第4話 涙

 あれ、俺って死んだはずじゃ……?


 ぬるま湯でぷかぷかと浮かびながら、まぶたをゆっくりと開けるようなイメージ。あるいは水の底から浮上する泡のような、そんな感覚。


 どちらも近いけど、どちらかというと後者だった。


 意識が徐々にはっきりしてきて、まず最初に感じたのは――

 視界いっぱいに広がる七人の姉妹の顔と、カラっとした喉の渇き。


 そして、自分の体が妙に重いことにも気づいた。


 にしてもこれは一体どういう展開だ。天使たちが俺の顔をのぞき込んでいる。


 閻魔大王様はどこだ。

 やはり、ここは天国なのか。


ゆう! ゆうっ!」


 俺に抱きついてきたのは天使たち、ではなく、姉ちゃんだった。

 おふくろも親父もいる。


 俺はどうやら病院のベッドに寝かされていたようだ。


 天井は高くて清潔。


 ベッドも病的に真っ白。


「天国、じゃない、か。……でも地獄でもなさそうだ」


 俺は無意識に、そうつぶやいていた。



 ☆



 姉ちゃんは俺に抱きついてくるなり、わんわんと大声で泣き始めた。

 いつもの豪快な姿からは想像できないほど、弱々しく、震えているのがわかってしまった。


「お父さん、夕が生きてたわよ。一度、成仏すればよかったのにね」


「ああ、その通りだな母さん。もう葬式の準備もしていたのに」


「……ひでえ、流石は俺の親だ」


 目覚めるなり、実の親にそんな扱いをされるとは想像もしなかった――というわけでもない。

 おふくろと親父の毒舌は、相変わらずで逆に安心した。


 現実に引き戻されたというべきか、俺は生還したのだと実感した。


 病室には俺を含めて十三人。

 親父、おふくろ、姉ちゃん、七姉妹。看護師と担当の医師だ。


 すごい圧迫感。

 広い病室が、とても狭く感じるほどの人の多さ。


 俺は点滴の針が刺さった腕に目を落とす。

 

 医者は、奇跡だ、と何度も口にしていた。



 ☆



 しばらくして、担当医と看護師は部屋から出て行った。

 そこで、俺はようやく、ゆっくりと周りを見渡すことができるようになった。


「……えっと、あいつは……指名手配犯は?」


 俺は両親にたずねた。


「捕まったわよ。あんたに報奨金が支払われるらしいわ」


「墓代と酒代にしようと思ってたんだが、生き返っちまうとは思わなかった。流石は俺の息子なだけあってしぶといな」


「……息子の手柄を墓代にあてるのは流石にひどいだろ、親父」


「何が手柄よ、あんた天野さんちに許可なく忍び込んだんでしょ? 犯罪よ、犯罪」


「もうママもパパも、夕のことこれ以上いじめないの。夕、生き返ってくれて本当によかったわ」


 姉ちゃんは相変わらずブラコンだ。


「夕、自分がしでかしたことわかってるわね」


「あぁ……うん」


「まったく、これだからうちのバカ息子は……」


 毒を吐くおふくろの、その涙に濡れた瞳を見ると、俺はちょっといたたまれない気持ちになった。

 なんだかんだで、俺のことを心配してくれる優しい親だということは、わかっているから。


「天野さん……うちのバカ息子が本当にごめんなさいね。ほら、お父さんも謝って」


「すまなかったね。夕はその、一度決めたら曲げない性格でね。経緯、結果はどうあれ、キミたちの家に勝手に忍び込んだのは事実だ。どうか、この通り、許してくれないだろうか?」


 天使たちに向かって頭を下げる両親。


「頭を上げてください……あたしも姉も妹たちも、命を助けてくれた恩人に感謝こそすれ、恨むことなどありません」


 一番最初に頭を下げたのは、かがりだった。


「どうして、息子さん……笹川くんのことをそんな風に悪く言うんですか? あたし、笹川くんのこと全部知っているわけではないですけど、それでも悪い人じゃないってことはわかります」


 かがりがまっすぐな瞳で、おふくろと親父を見つめた。

 両親は顔を見合わせる。


「少し……長くなるけど、聞いてくれる? 天野さんの家もご近所であることだし」



 ☆


 

