第20話


 小舟は静かに着岸した。フードを目深に被った女が船首付近に立っている。船頭はおらず、櫂も見当たらない。


「どうぞ、お乗りください。エントワーズ侯爵」


 低く、耳朶をそっと撫でるような声。彼女は、フィリスではなかった。


「俺を知っているのか?」

「はい。エントワーズ侯爵アルカルド様です」

「なぜ?」


 女は答えず、ただ、うっすらと微笑む。

 疑問はいくつもある。なぜ、自分を知っているのか。なぜ、この急流を問題なく渡ってこられたのか。なぜ、来たのか。


「乗らぬなら、戻ります」

「いや……乗らせてもらおう」


 数々の疑問より、重要なのは、この舟を逃したら、バランデュールへは渡れない、ということだ。

 アルカルドが乗り込むと、小舟は左右に強く揺れた。しかし、すぐに安定する。女は船首に立ち、白い手をゆっくりと左右に振った。


 舟は進みだした。波しぶきひとつ、かかってこない。まるで凪いだ湖面に浮かぶよう。流れる川の音さえ、遠ざかった気がする。


「……バランデュール家の者だな」

「はい。あなたの奥方の従姉妹にあたります」


 七人もいると言っていた従姉妹のひとりか。


「フィリスは戻っているのか?」

「いいえ」

「……そうか」

「そんなに落胆なさらなくても。奥方を取り戻したいなら、我々を知ることです。我々を知れば、奥方を理解できる。そういう意味では、今夜のあなたは幸運でした」

「幸運?」

「あなたの声を拾ったのがわたしだったので。もし祖母のミリセリアだったら、あなたを殺してしまったかもしれない」


 ひょうひょうと、面白がっている様子で、女は話す。

 状況からして、アルカルドが歓迎されないのは理解できる。


「バランデュールに渡れば、フィリスのことが分かると?」

「少なくとも、彼女の苦悩が分かるでしょう。そこを理解できれば、あなたに選択肢が生まれる。奥方を取り戻すか。もしくは、すっかり諦め、今後は他人として生きていくか」

「フィリスにも選択肢はある。そして、選択したのだと思っている。それが正しかったかどうかはともかく」

 ふ、と女が笑んだ気配があった。

「フィリスの選択? そんなもの、とっくにすんでいる。故郷を出て、あなたと結婚することを強く望んだ時からね」

「王命だからではなかったのか」

「王など。我々にとっては、地方領主とそう変わらない。どれほどの武力だろうと、練りに練られた陰謀だろうと、メライアのあちら側に干渉はできません」


 確かに。だからこそ、バランデュールは建国から長いあいだ、神秘のヴェールに包まれてきた。


「フィリスはなぜ俺との結婚をそれほど強く望んだ」

「心を、奪われたのでしょう。ずいぶんと昔に」

「……そうだとして、彼女との過去を、俺は忘れている。思い出さぬ限り、彼女の真実は分からない」

「思い出したいですか?」


 ひそやかな声で女は聞く。


「むろんだ」

「代償を伴いますよ。メライアのあちら側の記憶は、川を戻れば失われるのが必定。ベラスの恩恵を身につけた者だけが、記憶を保持したままこの舟を降りることができるのです」

「それが王か」

「さようです。あなたはバランデュールと契約した王でもなければ、王の随行人でもない。記憶を取り戻そうとすれば、死の危険が伴うでしょう。ベレスに問い、許されれば、死なずにすむし、思い出せる。許されなければ、命を落とし、メライアのあぶくと成り果てる」


