第22話 霊感の萌芽
──方丈晃の内面には明確な人間関係の線分けが存在する。
線の内側と、線の外側。線の内側にいるのは共に育った竜養寮の仲間たちや晃の認めた友人、庇護対象となった者達。そして、線の外側は須らく自身には関わりのない者達。
晃の交友関係は両極端だった。
線の内側に入るのなら、その人格と能力の程度にかかわらず認めて肯定しよう。その者に害意が向けられているならば身内の敵対者として排除すべく一切の躊躇なく攻撃行動を取る。そして、線の内側に属する者達は全幅に信頼し、守り甘やかし、時に無償の奉仕をすることも厭わない。
対して、線の外側の者達には徹底した無関心。外側にいる存在に対しては興味も無ければ容赦も無い。それらは自分には関係の無い有象無象に同じ。晃が認めないままに距離を詰めようとする存在には警戒と威嚇、最悪の場合には排除すらも選択肢となる。
それはある種の潔さでもあるのだろう。だがしかし、彼女のスタンスでは線の内側の存在に対して自身で善悪の評価を付けられないという危うさも孕んでいた。そしてそれを加味して、彼女がどのような人間であるかを簡単に説明するならば身内全肯定、他者排外主義と言える。
つまるところ、晃にとって本来付き合うべき人間は身内だけで、それ以外は正しく顔の無いモブ、その他大勢であり、晃の世界を構築する要素にはなり得ない。晃は本来人間が持っている筈の社会関係を構築する能力に欠けた、言ってしまえば野生動物のような女であった。
元々、他者とのコミュニケーションが得意では無く、身内とそれ以外とをキッチリ分けたがる傾向があったとはいえ、幼少期にはそれ程でもなかった。そんな晃が、正しく野生動物のように身内以外との交友を排するような極端な性格になったのには、彼女自身の経験が影響している。
晃が人間関係に明確な線を引くようになった切っ掛け──それは幼い頃に起こった霊感の萌芽であった。
□
辰巳、官九郎、秀平、恵多の四人が竜養寮の裏山に秘密基地を構築し始め、その作業は順調に進んでいた。
まずは御神木の根本にあった朽ちかけの祠の雨避けを作ろうという話になり、官九郎と秀平が地域活動で顔見知りになっていた近所の爺から、納屋に溜め込んでいた材木を貰ってきた。そして、恵多と辰巳はどのような雨避けが良いのか調べ、簡単に設計を行い、それらをもとに四人は材木を切断しては組み合わせる作業に没頭していた。
その成果か、出来上がった雨避けは若干の拙さはあるものの、四人も満足のゆく、頑丈な造りに仕上げることが出来ていた。
──その一方で、山で遭難しかけ、不思議な体験をした晃は竜養寮に帰ってから高熱を出して一週間ほど寝込むことになっていた。
「カン。アッちゃん、熱出たって聞いたけど大丈夫か?」
「あー? 気にすんな。どうせ知恵熱か何かだろ。寮ではピンピンしてるよ」
「そうなのか?」
「おう。暇そうに毎日ゴロゴロしてるぞ。漫画読んで、飯食って、テレビ見て、寝て」
この、晃が熱を出すのは本当に珍しいことで、当初周囲は何か病気をしたのではないかと心配することになった。しかしながら、本人は熱が中々引かないだけの元気な状態でケロッとしており、普段通りに生活していた。ただ、熱があるということで外に遊びに行くのを禁止にされているそうで、かなり鬱憤が溜まっているらしかった。
「……ただ、アイツ、最近変なこと言い出し始めてよぉ。多分相当ストレス溜まってるんだろうな。風邪とかじゃないっぽいからさ、今度、相手してやってくれよ」
「それはいいけど。その変なことって何だよ?」
「いやぁ、それがさ……」
──曰く、今現在もだが、その熱が出始めてから晃は不思議な夢をよく見るようになったのだと言う。周囲はそれを熱があるからだとか、ストレスのせいだと判断していたが、妙な事もあるのだと。