 おふくろは俺の過去について語り始めた。


 境界性パーソナリティ障害。

 

 見捨てられることを恐れ、見捨てられることに過剰な恐怖を抱き、自分を守るために、自分の存在価値を必死でアピールする。

 それが、俺が持って生まれた障害。


 後天的ではなく先天的に、だ。


 当時は自分が障害を持ってるなんて思っていなかった。

 自然と、それを克服しようと思ってたんだろ、俺はとにかく知人を沢山作ろうと思った。

 そう、恐れに対してむしろ一歩前に出ようと思ったのだ。


 で、知り合った人たちは絶対に大切にしよう、と心に誓った。


 十二歳の時だ。

 近所のお爺さんと仲良くなった俺は、よく公園で一緒にブランコを漕いだり、砂場で遊んだりしていた。


 お爺さんはガキの俺に、いろんなことを教えてくれた。

 お金の大切さとか、人を思いやることだとか、本当にいろいろだ。

 俺もお爺さんのおかげで、それなりに成長したんだと思う。

 

 そんなある冬のこと。

 お爺さんを外で見かけなくなって、一週間くらいが経った頃。


 俺は自分が嫌われたのだと思って、軽いパニックに陥った。

 嫌われた、見捨てられた、どうしよう、とパニック状態に陥ってしまったのだ。


 ただ、そんな人じゃないってことも心のどこかではわかってたから、俺は、お爺さんの様子を見に行こうと思った。


 家は近所だった。だからすぐ様子を見に行くことができた。

 凍死してるんじゃないのか? とか、いろいろ不安に思っていた。


 一週間も見かけていないのだ。


 小学生ながら、このまま会うことがなかったら、俺はもう一生会えないんじゃないのか、と本気で思っていた。


 だから木によじのぼり、お爺さんの家の二階から侵入した。


 今となれば、それが犯罪であることもわかるけれど、当時の俺は必死だった。

 誰にも見られていないからいい、と本気で思っていたのだ。


 お爺さんの家は、しーんとしていた。


 俺はお爺さんを必死で探した。


 結局、一階でテレビを観ていたお爺さんを発見することができたのだが、俺のことを泥棒だと思ったお爺さんはぎっくり腰で全治一ヶ月。


 子供のイタズラってことで済ましてくれたその人は、もうこの世にはいない。

 八十二歳で他界した。


 ご近所の島田さんっていうお爺さんだった。

 ぎっくり腰から完治した島田さんが「寒いから外に出なかったんだ、わはは」と笑っていた、あの光景を今でも思い出せる。


 そういうことが『何度』かあり、中学一年生のとき、俺は両親に連れられ病院に行き、そこで発覚したのが――


 境界性パーソナリティ障害。


 俺は、人よりも過敏に他人の感情や態度を感じ取り、嫌われることに異常なまでの恐怖を抱き、見捨てられることに過剰な恐怖を抱く障害の一種だと告げられたのだ。


 俺は自分を普通だと思っていた。


 でも普通じゃないってわかったから、できるだけ普通にいよう、そう決めた。


 天野姉妹に近づいたのはそういうものとは無関係。

 多分、心の底から仲良くなりたかった、それだけだと思う。


 ――ただ、俺の習性と言えばいいのか、人を観察する癖、人に嫌われる恐怖は治っていないのだ。

 だから俺は、また――やってしまったと思い、もし天野姉妹に謝罪することで許してもらえるのであれば、そうしようと思っていた。


 そういう機会を待っていたのかもしれないし、……もしかしたら、俺の悪い部分がまた現れて、天野家へと足を進ませたのかもしれない。

 

 でも、今回のは……完全に俺が悪い。

 

 なにせ俺は、そもそも天野姉妹と仲良くなってさえいなかったのだから。

 仲が良ければ問題ない、というもかなり違うけど、信頼関係があるとないとでは天と地の差がある。


 今回の一件を障害のせいにすることはできないし、言い訳できない。

 謝って済む問題じゃないのかもしれない、でも俺は、天野姉妹に謝罪したかった。


 おふくろは、そんな俺のあれやこれやを天野姉妹に説明した。

 

 両親がなぜ毒舌なのか?