 ベレスとは。緑柱石のことだ。

『黎明のベレス』

 アルカルドの父が、フィリスをそう呼んだ。

 緑の瞳。一見暗く、目立たない。しかし、陽の当たる場所でのぞきこめば、金の虹彩が確認できた。美しい、生命力に溢れた森と同じ色。


 あの瞳を、正面から、もう一度見られるのなら。


 少年の日の賭けを思い出す。

 ここで死ぬのなら、姉ではなく自分が生き残ったの意味がない、と。

 あの時も、生き残った。


「―――構わない。ベレスに問おう」


 女が振り向いた。突如吹いてきた風でマントが翻り、フードが肩に落ちた。

 漆黒の髪が闇夜に踊る。あの日のフィリスと同じように。

 瞳は鮮やかな紫色。フィリスより大人びた面立ちながら、どこかにあどけなさも残る、独特な美貌。


「よく言った」


 彼女は高らかに叫んだ。


「エントワーズの銀の狼よ。我が従姉妹のために賭けるその生命、たとえ屍となろうとも、ベレスの尊き糧となる。わたくし、エレンディラが、しかと見届けようぞ」


 白い手が、左右に大きく振れた。次の瞬間、アルカルドは、横合いから突如現れた水の塊を受け、川に突き落とされた。


 強い流れが、意思を持つ生き物のように、アルカルドを飲み込み、翻弄する。どんなにもがいても、もがいても、水から顔を出すことは叶わない。


 そして、あっという間に水底に引きずり込まれた。そこに流れは存在しない。ただ、ねっとりとまとわりつくような水が、アルカルドをさらに下へ、下へと沈めてゆく。


 水面がはるか遠くに見え、その向こうに、小さな月が見えた。光は幻のように弱く、水底までは届かない。


 やがて視界は漆黒の闇に覆われる。幼い少女の笑い声が、どこからか響いた。胸を締め付けるほどの懐かしさを感じ、その理由も定かではないまま。


 アルカルドは、意識を手放した。





「……アルカルド?」


 フィリスは、確かに呼ばれたような気がして、振り返った。

 しかし当然ながら、そこには誰もいない。美しく色づいた木々のあいだには、森の静寂が漂うばかりだ。


 これもまた未練のせいか。


 フィリスは首を振り、作業の続きを再開する。肉を食べたおかげで力が回復し、魔法の力を活用することができた。風の力で倒木を運び、適切な大きさに切り分けることさえ可能だ。

 高い場所にある植物の長いツルも入手できた。それらを使って庵の基礎部分を作り、屋根を組み立て、床板を張るところまでで半日を要した。


 昼食は、昨日の肉の残りや骨で出汁を取ったスープで簡単にすませる。塩は節約しなければならない。


 その後、夕食用に狩りを行った。手製の弓矢を手に森をうろつき、イノシシを発見する。

 風下から近づき、狙いをすませて……でも、やめた。

 親子連れだ。この夏に生まれたばかりの仔だろうか。


 わかっている。命をもらうのは、生きていく上で仕方のないこと。狩りに憐れみは不要だ。


 それでも今は、できるだけ心を乱したくはなかった。フィリスは自分の甘さを自覚しつつ、その後、山鳩を二羽ほど獲って、戻った。


 肉の解体処理を簡単にすませてから、居場所作りの続きを行う。基礎から立ち上げた柱の周囲を板で覆い、屋根部分も完成させる。

 夕刻には、なんとか形になった。狭い板間だけだが、地面の冷えや湿気から身を守れるし、屋根は厳重に雨漏りがしないよう工夫した。ここで寝泊まりするだけなら、上等ではないか。


 従姉妹のエレンディラが見たら、馬鹿にして笑いそうだ。


 ものすごく久しぶりに彼女のことを思い出す。

 エレンディラは同じ年の従姉妹である。彼女のほうが四ヶ月ほど早く生まれているが、見た目も、性格も、フィリスよりずっとしっかりしている。


 フィリスは蚕の育成と管理、畑仕事、狩りが役割で、エレンディラは、大工仕事と縫い物を担っていた。

 領地の城は古く、当然、あちらこちらが次々と傷む。それを順番に修復し、森の中に素敵な狩猟小屋を建てたり、農耕具の不具合を鍛冶担当の者と相談して治すのも、彼女の仕事だった。

 一方で、とても繊細で美しい刺繍をした。気性が少々荒く、時に物言いもきついが、優しく愛情深い。従姉妹の中では一番、フィリスと気が合った。


 でも、たった一日で作ったにしては、なかなか出来がいいのではないか。フィリスは庵の出来栄えに満足し、夕食作りに取り掛かる。

 血抜きがすんだ山鳩の肢を脱骨させて折り曲げ、麻紐で括る。塩のほか、胡椒代わりになる山椒の実をすり込んで、火にかける。もう一羽の方は、肉をそぎ切りにし、桑の葉に包んで蒸し焼きにすることにした。蒸し焼きの後に乾燥させれば、貴重な保存食になる。