晃が言うには、それは夢というには余りにもリアルな、五感を伴なうものなのだとか。大人達が言うにはそういった夢のことを明晰夢と呼ぶらしい。しかし、それでそれは一体どのような夢なのかと竜養寮の仲間達に問われれば、口を噤んで肝心の内容は頑として話さないのだという。
「まぁ、人の夢の話なんて聞いても面白い訳じゃないし、無理して聞きたい訳でもないんだけどよ。アイツ、明らかに話聞いて欲しそうにしてる癖に勿体振って言わねぇの。ホント何がしたいんだか」
官九郎は晃が何時までも秘密にして明かさないことに若干呆れているようだった。そして、一方で言い辛いことを言おうとしているのかもしれないとも考えたらしい。
官九郎や秀平は兎も角、英那といった同性にも話さない。ならば晃が妙に心を開いている辰巳であれば、口が軽くなるかもしれないと思ったのだそうだ。
「寮の年長者も大変だな」
「そんなんじゃねぇよ。じゃ、頼んだからな」
「はいよ。取り敢えず会いに行ってみるわ」
──官九郎から話があり、辰巳は秘密基地作りを早目に切り上げてコンビニで買ったアイスを手土産に早速晃に会いに行ってみた。すると、当の晃は寮のリビングで暇そうにテレビを見ていたのだが、窓の外に辰巳の姿を認めると玄関口まで現れて満面の笑みで迎えたのだった。
「兄ちゃん!」
「熱があるって聞いたけど大丈夫か? ほら、アイス」
「わっ、ありがとう。食べていい?」
「いいよ」
「やった。熱は大丈夫! でもそんなことより、暇で死にそう。夏休みなのに遊びに行けないのは地獄だよ……俺も一緒に遊びに行きたいのに」
「ハハハ。熱が下がってからな。そういえば、カンから聞いたんだけど、何か変な夢見るって?」
「あ、うん。……あのさ兄ちゃんだから言うけど、実はさ──」
早速、その夢の事を辰巳が尋ねると、晃は周囲をキョロキョロと見回してから声を小さくして教えてくれた。それは、官九郎が言うような頑としたものでは無く、それはもうアッサリと。むしろ、ようやく話せるといった態度にすら見える。
曰く──その夢の内容というのも不思議なもので、晃が知り得ない光景を映しているのだと言う。南国と思われる砂浜に、行ったことのない場所。交わされる言葉は一応日本語ではあるが、方言がキツく意味は分からない。古びた家の匂いも、南国特有の空気も、現実としか思えず、そこはテレビドラマや旅番組でみたことのある南方の島の雰囲気によく似ていたと。
「身体は動かないし、喋れないから夢だって分かるんだけど、どっちが現実か分からなくなるくらいリアルでさ……俺、その夢の中でお母さんに会ってるんだ」
「へぇ」
夢に毎回登場するのは晃と同じく褐色の肌を持つ女性──おそらくは晃の母と思われる。他にも祖母や曾祖母と思われる女性も登場し、三代に渡る女系の一族が話をする事も出来ないくらいに幼い晃を代わる代わるあやしているのだという。
他にも、母を含めたその女性たちの肌には、共通して矢印やバツ印、四角、丸などの入れ墨が入れらているという特徴があったらしい。それらはテレビや映画で見た事のあるような華美なタトゥーでは無くどこか民族的で、晃にはそれが印象的に映ったと話す。
「夢の中のお母さんは温かくてさ……お婆ちゃんも明るくて、その上の婆ちゃんも優しくて……何言ってるのかはわからないけど……」
そう思い出すように話す。夢の中にある、見知らぬ故郷への郷愁の念を抱いているように。
「なるほどなぁ……それで官九郎達には言えなかったのか」
「うん……何か言いづらくて」
「そうか……官九郎、心配してたみたいだったぞ」
「え、そうなの?」
「あぁ。話したい事がありそうなのに、中々言わないんだって」
寮の中には家族を知らず、自身のルーツに不安や悪感情を持っている子もいる。夢に出てきた女性たちが自身の家族であると直感していた晃は、気を使って家族や生まれ故郷の夢を話すことが出来なかったのだろう。
