2話〝トニー〟がいない

 トニーが救命措置をするまでもなく、手遅れなことは明白だった。

 代わりに誰かが試みてくれたらしい。フロラの腹部に、丸めたパーカーがあてがわれていた。

 グレー生地のほとんどが赤褐色に染まり、吸い込みきれなかった血が、細く赤い糸となって、劣化したアスファルトの隙間に流れている。

 こうなった原因がフロラにあったのではない。

 フロラなら絶対、危険にクビを突っ込むような愚かな真似はしない。金目のものを持っている格好でもない。

 巻き込まれたとすれば、トニーには原因がひとつしか思い浮かばなかった。

 自分のせいかもしれない……。

 勤めている<テオス・サービス>は、真っ当な葬儀業以外での仕事がある。くわえて<テオス・サービス>に入る前は、くだらない喧嘩ばかりしていた。恨みを買う心当たりが、ありすぎるぐらいにあった。

 だからフロラとは距離をおいたままにしていた。直接会うことはせず、様子を伺うだけになって久しい。「身内」にすら妹の存在を隠し、親しい数人が知るだけだった。

 なのに凶事に襲われた。巻き込まないための配慮が、まだ足りなかったのか。

 トニーは遺体のそばにひざまずいた。

 悲憤より衝撃のほうが大きい。涙は出なかった。

 目の前でフロラは幻視かもしれない。そうであることを願い、血の気のない頬にふれてみようとした。

「だめだウィダ、こらえろ」

 追いついたルブリが、はずませた息のあいだからとめた。ふれないまでも戻せずにいるトニーの腕をやわらかく押さえる。

「痕跡を残すわけにはいかないだろ? 気持ちはわかるが早く引き上げよう。野次馬が増えてきてる」

 そんな言葉などふりはらって、フロラを連れて帰りたかった。

「警官がくる、はやく」

「……わかってる」

 聞こえてきたパトカーのサイレン音が、別れの合図だった。

 トニーは、妹の姿を脳裏に刻み込む。この場から離れたくない気持ちをねじふせて歩き出した。

 別れの言葉は出せなかった。


     **


 この国の葬儀は、ラフな服装でも通用する。

 それでもソニ・ベリシャは、おいてきたグレーのパーカーのかわりに、ティーンエイジャーにしては地味なデザインのブラウスを用意した。

 葬儀社の正面から入ってすぐにある受付カウンター。上衿だけ色違いのレトログレー青みが入ったグレーになっているダークグレー・スーツが、この会社の制服らしい。子どもが相手でも丁寧なお辞儀をしてきた男性スタッフに、母親からの使いをよそおって呼び出しを頼んだ。

「呼んでください。ウェダ・トニーさん」

 勤め先以外は、容姿の特徴も何も聞き出せなかった。

 ソニと同年代、同じぐらいの小柄な女の子は、撃たれた今際いまわきわで、名前のほかは、ひとつの伝言を伝えるだけの体力しか残っていなかった。

「ウェダ……」受付係は少しの間の思案顔のあと、

「あ、宇江田ウエダでしょうか? 少々、お待ちください」

 ウエダ……。女の子から間違いなく聞き取っていたのか、心許なくなってきた。

 ひとまずカウンターから離れる。人目につきたくなかった。

 受付係が内線電話にむかったタイミングで、ロビーのすみ、観葉植物の陰へと移動した。正面の出入り口からロビーまで、全体を見通せる位置だ。存在を薄くして、カウンターをうかがった。

 淡いベージュを基調にした内装のなか、ジャケットを手にした人が急ぎ足でやってきた。先ほどの受付男性に話しかける。

 あの人だろうか。

 しかしソニは、踏み出した足をとめてUターン、元の場所に戻った。

 フロアにいる人々を見回しながら、制服のジャケットを着るシルエットは、女性だった。

〝トニー〟じゃない——。

 ソニ以外の誰かの呼び出しできたのだろう。目当ての人物がロビーにいなかったのか、ドアの外へと出ていった。

 ソニは、そのまま待った。

 そうして一杯のコーヒーを飲み終える時間が過ぎようとしていた。受付に話しかけるのは来訪者ばかりだ。

 宇江田トニーの呼び出しはどうなったのか?

 確かめてみたくはあったが、もう一度訊きにはいけなかった。

「おまえたちが拐って殺したんだ! どの面下げてここに来やがった!」

 落ち着いた雰囲気をこわす大声が、周囲にいた人たちの動きを止めさせた。

「あなたとは面識がありませんよ? どなたかと間違えておられるようだ」

 言葉遣いはていねいだが、態度は不遜そのもの。光沢のあるダークスーツを着た男が応えた。

「声を聞いて確信したぞ! 証拠をつかんだら……え、おい⁉︎」

 足音もなく現れた二名の警備員は、糾弾していた初老男性の味方とはならなかった。

「やめろ! おれじゃなくて、その人殺しを捕まえて——離せ!」

 逆に彼を両脇から押さえ込み、強制的に連れ出していく。

 その様子を冷ややかに見ていたダークスーツの男が、不意にソニのほうを見てきた。

 ソニは視線をはずす。呼吸すら止めてじっとする。フロアの位置からなら、鉢植えの影で見えないはず。

 ダークスーツとその背後にいたふたりは、いずれもソニが知っている顔だった。

 あいつらが祈りの場に来ることができる。それだけでソニは、神の存在を信じられなくなった。

 やつらが葬儀の場でやっているのは、信仰とはかけ離れた内容の密かな商談、あるいは祈るのはパフォーマンスだけのコネクションの維持。

 なんにせよここで見つかったら、あの子との〝約束〟を果たせなくなってしまう。

〝トニー〟探しは、いったんあきらめた。

 ソニは、セレモニーを終えたらしい参加者の一団に紛れこむ。流れにのって一緒にドアの外へと出た。

 通りに出ると誰にも気付かれないまま離れ、雑踏にとけこむ。

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