開かずの間
宇津喜 十一
開かずの扉
扉は閉じられている。
風の音が聞こえる。
足音は聞こえない。
話し声も聞こえない。
風の音は聞こえる。
声を発しようと思って、先程から聞こえる掠れた風の音が自分から発された空気音であると気付いた。ひゅー、ひゅーと喉に引っ掛かりながら空気は行き来する。
その感覚に不快さを覚えても、止めることは出来ない。肺が潰れたみたいだ。息が吸いづらくて、いくら吸っても足りない気がして、いつか私の意識は呼吸だけに集中していた。
ここには私以外はいないのだろう。
生き物の音がない。物音一つしない静謐の中に私だけがいる。
伽藍とした小さな部屋だ。真四角の部屋の四隅には年季の入った木の柱が天井へと伸び、その天井は板で塞がれて、電灯はどこにもない。四辺の内、三つは土壁だが、残りの一つの辺には襖があった。僅かに開かれており、親指程の隙間からは光が差し込み、まるでそれから逃れるように、部屋の隅には濃い闇が溜まっていた。
古びた畳が敷かれた部屋の中心には、仏壇のような観音開きの四角い木製の箱があった。光を受けて、金属製の取っ手が鈍く光っていた。
私はその隣に横たわっていたようだった。
体を起こしながら、はてと首を傾げる。
私はいつからここで眠っていたのだか。いや、そもそもの話をするなら、ここはどこで、この箱は何で、何故私はここにいるのだろう。
撫でた指に引っかかる畳の感触に覚えはない。篭った
ただ、襖だけ見覚えがあった。
乾いたすすきの絵が描かれている。陽光が当たらない内側だからか、年季は感じられながらも日焼けなどの色褪せもなく、綺麗な状態だった。
だが、不思議なことに、私の記憶の中でその襖は閉められている。
脳内の闇を漂えば、過去の私はその襖を開けようとして、取っ手に触れることさえ憚れるような厳かな冷たい雰囲気のために、開けるのを躊躇っていたことを思い出した。
絶え間なく蝉の時雨が降り注ぎ、燦々と太陽が照る外に比べて、奥まったここはとても暗く、入って来た時に障子を開けっ放しにしたままの外へと、何かを探すようにふと目を向ければ、眩しさで思わず手で遮り、瞼を閉じてしまうくらいだった。その落差も余計にこの扉の奥にあるかもしれない何かに輪郭を与えていた。得体の知れない、それでも脅威となり得る何かがあるのだと。
暑い日だった。
背中に汗が一筋垂れた。反して、指先に触れた取っ手はひんやりとしていた。
嗚呼、そうか。きっと、私は開けたのだ。
記憶はそこまでしかなく、その後、何がどうしたかは分からないが、開けた先にあったこの部屋で眠ってしまったのだろう。
頭が冴えてくると分かる。この部屋はとても心地が良い。涼しくて、静かで落ち着く。相変わらず、呼吸は喉に引っかかるが、心臓も頭も落ち着いていた。
箱へと目を向ける。
大きさで言えば、私の膝の高さ程度でそこまで大きくもない。だが、部屋の中心に置かれていると、嫌でも存在感がある。
これは何の箱なのだろう。くるりと周りを回って全体像を見ても、木製の箱という情報しか得られない。箱ということは、何かをしまってあるのだろうが、こんな一室を占拠しているのだから、きっと中に入っているのは、単純な大切なものではなく、丁重に扱わなくてはならない何かなのだろう。
例えば、この家の守り神のような、崇め奉る必要がある存在だ。
そうとなると、そんな部屋で眠っていただなんて、私はとても不敬なことをしているのではないか。そも、無断で足を踏み入れた時点でもう無礼が過ぎるのではないか。
また、はてと首を傾げた。
私はどうしてここで眠ったのだろう。
眠る直前の記憶がないのはよくあることで、それほど気にすることでもない。だが、襖を開けた後、私が横たわるまでの時間が記憶にないのは何故だろう。
部屋の中心に箱が一つだけ置かれている。
そんな異様な状態の部屋で寛ごうだなんて、普段の私なら考えない。これでも、信心深い方だ。道の端に置かれた名も知らない石像にさえ、失礼がないようにと歩き方がぎこちなくなってしまうほどだ。
だから、この部屋で寝る訳がない。何なら、敷居を踏み越えることにも躊躇うだろう。
この箱が、置き場がなくて偶々部屋の真ん中に家人が置いておいたとかでなければ、ここはきっと人の領域ではない。
私は再び、首を傾げた。
そもそも、この家は誰の家だったろう。
誰かに連れられてここに来た気がする。だが、それが誰かは思い出せないし、記憶の途中から私は一人で行動していたような気がする。この襖を開けた時も一人だったように思う。
ゆっくりと逆しまに糸を辿っていく。
随分と広い家だと思った。その割には人の気配がないと思った。日が当たって暑い縁側を歩きながら、ぴったりと閉じられた障子の隙間から冷気が出ている気がして、古そうな家でも冷房はついているのだなと思った。