「……此処が俺の生まれた場所なんだぁって思ったら、何か嬉しくなっちゃってさ。……アイツらには話せないから、タツ兄ちゃんが聞いてくれて良かったよ」
「そっか」
「それに、さ、タツ兄ちゃん……実は俺、いつか夢で見た場所に行ってみたいなぁって。……こんな事言ったら無駄とか、止めとけとか言われるかもしれないけど」
「……無駄なんかじゃないだろ。アッちゃんはお母さんのことを探したいのか?」
不安そうに、だが希望を宿した瞳を持った晃を前に辰巳は何と声をかけたら良いのか迷った。辰巳には母親はいるが、父親はいない。だから、親がいる有り難さも、いない寂しさも少しずつ分かっていたつもりだ。だがそれでも、晃のように物心ついた頃から親と離れている気持ちや、何処かにいるかもしれない親の行方を気にする気持ちは想像しきれなかった。
「……うん。もしかしたらお母さん、そこにいるかもしれないし。別に怒ってる訳じゃないけど、何で俺は竜養寮に預けられたのかとか、俺の事どう思ってるのかとか、気になるし……」
「……そう、だよな」
「……で、でも。あ、あの、さ……」
「ん?」
「でも……やっぱり、一人じゃ不安、だからさ……タツ兄ちゃんが大丈夫な時でいいから……その……一緒に探しに行って、欲しい……」
そう言った晃の姿は普段とは違って弱々しく見えた。これまで良くも悪くも直情的で我儘を言う事もあったが、飾ることなく皆を明るくする姿を見てきた。ただ一方で、周囲に自身の弱みを見せるということは殆ど無かったと思う。そんな晃が弱みを見せ、頼られた事で辰巳は嬉しくなった。
「俺でいいなら。それじゃあ約束だな」
「うんっ!!」
始めは少し不安そうだった晃の様子も、辰巳が了承したことで笑顔に変わった。そこには最早一点の曇りもない。
──いつか、夢で見たあの場所へ。一人で探すには心細すぎる。でも、頼りになる兄がいるなら勇気を持てる気がした。
そう思うと自身のルーツに関わるモヤモヤと、ずっと抱えていた心の奥底にある得体の知れない不安が少し和らいだような気がした。
晃の見た明晰夢──それは霊感の萌芽。変化は晃の中で着実に進行しようとしていた。
□
時は夏休みの真っ只中。朝だというのに既に蝉が合唱し始めており、日射しは強く空気も熱を孕んでいる。そんな夏の盛り。竜養寮での一日が始まろうとしていた。
晃はと言えば、高熱が下がりようやく自由を手に入れて外で遊べるようになっていた。ただ、熱が下がった今でもあの不思議な夢はたまに見るようだ。
そして、それとは別に妙な感覚が芽生えていることにも晃は気づいた。その感覚に気づいたのは、熱が下がってから初めて竜養寮の敷地から出た時の事だった。
「……っ!」
「どうした?」
晃が妙に辺りを警戒するようにキョロキョロと視線を巡らせていた。その様子を不思議に思った寮の年長者である秀平が、どうしたと晃に問う。
「……何か変な感じがするんだ」
「変な感じ?」
「……誰かに見られてるのを感じるって言うか、何かが近くにいるような気がして落ち着かない……」
熱が下がり、不思議な夢を見る頻度も徐々に少なくなって以降、晃は人の気配、目には見えない何かの気配に敏感になっていた。感覚的には視線が感じられたり、背筋がゾワゾワして毛が逆立つような感覚に近い。
「気のせいじゃね? 病み上がりで神経が過敏になってんだろ」
「……そうなのかな。たまに変なモヤモヤした影も見えたりするんだけど」
「……おい、変な事言うのやめろよ。あんまりそういう事言ってると変な奴だって思われるぞ」
「ほんとなんだってば!」
晃の声には不安が混じっているように感じられた。しかし、晃の言葉を秀平はまともに取り合うことはない。
「あっ、ほら彼処とか。何か嫌な感じが」
「やめろって、脅かすなってーの!」
「なんだよ、コエーのか? ダッセーのな秀平」