 肉が焼け、さあ食事にしようとしていた、その時である。


「……誰?」


 フィリスは立ち上がり、闇に向かって誰何した。少し離れた大木の向こうに、確かに誰かが立っている。

 相手は、別に隠れるつもりはないようだ。さくさくと落ち葉を踏みしめながら、こちらに近づいてきた。


 フィリスは大いに驚き、思わず呟いた。


「うわあ……」

「なんです、その反応は」


 しまった。つい、正直な反応が出てしまった。

 現れたのは、黒衣の男。長身を黒マントですっぽりと覆い、口元も布で覆い隠している。ほんの少しのぞく肌の色は褐色だ。


「フィリス様。ご無沙汰いたしております」

 男は側まで来ると、優雅な礼をひとつした。


「……本当ね、ザカリスさん」

 ずっとご無沙汰のままでよかったのに。

 

 彼の名はザカリス・マルドゥークラム。バランデュール一族と同じ、古代ゴルダ王国の生き残り、古い一族だ。バランデュール一族の祖にあたるロザリア王女は森に逃れ、世間との交流をほぼ断った。それとは対象的に、市井に紛れ、世の中の動きに適応しながら、血と、力を継承していったのがマルドゥ―クラムだ。


 褐色の肌、漆黒の髪と金色の瞳が一族の特徴で、同族のつながりを示す独特な入れ墨を、顔にも施している。

 ゴルダ王国の、神官の流れをくむと言われている。


 しかし、かつての力はほぼ失われたと聞いた。やはり血が薄まったのと、環境のせいだ。それでも普通の人間よりも高い身体能力があり、少しの魔法なら使える。そのため歴代のグランタール王のみならず、大陸中の王侯貴族が、彼らを優秀な諜報員や影の兵士として使っているのだ。


 ザカリスは、シャルゴード三世に仕え、バランデュールにも必ず同行した。

 世間で言われている、メ゙ライアを渡ることができる国王の随行人「高位の聖職者」とは、彼のことだ。

 ザカリスは王の側近中の側近。隠密行動のほか、優秀な護衛としての役割も果たす。ただし表向きの所属は国教会の法務機関、西方内赦院。そのため、高位の聖職者だと認識されている。


「よく、ここがわかりましたね」

「フィリス様の痕跡を追いました。魔法を、使われましたね」

「……ええ」


 森の奥深くで、誰もいないから大丈夫だと思っていた。しかしザカリスの嗅覚をごまかすことはできなかったようだ。

 仕方がない。なんとか穏便に対応して、帰ってもらおう。


「ちょうど肉が焼ける頃です。一緒に食べますか」

「ありがとうございます。では、遠慮なく」

 

