第22話 俺のものになれよ
ソワソワする。
さゆりんに教えられたカフェは確かにオープンな作りだったけど本屋の併設で、本を持った人たちで席は埋まりかけてた。
注文に行くと「席はお決まりですか?」と聞かれてあたふたする。運良く空いた席に陣取って、飲み物を買う。
ブックカフェと言っても人のざわめきがすごい。騒々しいと言えなくもない。家の方がゆっくり読めるんじゃないかと他人事ながら、思う。
その貴重な席を使わせていただいてるんですが。
「待たせた」
フラッといつものように現れた貴史は、何故かいつもより大人びて見えて、居心地が悪い。
「貴史は何、飲む?」
「ここでゆっくりしたい?」
えーと。
それはそれで微妙だった。
ここにいると、ふたりきり感が薄くて落ち着かない。あっちの違う制服の女の子たちがこっちをさっきから見てる。
だってこんなに存在感あるんだもん。そうなる。
「コーヒーを飲む間だけ」
「同感。なんかここ、居心地あんまり良くないよなぁ。周りからよく見える席だし」
そう言うと貴史は飲み物を買いに行って、僕は軽くため息をついた。なんか上手くいってない感じ。
◇
ふたりだけの時って、何を話したらいいんだろう? マジで頭が回らない。男同士の時はこんなこと悩まなかったのに。
あんなにたくさん一緒にいたのに、どうして話の糸口も掴めないのか。
――あ、そもそものきっかけを思い出した。
「手袋ありがとう。お返ししたいんだけど」
「そんなことのための待ち合わせ? 別にいいよ。お前が寒くなければそれでいいんだ。手が冷たいんじゃないかって、荒れちゃってるんじゃないかって毎朝気にするのは、精神衛生上良くないと思わないか?」
目をぱちくりする。
そんなに大切なことだろうか?
「貴史はさ、なんで過保護なの?」
ずい、と身を乗り出して聞いてしまう。カフェモカの香り、チョコレートの甘い香りが鼻をくすぐる。
「過保護にしてるつもりはないけど。······心配なだけだよ。純がいなくなるなんて、そんなのはたくさんだし」
「ずっと一緒ってわけにはいかないでしょ?」
僕はそのちょっと子供じみた答えに笑ってしまった。カップのコーヒーは冷め始める。
「この世に、絶対ってことはないんだよ」
貴史は下を向いてコーヒーの表面だけを見ている。背中を丸めて、いつものいい意味での緊張感はない。
何だかすごく久しぶりに、女だということを意識してない自分を見つける。気が楽。ただの自分。
これが積み重ねて慣れ親しんだってやつなのかもしれない。
「櫻井はいいヤツみたいだな。確かに周りに女は絶えないけど、それでも純を誰から見ても特別に扱ってる。こういうのは考えたことなかったけど、アイツがいいヤツで良かったよ」
「僕に彼氏ができるってこと?」
「ああ、そうだな。もっと先かと思った、っていうのは今更だな。純の人生はそういうのも含めて、俺が背負っていこうと思ってた。余計なお節介だったけど」
······話がずいぶん重くなってきた。
僕の耳に、周りの雑音も視線も、入らなくなってくる。貴史の言葉と様子しか、気にならない。
「人生を背負うってさァ」
「言い方が悪かった。嫌々ってことじゃないんだ。俺が勝手にそうしたいって思ったんだ。俺の人生を考えた時に、お前がいないなんて考えられなかったし。······お前はそうじゃなかったの?」
ツキン、と何かが胸に刺さる。
今だって、そういう気持ちがあるからここにいる。それだけじゃダメなの?
女になったら彼氏との関係重視で、それまでの人生で大切に思ってきた人と疎遠にならないといけないの?
それに――貴史の思う僕との関係も、僕の考えるそれとは違って見えた。
僕は、貴史だけは、男だった時と同じく茅ヶ崎純の魂を見続けてくれるって、そう思ってた。勝手に······。
「難しいんだけど、貴史がいなくなるなんて僕も考えられない。貴史だけが本当の僕を知ってるって、そう思えるし。僕たち、繋がってないのかな、今は。そんなの嫌だな。
それは僕に彼氏ができたから?
男だとか女だとか、そういうのに振り回されて、貴史と過ごしてきた時間を全部、帳消しにしたくない······」
「俺は、お前が男でも女でも、そんなの関係ないと思ってる。お前にとっては性別がネックなのかもしれないけど······俺はお前が男でも女でも、同じようにお前を愛していけると思う。それだけだ、櫻井より上回ると思えるところは」
――絶対的な信頼、友情。「愛してる」?