「あぁっ? ちっ、違うわ! 少しホラーが苦手なだけだ!」
年下の晃の手前、強がりながらも割と本気で嫌がっているような声音でもあった。どうやら秀平は幽霊やオバケといった目には見えない超常的な存在を恐れているようであった。
──新たに萌芽した妙な感覚。夢の内容を周囲に秘密にしていた時とは異なり、晃は今回自身に起きている異変を隠す事をしなかった。
子どもというものは常日頃から面白いものに飢えている。故にそうした話は必然的に寮内でも広まり、子ども達の間で噂されるようになっていった。
「アイツ、最近変なの見えるようになったとか言うようになったけど大丈夫なのか?」
「さぁ……最近は、あの寮外のお気に入りも来てなかったみたいだし、寂しくて構って欲しいってのもあるんじゃねぇの」
「まだ小学生だし、そういうもんなのかね……そんな繊細には見えないのにな」
「まぁ、何かあれば大人達が何とかするだろ」
「えー、なになに? もしかして、晃の話?」
「あぁ、変なのが見えるようになったって言ってるらしいからさ。そんなの現実にある訳ねぇのに」
「えー? 私は幽霊とか信じてるけどなー。正しくは、いないことを否定できないって考えだけど」
「は? いや、普通に考えてありえねーだろ。それだと、宇宙人とか妖怪だっているかもしれねぇってことになるじゃん?」
「別にそれだって存在したって可笑しくはないんじゃないの? ハァ……アンタって想像力がないわよね。それとも怖いのに強がってるだけ? 目に見えない物があるかもしれないってことくらいは男らしく受け止めてみなさいよ」
「はぁ?!」
皆がそう噂し、晃が妙なものを視えるようになったという話は寮の中で急速に広まっていった。そうした面白可笑しい話が広まるのは本当に早いもので、竜養寮に住む子ども達の間ではちょっとした怪談話のような扱いになっていたのだった。
そして、噂に対する反応も様々。秀平のように幽霊の存在自体を頑なに否定したり、晃のことを影でコソコソと噂し、嘘つきや心の病と呼ぶ者がいたり……それとは別に誰それが彼処で何かを見たことがあるらしい。何処何処には幽霊がいるらしいと。目に見えない存在に興味を持って晃に話しかける者もいれば晃のことを心配する者、ただ見えない何かを恐がる者もいて多種多様であった。
「うわ、官九郎、あれ見ろよ。あそこの道路歩いてる奴、モヤモヤがくっついてる。気持ちわりぃー……」
「……お前、絶対人にそういうこと言うなよ。あと俺には何も見えねぇから」
やはり子ども達は娯楽に餓えていたのか、竜養寮の中では一種のオカルトブームが訪れていたが、その一方で、それとは関係なく時を経るごとに晃が見える影はよりはっきりと、見える頻度も増えていった。
それらの晃の見え方は人の顔の無い、黒いモヤモヤした影。どうにも気味が悪く、中にはとても嫌な雰囲気を持った影もいるため、基本的に晃がそれらに警戒して近づく事はない。
それから、影とはまた違った不思議な存在たちも薄ぼんやりと見えるようになっていた。それらは人の住む領域ではあまり姿を見せないようだが、とりわけ自然が豊かで人の手の入っていない場所──例えば山の方では多く見られた。
姿は大小様々、形も多種多様であり、人型もあれば獣のようなもの、それ以外のものもある。それらは例えて言うのであれば妖怪や怪異と呼ばれるような者達なのだろう。彼らの姿も時を経るごとに鮮明に映るようになっていったのである。
──通常そんなものが突然見えるようになれば、自身と環境の変化に大きなストレスを感じることだろう。ただ意外な事に、晃は自身の変化を受け入れ、大きく気を病む事も無く生活することが出来ていた。どうして精神を病むことなく、孤独感に苛まれることもなく過ごすことが出来たのかといえば、それには幾つかの理由があった。