嗚呼、そうだ。玄関から入らないで、庭から入って縁側へと上がったのだ。庭には雑草が青々と茂っていて、蚊に食われたら嫌だなと思ったのだ。
その時までは誰かが手を引いてくれていた。私はその人がこの家の人間だと思っていた。だから、私は知らない人の家の中に入ったのだ。
その前は、その前は。
敷地に入る前は。
まるで、霧中のようだ。いや、元々そこに道があるのかも疑わしいほどに、その前がない。
人生が道に例えられるように、人生そのものである記憶というのは地続きに繋がっているものだろう。忘れていることがあっても、それは小さな穴のようなもので、道そのものがなくなるなんてない。それは記憶喪失とでも言うべき状態で、眠って起きたらなくなっているなんてあるのだろうか。知らず知らずのうちに大きな衝撃でも受けたのだろうか。
感覚を広げても、四肢に支障はない。怪我はしていないようだ。ただ、呼吸がしづらいだけだ。
これも何故なのだろう。寝ている間の口呼吸で喉がいがいがすることは経験にあるが、常に酸欠のような感覚は覚えがない。襖も開いているし、酸素が薄いということもないだろう。
喉がいがいがした感覚に覚えがあるということは、やっぱり、私の記憶というのはここまで続いていたものがあるのだろう。
私はのそのそと四つん這いで襖へと近づいた。
音がした気がしたからだ。
俄か騒ぎ出した心臓を抑えながら、隙間から覗くと、障子が閉じられた暗い室内があった。だが、透けて差し込む光がある分、この部屋よりは明るい。
光の具合から見るに、まだ昼間のようだ。
縁側を歩いていた時も陽が高かったから、それほど時間は経っていないかもしれない。
室内には誰もいなかった。
だが、足音は聞こえた。どうやらその主は庭辺りにいるようだ。
そこで私は恐怖を覚えた。
もし、足音の人物が家の人間だとしたら、人が来ない部屋に潜む他人を見つけたら、どう反応をするのだろう。私だったら警察を呼ぶ。
今の私には、この部屋にいた理由についてちゃんと説明出来る自信がない。そんな得体の知れない人間に警察が優しく対応してくれる筈もない。
私をここに連れて来た誰かさえ思い出せれば、何かしらの釈明が出来るかもしれないが、それにしたって、このあやふやさで説明出来る訳もないし、言葉を重ねれば重ねるほどに怪しまれそうだ。
耳を
足音の主は縁側を歩いているようで、ぎしぎしと床鳴りが聞こえた。確実に近づいている。
私は思わず、襖を閉めた。
襖に背を向け、息を殺す。脈打つ音が耳から聞こえるみたいだ。ひんやりとした畳の質感が、掌に伝う。指先の感覚が段々と遠退いて、背中を冷たい指でなぞられたような気がした。苦しくなって、息を吸っても、吸っても、苦しみは取れない。どんどんと視野が狭まって、視界の端にちかちかと星が光った。
目線の先には、箱があった。
光源を失って、真っ暗闇の筈の部屋の中にあって、それだけが変わらぬ存在感を放って有った。
嗚呼、そこに
一時だけ、私の姿を隠してくれ。見つからないようにしておくれ。
そして、どうか。
障子が滑る音がした。
躊躇うような足音が近づいて、襖の前で止まった。
私は手を伸ばした。
縋るような祈りの気持ちと目先の恐怖とで目隠しされて、もう一つの恐怖は見えなくなっていた。
息苦しくて、息苦しくて、堪らなかった。
指先すら見通せない闇の中。
冷えた金属製の取っ手に指を引っかけて。
僅かに力を込めれば、想像よりも軽く動いて。
軋む戸の内より、しまわれていた闇が溢れ出す。
その時、襖が開かれた。
反射的に振り返れば、そこに立っていたのは私だった。
似た他人ではなく、それは紛れもなく私自身だった。呆けたように口が開く。不思議と息は楽になっていた。
だが、襖を開けたもう一人の私は、私にも目もくれず、今しがた開かれたばかりの箱の中を凝視していた。
教えられた礼儀を機械的になぞるように、親指ほどの隙間を残して襖を後ろ手に閉める。
私は熱に浮かされたように、よたよたと歩を進め、箱の前で跪いた。
嗚呼、思い出した。
願いには代償が必要だ。
どちらが先だったか、どちらが代償だったのか。
今となっては、もう分からない。
もう、出口はおろか、入口さえも見つけられない。あの手の持ち主を私は思い出せない。
招かれたのか、飛び込んだのか。
ただ一つ、確かなことは、戸を開けたのは私だということだ。
箱の扉が閉じられる。
安らかさに包まれて、私は横たわる。
扉は閉じられている。
また、風の音が聞こえる。
扉は閉じられている。
私は今も、内側にいる。
扉は閉じられている。
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