そんなの狡い。
また狡い涙がポロポロこぼれて、手の甲でそれを拭っていると、貴史は「ちょっと待ってて」とトレイを持ち上げて言った。
戻ってきた貴史は両手で顔を覆う僕にペーパーを何枚か握らせ······そういうところが貴史っぽい······「行こう」と手を出した。
反対する理由もなく、手を繋いで歩く。何の良心の呵責もなく、人目も憚ることなく、子供の時のように自然に。
この厚い手が、好きなんだ。
エレベーターホールの奥の階段、人目につかないところ、そこで遠慮なく、子供のようにしがみついて泣いた。
今の僕にとって一番重い悩み、それは自分の性別が変わってしまったことだ。
貴史の両手は、小さな僕の背中の上で軽く組まれていた。重みが丁度いい。
誰にも――姉ちゃん以外には誰にも話せない苦しみ。それを受け止めてもらえている、そんな信用が持てるのは、過ごしてきた時間の重みだ。
性別に囚われることなく······。
強引に顔を上げられ、背中を屈めるようにして貴史は僕に口付けた。
僕は――何が起きたのか、頭の中が真っ白になった。
「やっぱり女だと思ってるんじゃん!」
ドンと胸を叩く。
貴史の逞しい身体はビクともしなかったけど、顔は大きく動揺していた。
「言ってたことと違うじゃん! そうやってやっぱり僕を女の子にしか見てないんでしょう? いいよ、貴史のいいようにすれば。僕の身体なんてさ、ただの入れ物なんだから! ホテルでも、部屋にでも連れ込めば?」
「違う、違うんだ、本当に」
「何が違うって言うの? 秀と違うとか、どこがって感じ。いいことして、いい気持ちになって、それが望みなら、貴史ならいいよ。好きにしなよ!」
僕の頭をバスケットボールのように片手で包んで、強く自分の胸に押し付けた。
この不器用な男は、何もかも不器用だ。
いつだってそうだ。
僕の欲しい、何かが少し足りない。
大きなため息をつくと、言葉がまとまっていないに違いないのに口を開いた。
「上手く言えない。お前が男になっても······気持ち悪いかもしれないけど、俺はお前にキスしたいと思う。抱きたいと思う。
今だって泣いてるお前がかわいかった。
人生で唯一の人はお前だって確信してる。
そういうのを自分は『愛』っていうのかと思ってる。
――まさかキスするのがこんなに簡単だったなんて、何で今まで躊躇ってたんだ? バカみたいに簡単じゃないか。⋯⋯軽蔑するよな」
「⋯⋯僕が男でも抱くの?」
「ああ、許してもらえるならだけどな」
そんなこと、貴史は今まで考えてたのか、男だった方の世界線でもそれを考えていたのかと思うと、やっぱりちょっと複雑だった。
男だった僕が、身体の大きい貴史に組み敷かれている姿を想像して⋯⋯。いや、もしもの話だから言えるんだって。
大切なものを怖々と触るように、僕の頭を撫でた。僕の頭は小さく思えて······子供みたいだ。
「ずっと誰にも言えなかった。胸が痛んだ。身体なんてどっちでもいいよ。どっちでもお前を愛することはできる。
失うことに比べたら、性別なんて些細なことだ。こんなに重くて引くか?
だけどきっと、もう二度とこんな機会はないだろうから、言っておく。忘れてくれていい。嫌われたくない気持ちより、お前を愛する気持ちが勝って、困ってるんだ。
その気持ちは俺の中で勝手に増殖して、俺を責め続けるから」
◇
「······なんて言ったらいいのかわからないんだけど、ありがとう。僕に言わせれば、重いっていうより、貴史の存在がありがたい。貴史がこの世に存在してるってことが、心の拠り所になってる気がする」
自分がどうして背が低いんだろうって思うのは、こんな時だ。その太い首に腕を回して、引き寄せて、それでも背伸びして。
「キスくらい何だって言うんだよ。ケチることないよな。一緒に風呂に入って育ったし、中学の時もふたりきりでテントで泊まろうとしたんだし」
「あれは。あれは――ヤバかった。お前は無邪気にしてたけど、押し倒したいって衝動と戦って。
剣道やっててホント良かったと思う。気持ちを落ち着かせるのに、すごく役に立ったから」
唇に指で触れる。ちょっとごわごわしてる。
軽く唇で触れた頬はツルツルではないし、肌は硬い。
首筋は頑丈そうで、それでいて身体は反応した。
ずっと知っているつもりだったものを、唇で確かめる。手でも良かったのかもしれないけど。
「お前、こんなところで」
「静かにしてよ、16年分の埋め合わせみたいなものだよ。⋯⋯女子でごめん。こんな風にしかできないや」
「⋯⋯お前、ホントに女なんだな。小さい頃は同じようなものだったのに、こんなにやわらかくてすぐ壊れそうで俺は怖いよ」
「女だっていいもんだろう?」
「どっちでもいいよ。かわいい」
これが浮気じゃなくて、何だと言うのか。
友情を深めた、では済まされないよな。
でも必要だったんだ。僕が僕であるために、すごくすごくすごく。原点に戻るみたいに。
僕の拙いキスでは「俺のものになれよ」と言わせることができなかった。
これが最後っていう空気が充満して、こんなことならホテルだって良かったかもしれないって、その時はそう思ったんだ。
重い愛を受け止めつつ――。
結局、手袋のお返しは形のないものになってしまった。
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