一つ目は、竜養寮の寮長であり、寮に並ぶように建っている寺院の住職が心底善人であり、霊的な存在を視る霊感こそ無いものの何処かの神仏に好まれており、読経によって邪なものを退ける力を持っていたこと。
その為、毎日朝夕の勤めがある寺院の隣に建てられた竜養寮でも霊的な清浄は保たれており、死者の念である影や、死後成仏することが出来ないでいる魂、自然霊や動物霊などを祖とした霊的な存在である妖怪たちが晃の生活圏に近づくことが出来なかったという理由が一つ。
──そしてもう一つ。それは晃と辰巳の関わりにあった。
「うー……」
「どうした? アッちゃん。最近竜養寮の外で遊ばなくなったみたいだけど、まだあんまり体調良くないのか?」
「……タツ兄ちゃん」
晃の目の前には家の用事やら、発熱のせいで中々会えなかったお気に入りの存在、辰巳がいる。晃が現在、その辰巳を僅かなりとも警戒していたのには理由があり、その理由というのが、辰巳の額に金色の線で描いたような目の紋様が見えていたからであった。しかもその紋様は実際の物のように瞬きもする。……眠そうに半開きなのは格好がつかなかったが。
「……おデコにイタズラ書きでもされた?」
「え? なんかついてるか?」
「おデコに目が書かれてる」
「なんだそりゃ」
晃に言われて近くにあったガラス窓に映る自身を見て確認してみるも、そこには特段何も映ることはない。
「何もないな……」
「……兄ちゃん。俺、やっぱり頭がおかしくなっちゃったのかな……官九郎が、変なのが見えるってこと外の人には言うなって」
「あー、そういえば、アッちゃんが何か変なの見えるようになったらしいってカンが言ってたな……マジなのか」
晃が不安そうに言う。自分の見えている物が他の人には見えていない。皆ではないとは言え、自分が嘘をついていると思われている。信じると口では言うものの、本当は信じて貰えていないのだと気づいていた。
──変なものが見えているのは本当の事なのに。
誰一人として本心から共感し、晃の不安に寄り添ってくれる者がいない。子どもに限らず、大人たちも。周囲から向けられる視線の質がどこか疑いを含むものに変わったことで居心地の悪さを感じていたのだろう。普段、輝かんばかりにキラキラしている晃の瞳は曇り、モヤモヤとした感情が渦巻いているようであった。
「ただオバケが見えるのかと思ったけど、俺のおデコにも何か見えるのか……」
「兄ちゃんみたいなのは他の人には無いみたい……官九郎、秀平、恵多くんにも、他の奴らにもないし」
「そうか。でも、何で俺だけ?」
「わかんない」
「そっか……まぁ、いいか。特に何かある訳じゃないし。それじゃあ、アッちゃんが最近何か元気無くて、熱が下がってもあまり外で遊ばなくなったのは、今まで見えなかったものが見えるようになったせい?」
「それは……あはは、うん……」
それは辰巳や官九郎、秀平には分かる微妙な変化だった。前までは溌剌とした笑顔を見せていたが、最近は愛想笑いのようなものを覚えた。それから、あまり一人で外に出かけることも無くなった。
見えているものの正体がわからず、不気味で怖いというのもそうだし、自身の変化への戸惑いや周囲から向けられる視線の居心地の悪さを晃も感じていたのだろう。
ただ異常を隠さないという選択肢を取っただけで、こうも環境は変化してしまう。まだ幼く、多感な年頃の晃には大きなストレスであった。
「……おんぶして」
「えぇ? 暑いんだけど?」
「おんぶ」
そろそろと近づく。初めこそ辰巳の額の落書きに警戒した様子を見せていたが、特に目に見える害はないと判断すると、何時ものようにおんぶをせがんだ。しかし、体温の高い子どもを夏に背負うのはしんどい。辰巳は正直に嫌そうな顔をした。
「スキありっ!」
「あっ、ちょっ」
しかし、晃はそんなこと気にもとめず、猿のようにヒョイと辰巳の背中に飛び付いた。大きな背中だ。そこでムフーと鼻息をつく。そこにいるだけで晃は守られているような安心感を得られるのだ。
