パンは銃弾
栗岡志百
序章 そのメッセージは『わたしは、あなたを忘れない』
そのブックマーカーが道しるべになる。
あなたのもとへと導いてくれる。
***
そのまま立ち止まり、迷う。
「迎えにきてもらったほうがいいかな……」
目の前の裏道は、たよりない街灯の明かりがあるだけで薄暗い。普段なら絶対に足を踏み入れない場所だった。
こんなことになったのは、高校に入ってから始めたアルバイトにある。
動機は誰しもありがちな「お金が欲しい」。
ただ遊ぶために資金ではなく、バイト代を本や文具の購入にあてて養父母の負担を減らしたり、〝トニー〟にお返しのプレゼントをしたいというものだった。
バイト先は洋食店で、日曜日の午前十時から午後三時までのフロア係。いつもなら明るい昼日中が帰り道になり、裏路地でも問題がなかった。
しかし、働いていればイレギュラーも起こる。稼ぎ時に来れなくなったスタッフのピンチヒッターを頼まれ、昼三時から夜八時までのシフトを引き受けてしまった。
店は、通称「ミナミ」で親しまれている市内最大の繁華街の路地裏にある。
すぐ近くにはミナミの食文化の供給拠点となる市場があり、つらなった食品関係の店は、飲食店への卸売だけでなく、家庭や観光客への小売りもやっていた。おかげで訪れる人は商売人から観光客、一般家庭の買い物客と幅広い。
この賑わいは市場周辺にある店にも波及した。おかげで裏通りにあっても客足はいい。
高校生バイトでも正規スタッフに準じた対応をしてくれる店から頼まれると、フロラは断ることができなかった。
門限が八時だから……といった嘘をいえない性分も、ときに考えものだ。
店の正面から出た小径なら夜になっても人通りがあるのだが、客席を通り抜けての出入りは認められていなかった。
ほかの従業員はみな午後一〇時の上がりだから、誘い合って帰ることもできない。
かといって養父母から、ようやく許してもらったバイトの手前、迎えを頼むことも気がひけた。
頼めばきっと来てくれるだろう。けれど休みなく働いている両親に、手間をかけさせたくなかった。
——本当の親のつもりで甘えてくれたら嬉しいよ。
そう言ってもらっても、案外むずかしい。どうしても気を遣ってしまう。
トニーになら、素直に甘えることができたのに。
トニーと初めて会ったのは、母が再婚したとき。新しく父親になる人と一緒にいた、目つきの怖い子どもがトニーだった。
最初はその外見に違わず、とてもよそよそしかった。トニーも、まだ子どもだったのだ。急にできた妹にとまどっていたのだと今ならわかる。
一緒にいるうち、なにかと世話をやいてくれるようになり、やがて、どんなときも側にいてくれるようになった。
しかし母が亡くなり、養父が事故死したことで状況が変わった。
トニーと離れ離れになってから、連絡すらとれていない。そうしてもう二年になろうとしていた。
こうなった事情をトニーもまわりの大人もおしえてくれなかった。けれど時間が経つにつれ、トニーが自分のことよりフロラを大事にしてくれた結果である確信がうまれていた。
フロラは、トートバッグに手を入れた。いつも持ち歩いている、真鍮製のブックマーカーを取り出す。
仄暗い路地を前にして、お守りのように手の中に握りしめた。
人通りはないが、さっさと通り抜ければ大丈夫。人影がないということは、犯罪を目論む人間や、クスリの売人もいないということだ。
こうすれば危険をすぐ発見できるというように、フロラはメガネを押し上げた。店の裏通りへと踏み出す。
ブックマーカーは、クリスマスプレゼントでもらったものだった。
やわらかな光を反射する、真鍮の落ち着いたシルバーゴールド。一〇センチメートルほどあるボディ部分に、メッセージが刻印されていた。
三本セットの中の一本に入っていたのは、
度数の緩くなったメガネ越しに、やっと読みとれた言葉は、
I’ll never forget you.
この言葉を見つけたとき、プレゼントしてくれたのは養母だが、用意してくれたのは違うと感じた。
まだ十一月に入ったばかりなのに、クリスマスプレゼント。
この気の早いプレゼントは、トニーだと思った。
——フロラの誕生日プレゼントとクリスマスプレゼント、別々の月にしたほうが楽しみが毎月になっていいだろ?