 それは言葉と感情は一致するとは限らない、ということを俺に教えるため。


 当時の俺は誰かの言葉を言葉通りのに受け取り、嫌いと言われたらパニックを起こし、冗談だとかノリだとか、そういった言葉の裏を読むことができなかった。


 でも今は違う。


 おふくろや親父が冗談で言ったことも、友達がかっとばしてくるジョークも。

 死ね、とか、キモイ、とか、そういうものすべてに『感情』があるかどうかを、考えるようにしてるのだ。


 だから、天野姉妹がどんな風に思うのか――それも想像してしまう。


 喫茶店でかがりに言ってもらった忠告。


 あれは優しさだとわかっている。


 でも、だからこそ怖くなる。


 ――キモチワルイ

 ――空気が読めない

 ――距離感が近い

 ――人のことジロジロ見すぎ

 ――反応が遅い


 たくさんの、たくさんの、たくさんの、誰かのそんな態度や言葉を気にしないように生きてきたはずの俺が……


 天使たちの一挙手一投足を気にしてしまう。

 こんなに近くにいるのに、彼女たちのことをまともに見れない。


 おふくろは説明したあと、深く頭を下げて謝った。

 俺が生きてたこと、過去のこと、色々なものが込み上がってきたのだろう、途中からはずっと泣いていた。


 そして、家族全員で――

 親父もおふくろも姉ちゃんも俺も、天野姉妹に頭を下げた。


 俺のために謝罪してくれる家族に感謝しながら、俺は、かがりの泣き声を聞いていた。


「ごめんなさい……」


 なぜ、かがりが謝るのかも、他の姉妹たちが頭を下げているのかも、俺にはわからない。


 それはおふくろへの謝罪だったのかもしれない。

 もしかしたら俺へのものだったのかもしれない。


 でも、

 

 悪いのは俺で、天使たちではないのだ。

 障害だとかそんなものは関係ないのだ。


 同情、なんてして欲しくないのだ。


 だけど、どうすればいいのかわからない。

 

 俺が過ちをおかした事実はどうしようもないほど現実で、全部聞かれてしまった以上は、俺が思い描いた関係にはもうなれないのだ。


 そもそも、一度忠告されてるわけで。


 かがりの泣き声が響く中、俺はそう思った。

 そう思っていたのは――俺だけだった、とすぐに知ることになる。



 ☆



 あれから警察の人やら刑事さんやら、いろいろな人が病室にやってきてはいろいろ話をしていた。

 俺はどういう状況でそうなったかを事細かに説明し、指名手配犯とどんな会話をしたか等、話せることはすべて話した。


 天野姉妹たちにも事情聴取をしているらしく、天使たちが負った傷は俺よりも深いものなんだろうな、と思った。


 そんなこんなで月曜日が終わり、

 

 火曜日になっても俺はベッドから出ることができなかった。

 まだ一週間は入院しなければならなくて、今は自由の効く左手でスマホをいじっている。


 入院生活なんて退屈だと思っていたけれど、――来客がやってきた。



 ☆


 

 コンコン、とノックの音がした。

 返事をしようと思ったけれど、声がうまく出なかった。

 病室に入ってきたのは――かがりだった。


 今日は火曜日のはず、学校は?

 とか、そんなことを言おうとしたが、声がうまく出ない。


 どうして来たんだろう、とか、そっちの方が気になった。

 かがりは、俺が横になっているベッドまで近づいてくると、にかっと笑った。


 俺は思わず、スマホを落としそうになってしまった。

 なんで、笑うの?