「あちー、木陰の涼しいとこに行くか……」
背中からジワジワと熱が伝わり、額に汗が滲む。そう言って辰巳は歩き出した。
──ふと気になって、晃は背中から手を回して辰巳の額をペタペタと触ってみた。触ってみてもやはり特に何も起こらず、手に塗料がつくような事も無い。その感触に辰巳はくすぐったそうに笑う。
「……まぁ、確かに急に変なの見えるようになったら不安にもなるよな。寮は大丈夫なのか?」
「うん。寮の敷地の中には変なのが入ってこれないみたい。それにこの間見たんだけど、寮長先生がお経読むとアイツら溶けるみたいに消えていくんだ」
「へぇー、それはちょっと見てみたいな。先生には言った?」
「言ったー。寮長先生が言うには……何かの切っ掛けで霊感が身に付いたんじゃないかって」
曰く、大きな精神的なショックを受けたり、生死の境を彷徨う……死後の世界に接触したりしてしまうと、そういった霊感と呼ばれるものが芽生えることはあるらしいと。
ただ──
「切っ掛けかぁ……何かあった?」
「んー……特には。熱が出たくらい?」
「そうかぁ。アッちゃんが見たっていう不思議な夢もだけど、霊感って突然出てくることもあるのかな……」
「さぁ……」
そう何とも気の抜けた言葉を交わす。とはいえ、二人が気づいていないだけで切っ掛けは、しっかりと存在していた。
晃が山の中で遭遇した屋敷。それはマヨイガという異界の存在であり、怪異の一種。そこで食べた木の実は異界の産物であったのだ。
──異界の食物を食べる。もしくは、死後の国の竈で煮炊きしたものを食べることをヨモツヘグイと言う。このヨモツヘグイをすると死後の国から現世に戻れなくなる。つまりは、異界から元の世界には戻れなくなると言われており、それは食した者が異界の存在になるからとも、それまでの過去を忘れ、帰る道が分からなくなるからとも言われている。
本来はヨモツヘグイをすれば帰る場所を失う。ただし──マヨイガの言い伝えには、マヨイガに迷い込んだ者には山の神より土産が贈られるという伝承もあるのだ。仮にこれがヨモツヘグイであったとしても、晃の場合、その食べてしまった木の実はマヨイガからの贈り物の一種であったのだろう。
「でも霊感かぁ。何か特別感あってカッコいいじゃん」
「……やだよ、こんなの。変なのが近くにいるだけで気分悪いのに、あいつら俺が見えてるって分かると近寄って来ようとするんだぜ」
「マジか」
「しかも、寮の外は結構いるみたいだしさ」
オチオチ遊びに行けなくなっちった。そう、弱ったように言う。辰巳も晃の言葉を信じていない訳ではなかったが、晃が元気がないのはあまり見たことがなかった為、嘘を言っているようには到底思えなかった。
「……俺、ずっとこのままなのかなぁ。秀平とか他の奴らは、黒い影が見えるって言ったら俺のこと嘘つきだって、目立って構って欲しいだけだろって言ってるみたいだし。俺、嫌われちゃったのかな……」
何とも酷い話だった。年下の子の話すことくらい黙って聞いてあげればいいものを。辰巳は今度、秀平に嫌味を言ってやろうと思った。
「でも嘘ついてないんだろ?」
「嘘なんてつくわけ無い!」
勢いよく否定した。嘘なんてついていないのだろうと、辰巳も思う。でなければ、すごい演技力だ。もしも嘘ならば、すっかり騙されてる。それこそ才能だとも。
「なら、そんなに気にするなよ。皆、アッちゃんが見えてるものは見えないからさ。どうしても自分が見えてるものが全部だと思っちゃうんだよ」
事実、人とはそういうものだと辰巳は思っていたから。自分の目で確かめたことは中々疑うことが出来ないと、自分が見えている世界が全てなのだと思いがちで、それ以外の世界は中々想像出来ないのだと。