 ザカリスは、フィリスの差し向かいに腰を下ろす。フィリスは焼き上がった鳩を石の上で切り分け、半分を、彼に手渡した。


「お皿がなくてごめんなさいね」

「いえいえ。このように不自由な場所で、なかなか快適に過ごされているようですね」

「……ええ、まあ」

「さすがはバランデュールの野生児、モジャモジャの……おっと失礼。今は侯爵夫人でしたね。立派なレディになられて」

「……その呼び名、懐かしいです」

「おや。向こうにあるのは、庵ですか。住心地良さそうじゃありませんか」

「だといいのですけれど」

「森の奥で、庵を構え、狩りをして暮らす。フィリス様はせっかく侯爵夫人になられたというのに、その身分を捨て、魔女ごっこでもなさるおつもりなんですかね」


 ザカリスは、こういう男だ。意地悪を言って、フィリスの反応をおもしろがる。

 幼い頃から、どうにも彼が苦手だった。

 従姉妹のエレンディラは常々、ザカリスのことを良くないあだ名で呼んでいた。確か、エセ坊主とか、なんとか。でも、モジャモジャなんていう呼び名よりよほどマシだ。


 そのザカリスはフィリスがふるまった肉を食べるでもなく、ただただ、じっと金色の瞳で見つめてくる。

 フィリスはたちまち落ち着かない気持ちになって、ごほん、と咳払いをした。


「……小父様の命令でわたしを捜しにきたのですね」

「はい。あなたを捜すために、昨夜は、マルレ川周辺を徹底的にさぐっておりました。もういい歳なんで、草むらを虱潰しに調べるのは骨が折れましたよ」

「まあ、ザカリスさんってば。わたしが草むらにじっと隠れているとでも?」

「いいえ? ただ、あなたはけっこうおっちょこちょいだから、何かしら手がかりになりそうなものを落としたり」

「落としませんって」

「誰かに、物々交換で譲ったり? たとえば牛追いの可愛らしい顔をした少年に、金剛石の髪飾りなど」


 バレてる。

 フィリスは水を一口、飲んだ。


「あの男の子はメライアあたりではなく、まったく別の場所にいるはずですけど」

「ええもちろん。わかっていますとも」

「……故郷に戻るつもりはありません。今のところは」

「ではここで、ずっと暮らされるおつもりですか?」

「わかりません。一冬くらいは、いるかもしれません」

「王は、あなたのことをたいそう心配されておいでです」

「……はい。小父様には、申し訳ないことになってしまいました。すべてはわたしのせいなので、手紙を届けてもらえますか? エントワーズ侯爵家にはおとがめなしにしてもらえるように」

「お引き受けいたしましょう。ああ、でも、あなたの手紙は無用になるかもしれないですね」


 フィリスは眉根を寄せた。


「どういう意味です?」

「エントワーズ侯爵は、生きて戻られぬかも、ということです」


 手にしていた肉が、ぽとりと地面に落ちた。血の気が一気に引いて、フィリスは、目の前の男を凝視する。


「なにを言っているのです、ザカリスさん」

「わたしがここに来たのは、あなたを見つけたからですが、お知らせしたほうがいいと判断したからです。マルレ川……あなた方はまだメライアと呼びますか。あの川のあたりを調査していたと申し上げましたね。見たのですよ。この目で。エントワーズ侯爵が、あなたの夫が、川に落ちるところを」

「―――嘘です!」


 フィリスは叫んで、立ち上がった。そんなことは、あってはならない。


「本当です。あなたの従姉妹が、彼を迎えに現れました。そのまま対岸へ渡るかと思われたのですが、途中で、突き落とされてしまいました」

「そ……んな」

「伯爵家は、あなたの祖母のミリセリア様は、彼をお許しにならなかったのかもしれませんね。舟はそのまま去りました。侯爵は、水から上がってはこなかった」


 お祖母様。そんな、嘘でしょう?

 フィリスはよろめき、再びすとん、と腰を下ろす。


「あなたもバランデュールの娘なら、あの川に落ちるということが、どういうことかおわかりでしょう。ですから申し上げたのです。侯爵は、戻らないかもしれない。ということは……おや、何をしているのです?」


 フィリスは先程取り落とした肉を拾い、がつがつと食べ始めていた。


「フィリス様。しばらく会わないうちにますます食いしん坊になりましたねえ。それ、ちゃんと土、はらいました?」

「お構いなく」


 無心で肉を口の中に押し込む。水で流し込み、ザカリスの分も無言で奪い取ると、なお大きな口を開けて咀嚼した。


 歯が丈夫だから、小さな骨なども問題なく粉砕できる。


 あっという間に鳩を食べ終えたフィリスは、立ち上がり、ぐい、と手の甲で肉の油を拭うと、ザカリスに言った。


「ちょっと出かけてきます」

「ふむ。どちらへ、と聞くのは野暮でしょうか」

「せっかくお越しいただいたのに、お茶もさしあげずすみません」

 それどころか、一度出した肉まで奪ってしまって。


 でも今のフィリスには、肉が必要だ。正確には、肉によって得られる力が。


「それでは、ごめんください」


 言うや否や、駆け出した。途中で梢を渡ってくる風をつかまえ、飛翔する。しかし風の弱い日だ。なんとか森を抜けたが、思うように距離を稼げない。

 そんな。せっかく肉を詰め込んだのに。

 やはり、あれっぽっちでは足りなかったか。


「……フィリス様!」


 高度も不安定なまま飛び続けるフィリスに、下から声がかかった。馬の蹄の音。ザカリスだ。黒く大きな馬を駆って、ついてくる。


「いっそ馬のほうが早いですよ。わたしがお連れいたしましょう」


 体裁、怒り、意地、嫌悪。さまざまな感情が入り乱れるが、すべてはどうでもいい。今は、なんとしても、確かめなければならない。


 メライアに落ちた彼が、その後、どうなったのか。


 もしも、水に飲み込まれ、浮かび上がらず、命を落とすようなことになっていたら。フィリスの人生もまた、終わる。


 そうなったら、お祖母様を、絶対に許さない。

 

 フィリスは空から急降下し、手綱を握るザカリスに手を伸ばした。







 



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