 そんな疑問が頭の中をぐるぐるする。


  かがりの用件は、お見舞いということだった。

 ……なんだか気恥ずかしそうにしながらそんなことを言うもんだから、かわいいと思ってしまったけれど――そんなことを考えている場合ではないと思い直す。


「改めてごめん。かがりとの約束、その日のうちに破っちゃったな」


「もう、そのことはいいんだって。てかさ、怖くなかった? とか、夢に出ない? とか、あたしのこと気遣ってくれる言葉はないわけ?」


 かがりは、そんなことを言った。

 俺はびっくりしてしまって、返事ができなかった。


「いや……その、事件のことはあまり触れないほうが、いいのかなって」


「どうして?」


「……怖い想いをしたんだから、その……思い出させない方いいと思ったから……」


 俺がそう言うと、かがりはまたも笑うのだった。


「ま、たしかに超怖かったけど、意外とあたしらケロンとしてるよ。誰かさんのおかげでさ」


「え、あ……」


「けっこう一瞬のことだったから、実感はあるけど、実害はない? っていうのかにゃ。ま、あたしとか、唯姉はそうでもなくて、樹理とか今回の事件の確率? っていうの、なんぶんのなにで起こるとか調べてるぐらいだし、あ、でも他の妹たちはまだちょっぴり怖がってるかにゃ」


「かがりはうそつきだな」


 俺は、そう言わずにはいられなかった。

 馬乗りされていたのはかがりだ。

 多分、かがりが一番怖い想いをしたのに、ケロンとしているという言葉は、どう考えても噓だ。


「にゃはは、やっぱりわかる?」


「うん、なんとなく」


 かがりは、ふぅ、とため息をついた。

 そして――ぽつりぽつりと話し始めた。


「怖かったよ。そりゃもう、超怖かったし……死ぬかと思ったというかさ。正直、まだ家の中を歩くのが怖い。ポリが出入りするたび思い出すし」


「……ポリ?」


「そこ反応するとこ? ポリスだからポリ。いいでしょ、呼び方なんかなんだって……」


「まあ、かがりらしいけど」


「どういう意味だにゃそれ、あたしらしいって」


 かがりは、わざと怒ってますアピールをしてきた。

 俺はそんなかがりに、思わず笑ってしまった。


 笑いながら、ちょっとだけお腹に違和感をおぼえた。

 痛みはない。けど刺されたところに、まだ包丁の感触が残っているような、そんな違和感だった。


 でも――かがりが俺のことを恨んでない、と、そういう態度で接してくれるから、肩の荷はおりたような気がした。


「そのまんまの意味、かな。かがりはその……自分を表現するのがうまいっていうか、自由奔放なところがいいよ」


 俺は、素直に思っていることを口にした。


「な、なにそれ……あたしのこと知らないくせに。てか、そっちだけかがり呼びズルくない? あたしも夕って呼んでいい?」


「それは構わないけど。そのさ、俺にはもう近づかない方がいいと思う。……かがりも聞いたただろ、俺のこと、怖くなったはず……」


 俺はそう言っている途中だったけれど、かがりは俺が喋っている途中で言葉を遮った。

 俺の頭にゲンコツを食らわせる形で。


 ぽこんと軽い音がして、ちょっと痛い程度で済んでしまったのは、きっと手加減してくれたからだと思う。

 まあ怪我人に手をあげるのはどうなんだ、とも思うが。


「まーだ、そんなこと言ってる。形はどうあれ、もう怖い人なんて言えないから。てか、あたしも唯姉も妹たちも、そんな薄情じゃないし……。あ、そだ、明日はりょうが来るって言ってたから、あの子のことよろしくね?」


「さ、三女の天野涼さん……?」


「同級生なのに、なんでさん付けなのよ……ま、でもそゆこと! 七人同時じゃさ、夕の傷に響くかなァって話になって、曜日別にお見舞いに行こうってことになったの。今日はあたしね」


「な、なるほど……俺は、何を話せばいいんだろうか」


「いやいや、仲良くなりたいとか言ってたのは夕の方でしょ。今さらあたしにそんなこと相談する?」


 かがりは、俺のベッドの隣に椅子を引き寄せて座ると、足を組んで頬杖をついた。

 そして――にかっと笑った。


「あたしとはどんな話したい?」


「あー、じゃあ……好きなものとか、趣味とか。そっちは俺に質問とかないの?」


 俺がそう言うと、かがりはにかっと八重歯を覗かせながら笑った。

 そして――俺の予想を遥かに超えた質問をぶつけてきたのだった。


「夕はさ、好きな人とかいるん?」

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