まだ十代のうちから、そんな気遣いをみせた。
トニーにも欲しいものは、たくさんあったはずなのに、アルバイトでの稼ぎを惜しみなく使って用意してくれた。ちなみに一月には、新年のプレゼントがあった。
母が亡くなり、新しい父親もいなくなってからは、トニーとふたりで児童養護施設に入った。
新しい養父母が決まったのは、フロラが先だった。
トニーは別の引取り先を待つということに、フロラは納得できなかった。
ふたり一緒でないのなら、このまま施設にいるほうがいい。生活は質素そのもので、部屋もほかの子と相部屋だ。けれどスタッフはみな頼れる大人だったし、なによりトニーがそばにいる。それだけで十分だったのだけれど、トニーの説得にまけた。
——施設はいずれ出なきゃいけない。ここで一緒に生活できなくても、外で会えばいいんだよ。
結果は、だまされた。
トニーは施設からいなくなったと聞いた。連絡先も残されていなかった。
ブックマーカーのボディの先はU字型にカーブし、その先に小さなプレートが付いている。そこには、フロラのイニシャルが入っていた。
「U.F.」でなく「C.F.」になっていることが寂しい。
本当の子どものように愛してくれる養父母に不躾だと思いつつ、トニーの現在を知らないか訊いたことがあった。
ふたりは互いに困ったような視線をかわしてから、首を横にふる仕草をみせた。否定のゼスチャーは、本意ではないというように。
このひとたちも嘘が苦手なのだ。そこに可能性を見いだした。
何度も訊ねるうちに、やっとトニーがいま勤めているという会社をおしえてくれた。トニーの方から連絡があったのだ。高校を出てすぐに働き出したのだとか。
自分にはおしえてくれなかったことがフロラには不満だったが、ひとまず安心した。
そして、高卒で働き始めたことに苦笑してしまった。経済状況より何より、勉強が好きな人ではなかったから。
そのかわり運動神経が抜群で、プロスポーツに進んでもおかしくなかった。練習に専念できる環境さえあれば、なんのプレイヤーになっていただろうか。
トニーのことで思い出すのは、かばってくれる背中と、歳のわりには大きな手だ。
外でも、家でも、いつも守ってくれた。
どうやらフロラの養父母は、トニーも一緒に引き取るつもりでいたらしい。その申し出をトニーは断っていた。施設も自分から飛び出していた。
トニーが新しい家庭に落ち着けた可能性は限りなく低い。
ただ、思い当たることがひとつあった。そうだとしたら施設を離れ、会おうとしないことも納得できた。
バカだと思った。自分はもう、守られるだけの小さな子どもではない。周囲がどんな偏見の目で見ようが構わない。無視すればいいだけなのに。
会いたかった。
全身で安堵を感じさせてくれる、包み込まれるようなハグが、たまらなく懐かしい。願いのまま、ブックマーカーを強く握り込んだ。
同時に、重い物がぶつかる、荒々しい物音にぎくりとなった。
フロラは現実に引き戻される。
過去を思うばかり、歩みが遅くなっていた。
表の通りはすぐそこだ。早く出なければ。
市内最大の繁華街に集まってくるのは、家族連れや観光客ばかりではない。アミューズメント施設が並んだ明るい表通りとは対照的なエリアがあるのも、ミナミの一面だった。
養父母がミナミでのアルバイトに反対したのも、こういう場所だからだ。
その気持ちを汲みながら、トニーや養父母に贈り物をしたくて、この時ばかりは、わがままを通した。
バイト先が安全なエリアなのは比較でしかないことを、もっと心に留めておくべきだった。
数歩もいかないうちに、今度は何かがひっくり返る騒がしい音がした。
さっきより近くなっている。慌ただしい足音も聞こえる。
早く離れないと。
急ぐ足が焦ってもつれる。
後ろは見なかった。ひたすら前へ。
破裂音が数回響き、周囲の空気が震えた。びくりとして振り返る。
通りの車がアフターファイヤーでもおこしたのかも……
そんな呑気なほうに解釈したのは、現実を認めたくなかっただけだった。銃器の取り締まりは厳しいけれど、発砲事件がないわけではない。
そうして、まさかがおこった。
フロラは近くなった路面で、自分が倒れているのだと気づいた。
痛くはなかった。けれど、お腹が灼けるように熱い。
押さえた片手がぬるりとする。この生温かい厭な感触は……
確かめるのが怖かった。起きあがろうとしても、身体に力が入らない。
トニーに会いたい衝動が、強烈にふくらんだ。
どんなときでも味方でいてくれた。フロラが中学に入った頃、夜は一緒に寝たいといった子どもじみた願いも受け入れてくれた。
何も言わなくても、トニーはわかってくれた。
一度、夜中に目を覚ましたとき、ベッドから去ろうとするトニーの背中を見つけて、すがりついたことがある。トニーは喉が渇いただけだと言いつつも、水を飲みにいくことをやめ、そのままベッドに戻ってくれた。
——怖いことなんかない。そばにいるよ。
あの声が聴きたかった。言葉遣いはそっけないけど、優しい声を。いつものように助けに来てほしい。
意識がぼんやりしていくなか、フロラは誰かが駆けよってくる気配を感じた。
「トニー……?」
本当に来てくれたのか? しかし、足音が軽かった。
体重が軽い……いや、耳もぼんやりしている。聞こえなくなっているのかもしれなかった。メガネが跳ね飛んでしまい、姿もよく見えなかった。
「しっかり! いま、血、止めます!」
高い声。大人ではない。
それでも怪我人を前にして、声の調子はしっかりしている。頼んで大丈夫だと思えた。
フロラには、トニーに伝えたい言葉があった。
ぼんやり見える人影に向かって声をふりしぼった。倒れた人間にかけよってくれる優しい人なら、きっと聞いてくれるはず。
息が苦しくて、言葉が途切れがちになる。
一言話すたびに肺が
「……トニーさん? ファミリーネーム、教えるです! 家、どこありますか⁉︎」
ネイティブの発音ではなかった。リスニングは大丈夫だろうか。
フロラは、ファミリーネームを聞き取ってもらえることを祈った。母国語によっては、むずかしい発音なのだと聞いたことがあった。
握ったままだったブックマーカーを思い出した。
これを一緒に渡してもらえれば、短い伝言でも、トニーにわかってもらえるはずだ。
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