第三十四話 心の傷≪トラウマ≫

 アディシェス帝国第二王子。

 アレイシス・ドゥエズ・アディシェス。


 あの日、ヤツは混乱に乗じ大軍をひきいてやって来た。


 最前線で王国兵を蹂躙じゅうりんし、真っ黒な鎧と担いだ銀色の剣に血糊ちのりをべったりと付けて。

 楽しそうに歪んだ顔には返り血による飛沫しぶきの跡があった。


 背丈は一般の平均よりも低い印象を受け、逆立った短い白髪に、アディシェス皇族の特徴である黄金眼レジュー・ドールを持った男。

 年齢は今のルーカスと変わらないくらいだ。


 人をなぶる事に快感を覚え、血をこの嗜虐しぎゃくの狂王子と呼ばれる男が、ルーカスとカレンの前に姿を見せた。


 そして——。



『んん? 紅眼ルージュ……エターク王族かぁ? くははっ!! これはいい。皇太子に逃げられて興醒きょうざめしてたんだ。お前達はせいぜい楽しませてくれよ?』



 男の不快な声が頭の中で再生された。



「ヤツは、俺達の目の色を見て、王家の血筋だと気付いて」



 帝国兵に囲まれ、ルーカス達は応戦したが、圧倒的な力の前にむなしく敗れ去る。

 周囲にいた味方は皆殺しにされ——ルーカスとカレンは捕らわれた。


 そして囚われの身となったルーカスは、アレイシスの前で地に押し付けられ、カレンは——。






 ——ヤツに凌辱りょうじょくされた。


 ルーカスと、大勢の兵士が見ている前で。


 ルーカスは必死に足掻いた。

 彼女は自分が守るべき大切な、愛しい女性ひと


 きたならしい男に、あんな風にけがされていい存在じゃない。


 もがいて手を伸ばして、喉がけるまで叫んだ。


 けれどいくにん人もの兵に踏まれ、動けぬよう体をおさえ込まれて、見ている事しか出来ず——。


 そんなルーカスを嘲笑あざわらうかのように、ヤツは気丈に振舞うカレンをもてあそび、おかし続けた。



「目の前で、カレンを……俺は、何も出来なかった……っ! 無力で……カレンが、ヤツは——!」



 カレンを散々いたぶって、おもちゃのように扱った。

 ヤツは人を人と思わぬ所業を繰り返して——それでもカレンは、気高く美しくあった。


 決して屈する事無く、紅眼ルージュに強い光を宿していた。

 最期まで。


 アレイシスは鳴かぬ鳥に興味を失ったのか、しまいにこちらを見て、金眼きんがんを光らせ、にたりと醜悪しゅうあくな笑みを浮かべる。


 嫌な予感がしてルーカスが叫ぶと嬉々として、ゆっくりカレンの胸に剣を突き立てた。

 皮膚をつらぬく音と共に鮮血が飛び、流れて地を染め——。






 ——思い出したくもない、おぞましい光景の連続にルーカスは吐き気がした。


 胸が締め付けられ焼けるように痛む。

 息が上手く出来ずにうつむいた。


 肩で呼吸を繰り返してまぶたを閉じれば目頭が熱くなり、何かがこぼれ落ちて、痛みに耐えきれず唇を噛んだ。



「俺は、守れなかった……!」



 無力な自分を呪った。絶望した。

 言い知れぬ激しい怒りと、底のない悲しみ。

 喪失感そうしつかんからる激情がぐるぐるとうずを巻いて襲って来る。



「最期までくっすることなく気高くあったカレンを、俺は——!」



 もはや、どの感情によって心が痛み、悲鳴を上げているのかわからず、ただ激しく荒れ狂う波のような激情に体が震えた。



「ルーカス」



 そんな自分の名を呼ぶ声がして、ふわりと風が動きを見せ、体を暖かな感触が包んだ。

 


「落ち着いて。ここは、あの戦場じゃない」



 優しくさとす、き通った高音域ソプラノの声が聞こえる。

 そして——。



いとし子よ、お眠りなさい』



 耳元であの旋律せんりつつむがれた。



『マナのゆりかごにいだかれて』



 絶望の沼に沈んだ俺をすくい上げた歌。



『闇をはらえ、神秘の風よ』



 背中をぽんぽんと叩かれ、心地よい音色ねいろが耳に届き。



きらめきがあなたを照らすでしょう』



 ルーカスがせた顔を上げると、目の前にイリアの顔があった。



 抱きしめるように肩と背にイリアの手が回りっており、勿忘草わすれなぐさ色の瞳が、まるで痛みに共感するかのようにうるんでいた。



いとしい子らよ、涙をすくって』



 背に回ったイリアの手がルーカスの目尻に伸びて、あふれそうになるしずくさらった。



(あの時も、そうだった。

 イリアはこうして俺に寄り添い、俺を救った)



 彼女の優しさに触れて、激情にさざ波立つ心がいで行く。


 次第に呼吸が楽になり、息苦しさも消えて行く。


 しばらくして、イリアはこちらの様子を見て歌をめ、正常に戻った呼吸を確認してから、触れた手を離し距離を取った。


 彼女の瞳が真っ直ぐ射抜いてくる。

 勿忘草わすれなぐさ色、綺麗なあわい青色は、心おだやかになれる彼女の色だ。


 重なる視線をルーカスはらせなかった。



「落ち着いた?」

「……ああ」



 イリアの問いに、まぶたを伏せて答える。


 逃げないと決めたものの、いざ思い出して語ろうとしたらあの時の気持ちが蘇って取り乱してしまった。


 イリアの歌に引き戻されたが——未だに乗り越えられない自分自身に、なさけない気持ちがってく。


 ちらりと話を聞かせていた三人を見れば、沈痛ちんつう面持おももちで言葉を失っている。

 その原因が己であるという事は、言わずともわかった。



「……悪いな、驚いただろ」

「そう、ですね……。カレンお姉様はただ、戦場でたれたとしか……聞いていなかったので。お兄様が取り乱される程、壮絶な最期だったのですね」



 細部は上手く話せなかったが、ルーカスの様子から察したのだろう。


 シェリルは言葉に詰まりながら話し、ぐっと拳を握って悲しみをこらえている。

 シャノンも似たようなもので、リシアはぽろぽろと涙をこぼしていた。


 架空の物語フィクションではない戦乱の真実、過去の悲劇——だが、話はこれで終わらない。


 カレンの死をの当たりにして、悲しみと絶望と怒りに震えた自分の身に何が起きたのか、そして何をしたのか。


 それを語らなくてはならない。

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