背中に感じるのは草地の柔らかさ。
自然の匂いがする。
小川のせせらぎと、連なって飛ぶ小鳥たちの鳴き声という完璧なBGM。
寒くもなく暑くもなく時折吹く風が心地良い。
昼寝には絶好のロケーションである。
疲れた社会人の心に沁みわたる。
納品日とかコストとか無茶ばっかり言うクライアントとか話のわからない上司とか、現実の全てがどうでも良くなる日和だ。
服が濡れているのすらどうでもいい気がしてきた。
……いや、どうかな。
服が濡れて皮膚にまとわりついているのはわりと気分がよろしくないかも。
あ、自覚したらどんどん不快な気がしてきた。
っていうか、なんで全身こんなずぶ濡れで地面に転がってるんだっけ……?
「目が覚めたか」
直ぐ近くで、男性の声がした。
地面に寝転がったまま、声がした方に顔を向ける。
「大事はないか」
隣に、心臓が止まりそうなほどものすごい綺麗な顔の男性が座っていた。
歳、は雰囲気が独特過ぎてよく判らないけど、二十六歳の私よりも年下ということはないと思う。たぶんだけど。
腰まである長い髪は白く、肌も陶器のように白い。その色のせいか、纏う雰囲気は儚げな感じがする。今にも消え入る夢のようだ。
こちらを見下ろす長い睫毛に縁取られた切れ長の目。口元は隠されていて見えないが、顔半分で十分だった。
絵画のような、溜息が出そうなぐらい綺麗な男の人が顔をこちらに向けている。
平安貴族のような着物姿で。
オプション扇付き。
手にした扇で、ドラマか映画で見た平安貴族のように口元を隠している。ほっほっほって笑いそう。
コスプレだろうか。それともどっかの神社の神主さんだろうか。
その髪は、ウィッグ?
今のこの時代に普段着で通すには些か個性が強めと思われる。似合ってはいるけど。
情報が多い。
草むらでびしょ濡れで寝転がってる会社員の私だけでも十分なのに、隣に並んでいるのが平安貴族。
困惑と同時に、見ず知らずの人を前にして、無遠慮に大の字を晒している自分に急に気恥ずかしさが込み上げてきた。
上半身を起こすと、自分の残念な状態が見えてしまう。
お馴染みの仕事着、グレーのパンツスーツに黒いブラウス。ブラウスの色のおかげで下着が透け透けっていうお約束はない。
なぜかパンプスなし。裸足。
ジャケットなし。バッグもなし。バッグがないからスマホも財布も何もない。
腕時計は普段からしてない。時間もわからない。
身、ひとつ。しかもずぶ濡れ。
何があったらこういう状況になるんだろう。
「全てを見ておったわけではないが、溺れた
沸き上がる疑問に答えるかのように、平安貴族風の男性が言った。
わらし……子ども?
……ああ、そう。そうだ。
思い出した。
たまたま営業に向かう途中、約束の時間までまだ少しあると思って、河沿いの遊歩道にあるベンチに座っていた。
缶コーヒー片手に打ち合わせ書類を再確認していて、ふと流れる河の中で助けを求める子どもを見付けたのである。
周囲に他に人もいなくて、スピーカーにしたスマホに向かって所在地と状況を叫びながら、ジャケットとパンプスを脱ぎ捨てて河に入った。
春先の水はまだ冷たくて、先日まで続いていた雨で増水し流れが速かった。
……うん、そこまでは覚えている。そこまでは。
「あの
「そっか……よかった。……あ、じゃあ、もしかしてそれで今度は私が溺れて、そこをあなたが助けてくれた、ということでしょうか……?」
「まあ、そうなるかの」
これは、いけない。完全な二次被害を生み出してしまったようだ。
ちゃんと思い出せはしないが、焦って冷静に行動できていなかったのは分かる。
要反省。仕事もほっぽり出してしまったし。
かなり慌てた気がするけど、書類ちゃんとまとめて置いてきたっけな。社外秘の数字とか入れてなかったっけ。
まああの少年が助かったのなら、良しとしたいところではあるけど。
一応安堵の息を吐きながらも、座る姿勢を整え男性に向かって頭を下げた。
「助けて下さりありがとうございます」
「……本当に助けたことになるのかやや自信がないが。最近では呪いと紙一重やもしれぬと思えてきての」
頭を上げると、男性はほんの一瞬、やや困惑したような表情を浮かべたような気がした。
うん、そんな顔も絵になりますね。
じろじろ見るのは失礼と思いつつも、ついついチラチラ見てしまう。なんかこう、存在感がすごい。無視できない感じがする。
「私は
「サラ……沙羅双樹の沙羅か?」
「あ、いえ、ラは良い子の良の字です」
「それはそれは。よき名だ」
「ありがとうございます……?」
マイペースな人だな。
風が吹き、目の前で真っ白な髪が靡いた。
腰に届きそうな長い髪は、まっすぐで見るからにさらさらだ。陽光に透けて輝いて見える。すごい。
先日切ったばかりの自分の髪に思わす触れた。
ショートボブ、結構気に入ってたけど、また伸ばしてもいいかも。いや、私の髪がどれだけ伸びたところでこうはならないだろうけど。
パチンと音がして、男性が扇を閉じた。
「我に名はない。呼びたくば好きに呼ぶがよい」
「……それは、ええと……?」
どういう意味だろう。
名乗りたくない、ということだろうか。
困惑する私を見て、露になった口元がふんわりと弧を描いている。
ああやっぱり、口元も全部が、この世のものとは思えないぐらい綺麗。
思わず見惚れてしまう。本当に絵みたいな人だ。
「改めての礼など必要ない。ただの気紛れよ。忘れろ、とは言わんが、そうさな。精々家に祭壇でも拵え我を祀る程度に留めるがよい」
……変わった人だな。
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