第16話 有り得ない思い出
神様のシステムはホントにわからない!
僕たちは乙女ゲーの盤上なのか、掌の上でいいように転がされてる。
なんなんだ。
こんなに気まずいことってないだろう!
⋯⋯落ち着け。
深呼吸。
吸って、吐く。
「何してんのォ! 早く学校行きなさいよ!」
靴を履いてるところに背中から蹴り。
マジで危ないから。つんのめる。
姉ちゃんを不良品回収で、天国に返したいよ、まったく!
それじゃなくても朝から憂鬱なのに。
あー、なんで降るかな、雨。
◇
コンビニの入り口横、傘をさして、貴史はピンと立っていた。
相変わらず姿勢がいい。
警察官か自衛隊か、どちらにしても体育会系。剣道やってただけあって、身体ができてるんだよなァ。
前に柔道の授業で背負い投げやった時、僕が軽々投げられるのは想定内だったけど、貴史の襟を掴んでもビクともしなくて投げられてくれなくて、マジで参った。投げられる練習だったのに。
思えばどうしてアイツは僕を選んだんだ?
体格差。
今はもっとある。
雨の日は足元がすかすか。
慣れたつもりでいたけど、貴史のチェックのスラックスを見た時、男だった時を思い出した。
あの頃に戻りたい⋯⋯本気でそう思った。
どうしてかな?
秀と順調に距離を縮めて、女子としての『しあわせ』を意識し始めてたはずなのに。
秀のことを思うと、胸がツキンと痛んだ。
どうしてだろう? これは断じて浮気じゃない。
僕の中にまだ残ってる男の部分が、必要としてる成分だ。
「悪い、結構待った?」
「いや、いつも通り」
ふたりの足が同時に踏み出す。最初の1歩はいつも同じタイミングで、その後少しずつ、合わせるのが難しくなる。
雨の日は、特に。
「今日は1日、止みそうにないな 」
ボソッと、貴史がこぼした。
男だった時は透明だった傘から見たどんよりした空は、今は水色でまるで晴れた空みたいだった。
傘の中からそっと手を出してみる。
1滴が、重い。昨日が嘘みたいだ。
「あのさ」
「ん?」
「昔、キャンプに行った時にさ」
「どのキャンプ?」
「ほら、あの海の」
ああ、と貴史は相槌を打った。
そして「あの時は酷かったな」と言った。
何も考えず、テントだけ持って海に向かって、波が来ないと思われる少し小高いところにテントを張った。
風は穏やかで、そのまま波の音を一晩中、堪能するつもりでいた。
何をするでもなく、テントの中で好きなマンガを読んだり、束縛されることのない自由を満喫していた。
自由。
その時はそう思ったけど、夜になる頃、風はすごい勢いで吹き始め、安物のテントはバサバサ音を立てて吹っ飛びそうになり、テントの中は砂だらけ。
僕たちは自由の代償として与えられたものに
全身砂だらけで、潮風に晒された身体はべとべとして海の匂いがした。
文句ばかり言う僕に、貴史は「まだ帰れる時間だ」と冷静に言った。
僕は荷物をリュックに詰め直して⋯⋯?
詰め直して⋯⋯。
おかしくないか?
だってそれ、中学入ってからじゃね?
中学生の男女が⋯⋯いや、小学生だって高学年にもなれば、男女でテントに泊まったりしない!
⋯⋯おかしいよ?
じっと貴史を見る。
視線に気が付いてふっとこっちを見た貴史は、いつもは見せない表情をしていた。
お前の方が驚くのか? ごくり、と喉仏が動くのが目に入った。
やっぱり不自然。
「海より山の方が向いてるな」
「⋯⋯そうかもしれん」
あの時も貴史はそう言った。「次は山にしよう」と。
テントの中の砂を全部、叩くにはすごい労力が必要だったし、僕はそれに腹を立てていたし、結局、その後、二度とキャンプはしなかった。
「月がキレイだったな」
唯一の、いい思い出。丸くて大きな月が、水平線上に浮かんでいる。
「ああ、満月だった」
――同じものを見たんだ。この世界線の中でも。
そんなことって有り得るのか?