思い返してみると不思議だった体験、どこかで見たことのあるような既視感、自身の第六感とも言える直感も。それら全て実際に現実にあったことなのに、母に全てを否定された経験は辰巳にもあったから。
「……それは兄ちゃんも?」
「どうかな。俺は別に目に見えるものが全てとは思ってないよ──まぁ、アッちゃんの言うことも分からないでもないし。何となーく、何かありそうみたいな感覚はあるんだ。だからといって、アッちゃんの感じてるものと全く一緒って訳でもないんだろうけど……」
例えばあそことか──そう言って指を指した向こうには……電柱があり、晃視点その影になっている場所には黒いモヤモヤがいた。
辰巳がモヤモヤの場所を言い当てたことに、晃は目をパチクリさせて驚いた。
「本当は兄ちゃんも見えてる?」
「いや、全然。やっぱり何かいる?」
うん、と晃が驚いた様子でコクコクと頷き、辰巳が笑った。晃の目にはハッキリと見えているが、辰巳には見えていない。だけど、何かがありそうだと分かるのだ。
「見えないけど分かる人もいるんだ……」
「はは。アッちゃんは少し変わった何かが見えるようになっただけって思ってるのかもしれないけどさ、きっとそれで周りも戸惑ってるんだと思う」
「そうなの?」
「皆、アッちゃんが嘘ついてないことくらい本当は分かってる。だけど、目には見えない何かがあるって受け入れるのは、それまでの自分を否定することにもなるからさ。自分を否定されるのが辛いって分かるだろ?」
「うん」
「その内、慣れて受け入れてくれるさ。だから、そんなに心配もしなくて大丈夫だ。皆、その程度でアッちゃんを嫌ったりしないし、アッちゃんの根っこの部分は何も変わらねーんだから」
「根っこの部分?」
訥々と語る。長々と話すのは辰巳には珍しいことで、途中、口籠ったり、途切れ途切れになりながらも言葉を紡ぐ。年下の、弟のような存在が抱いているだろう不安を払拭し、心配いらないという事を伝える為に。
「おー。いつも元気で、皆を明るくしてくれる。竜養寮の年下にも優しくしてるし、面倒見も良い。あと、意外と甘えん坊なとことかな。皆が知ってることだ」
笑いながら話す。それこそが辰巳の思う、寮の皆が知っている晃の姿なのだと。
「あっ、甘えん坊なんかじゃないっ」
「そうかー? なら、おんぶはもう卒業でいいよな。もう3年生なんだしな」
「それは……やだ」
「ハハ。ほらな、やっぱ甘えん坊だ。何か見えるようになっても、本当のとこは大して変わらないんだよ」
「……」
寮の外に住む、兄のような存在の背中を広く感じた。恥ずかしくも、受け入れられていることに心底安心する。だから晃は辰巳のことが大好きだった。
「ならさ……なら、兄ちゃんは俺のこと嘘つきだとか、気味が悪いだとか思ったりしない?」
「しないよ、そんなの。いいか、アッちゃん。言いたい奴には好きに言わせとけばいい。そいつはアッちゃんのこと分かってない奴ってだけなんだから。仲良くできない奴の話なんて聞くだけ損だろ」
晃が確かめるように聞く。答えなど分かりきっていようとも、聞きたい言葉はあるのだ。
しかし、一方の辰巳も年下の子がウンウンと何でも素直に話を聞いてくれるものだから話していて気持ちよくなってしまった部分もあるのだろう。少々、言葉の火力が強くなってしまっていた。
「そっか……うん、そうする! えへへ、だからタツ兄ちゃんは好きー」
「あっつい! おんぶだけでも暑いのに、そんなくっつくなよ……」
「ヤダー!」
傍目、二人は仲睦まじい兄弟にしか見えない。晃には辰巳という自身を肯定してくれる味方がおり、竜養寮の仲間たちも何だかんだ言いつつ晃の事を心配してくれている。晃の周囲には味方が沢山いて、孤独感に苛まれるような環境でなかったことは、とても幸運なことだったのだ。
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