僕は秀に会うまでずっと、そのことを考えてた。
女だったら絶対しないことを、貴史は覚えてた。
そんなことってあるんだろうか? ⋯⋯記憶の混乱? それとも――。
それともなんだって言うんだろう?
貴史だって、僕をすっかり女子だと思ってるのに、ふたつの世界線が重なってる?
秀の声は雨音のように、僕に降り注いでは流れていった。
◇
キャンプのことばかり、考えてた。
貴史は僕たちにとって重要な思い出をどれくらい覚えてるんだろう?
授業中、チラッと見る。席が替わって、ずいぶん遠くなった。表情まではとても読み取れない。
それから子供の頃のふたりの思い出を、ノートに書き出してみた。
雨で潰れたダンボールの隠れ家。
バレーボールの練習をしてて、折れた僕の右手の小指。
暑い日の水風呂。あれはいくつくらいまで一緒だった? ⋯⋯ふたりで入れなくなるまで身体が大きくなった時。いくつだよ? ずいぶん、大きくないか?
思い出はぼんやりしていて、鮮明に浮かんではこない。最近、そういうことが多い。
女としての記憶がぼんやりしてるのは捏造されてるから仕方ないけど、男としての僕の本当に体験した思い出も、ぼやけて見えた。
僕は誰なんだろう? 今を生きていればそれでいいのかな?
人生の線路はひょんなことから路線を変えた。そもそも『ひょんなこと』ってなんだ?
水風呂。
狭い浴槽でぎちぎちになって裸で入った日。
あの日から、暑い日は市民プールに行けと、母さんに怒られた。僕が貴史の大きさに怒ったからだ。
同じくらいの背だったのに、貴史だけがにょきにょき身長を伸ばした。不公平だと思ったのは自然なことだろう。
視線は平行じゃなくなり、どんどん顔を上げなくちゃいけなくなり、今では正面からぶつかったら、僕の顔は貴史の逞しい肩に直撃だ。
シャープペンシルをブラブラ降る。
たまたま? それは強い思い出だったから、たまたま記憶の端っこに残ってた?
おかしくないか?
年頃の男女で、キャンプに行くなんて。
雨音があの日の潮騒を思い出させる。
言えることは、ロマンティックじゃなかった。
そして、僕はエキサイティングなことを求めてた。
もっとも、終わりはある意味、とてもエキサイティングだったけど。
◇
「記憶の混乱? ああ、普通にあるんじゃない?」
初めての時のように、僕たちはふたりきりで化学室のだだっ広い部屋で弁当を食べていた。
今日は和食。
ひじきの煮物も塩鮭もレンチン。なんて便利。
これだけじゃ足りないだろうと思って入れた卵焼き。少しは上手になったはず。
男だって料理をする世の中だ。上手くならないはずはない。
「例えば、
条件的に、それじゃない。もっと詳しい。
だとしたら、妄想? 貴史は経験してないはずだから、⋯⋯考え違い?
いやいやいや、それはおかしい。
あの夜、波音、砂、満月。畳んだテント。面白くないな、と膨れた帰り道。
貴史はどれくらい覚えているんだろう?
「その『記憶』のせいで今日は気もそぞろなの?」
あ、そういう風に見えたかな、悪いことしたな、と思う。
秀と会ってる時に、貴史のことばかり考えてるなんて、まるで浮気みたいだ。浮ついた気持ち。
「こっち向いて座って」
僕はバツの悪い思いをして、言われた通りにした。
「お仕置しちゃおう」
「え? それは」
僕の頭を固定するように、秀はしっかり頭を支えた。
そして予想通り、顔が迫ってきて、ああ、こんなところでこんなことを――。
お仕置だって言ったのに、それは『
雨の音が聞こえる。
天上から、神様の粋な計らい。
雨音がすべてを隠してくれる。
――重ねたキスの数も、その温度も。慣れてきた唇のやわらかさ。
次第に、気持ちが盛り上がってくる。
わくわくなのか、ドキドキなのか、期待なのか、陶酔なのか。
やがて期待通りに待たされたそれは、滑り込むように唇という境界を破って、入ってきた。
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